シンデレラボーイの憂鬱な日2
「なにこれ?」
ある日、ペンケースを突っ込んだ机の奥で、なにかがかさりと音を立てたのに気付いて、直姫は中を覗き込んだ。
奥のほうで、白い紙が丸まっている。
引っ張り出して広げると、二つ折りになったそれには、手書きの文字が大きく書かれていた。
「『主役をおりろ』? はあ……」
まさか今時、こんな古風なことをする人がいるとは。顔には少しも出さない驚きで、裏返したり光に翳してみたり、思わずまじまじと観察してしまった。
罫線の入った白い紙は、丁寧ではあるものの端に破られた跡があり、ノートを破り取ったものだろうと思われる。そこに、筆跡を隠すためなのか、妙に角張った文字で、そんなメッセージが記されていたのだ。なにを意図してか筆で描いたのだろう、乾燥した絵の具のような塗料がかさかさと指に引っ掛かる。
直姫は顎に手を当てて、考えるポーズを取る。なにしろ実際には、まったくもって考えるまでもないのだ。
(やっぱキスシーンだよね……)
例のシンデレラの劇中にキスシーンがあると気付いたのは、稽古が始まってから二日目のことだった。
配役が決まってから脚本を書いたのだから、それほど冒険しているはずはないと、油断していたとも言える。直姫なんて、台本を改めて読んだ真琴に言われて、ようやく気付いたくらいだ。
もちろん抗議はしてみたが、麗華のよくわからない理論展開に煙に巻かれて、なんとなく了承したことになってしまった。
あまりに大真面目な顔で言うので、なんとも言い返しようがなかったのだ。
「大友さん、これどういうこと?」
「どうって、ラストシーンですわ。二人の抱擁とキスで幕が下りますの」
「いや、だから、キスシーンって! だって僕たち……」
「わかっていますわ、お二人とも殿方なのにと、そういうことですわね?」
力強く頷く彼女に、真琴がいくらか安心した顔をする。
だが、麗華はつらつらと言葉を続けた。
「そうなんですの、私も正直迷いましたわ。でも考えてみてくださらない? 男女でキスシーンを演じれば、佐野くんの相手役の子は、あなたのファンに謂われのない中傷を受けるかもしれませんわ。もちろんそんな酷いことをする方がこの悠綺高校にいるなんて思ってはいませんけれど、なにしろ恋をすると女の子は周りが見えなくなりますのよ。あるいは彼女は、プロの俳優相手にヒロインを努めるプレッシャーに負けてしまうかも。けれど男の子同士ならどうでしょう? 至近距離でじゃれあったところで、それはスキンシップの範疇ですわ。例え片方が可愛らしいお嬢さんに扮装していたとしても、なんら問題ないと思いませんこと? それに直姫くんは佐野くんのご友人ですから、他の誰よりもプレッシャーに打ち勝つことができると思いましたの。ご理解いただけまして?」
そこまで言い切って、彼女は小首を傾げる。
高波のように押し寄せる声と言葉に、たっぷり五秒の間を置いて、真琴は「え?」と聞き返した。口も開けたままで、目も丸く見開かれている。唖然、という言葉がこれほど似合う表情はないだろう、というかんじだった。
え、だの、あぁいや……だの、しばらく音だけを意味なく発してから、ようやく思考が追い付いたのか、真琴は真剣な顔で言った。
「あ、あの……どうしてキスシーンは絶対なきゃいけないもの、みたいになってるんですか」
「いやですわ、佐野くん。なにを言っていますの?」
麗華は、にっこりと微笑んだ。
可愛らしい笑顔ではあるが、だがそれは真琴や直姫にとっては、ただのとどめといってよかった。
「だって、ラブストーリーはキスシーンで終わるものと決まっているでしょう?」
◇
最後には結ばれる二人の役だろうがロマンチックなシーンだろうが、すべては“仲の良い少年たちのスキンシップ”で済まされるのだ。“友達同士”なのだから、恋する乙女にライバルとして妬まれることもあるまい。
それが麗華の主張であったのだが、でも結局は、こうだ。
直姫が実は女だということが誰かに気付かれている、ということもないだろう。自分で言うのもなんではあるが、これで意外に上手くやっているのだ。
(大友さんが言ってた……女の子は恋のためならアホになりますの? だっけ)
「直姫? おはよ、どうしたの。今日は早いね」
くしゃ。
聞き慣れた声とこの教室では唯一の呼び方に、直姫は咄嗟に掌の中で手紙を丸めた。
真琴には見せないほうがいい。入学してはじめての行事、それが全校生徒の見る大舞台なんて、クラスメイトたちもみな緊張しているのだ。
それでなくても、真琴はただでさえ少し心配しすぎるきらいがある。わざわざ不吉な種を蒔いて不安にさせることもない。
直姫は掌を開かないまま、相変わらず眠そうに、言った。
「はよ、真琴」
◇◇◇
準備が順調だろうが順調でなかろうが、当然その日はやってくる。
定期発表会の日、本番直前。一年B組の生徒たちは、舞台の袖に集まった。
「直姫くん、佐野くん、大丈夫ですか?」
松浦嬢が心配そうに声をかけたのは、主に真琴へだった。
直姫が少し呆れたような視線を送る先で、さっきから掌に「人」という字を書き続けている。
「ああああどうしよう……緊張してお腹空いてきちゃったよ」
「なんで真琴が緊張してんの? プロなのに」
「だからだよ! 失敗なんてしたらお仕事続けらんないかも」
「そんな重く考えなくていいでしょ……あと、お腹はいっつも空いてるじゃん」
一人ぼっちの子犬のような表情のまま顔を強張らせる真琴に、直姫は袋入りのクッキーとお茶のペットボトルを渡した。
他の生徒に比べると、直姫は持ち前のマイペースさでそれほど緊張を感じていないようだ。そんな彼女でも、端からは全く分からないくらいには、いつもより少し落ち着きがない。
だが、直姫はもちろん、真琴さえも遥かに凌駕する人物が一人、いた。
薄暗い隅のほうでがちがちに固まっている、小柄な体をさらに小さく縮こめた男子生徒だ。あまりに堅く構えているその背中に、真琴がおずおずと声をかける。
「委員長……大丈夫?」
「だだだだだいじょうっ、ぶ! だよ、うんっ」
「め、眼鏡逆さまだよ」
「えっ? あっ、ああ、ハハ、ハハハハハ」
裏方なのだから舞台には上がらないというのに、緊張のあまりに舌も回らず、指も震えている。少しも大丈夫ではないことが一目瞭然である。
一人はかちこち、そんな彼の様子に緊張を煽られている一人を、残るもう一人が半眼で眺める。そんな彼らのもとへ近寄ってきたのは、凛とした朗らかな声だった。
「大丈夫ですわ委員長、稽古通りにやれば絶対にうまくいきます!」
一際通りのいい、お嬢様口調。
今回やけに張り切って指揮を取っている、彼女だ。
「お、大友さん……」
「私たちが舞台に上がるからには、必ず観客を楽しませて見せます! 委員長、あなたは大船に乗ったつもりで、ご自分の役目を全うしてくださいまし」
「そ、そっか……なんだか、大友さんがそう言うなら大丈夫な気がしてきたよ!」
「ええ委員長、大友の名に二言はありませんことよ。それに、委員長であるあなたがそんなことでは、皆さんを不安がらせてしまいますわ。しっかりなさい!」
大友麗華嬢の根も葉もない激励の言葉に、山田琢己はやっと少し笑顔を浮かべられた。
くどいようだが、彼は裏方なので舞台に上がることはない。本番での彼の役割はといえば、主に舞台袖からクラスメイトを見守ることである。
それでも麗華の自信に満ちた言葉に、同じように皆少なからず奮い立たされたのだった。
◇
そしてついに、幕は上がる。
一年B組の親睦会が、異例の定期発表会での演劇だという話は、すでに学校中に知れ渡っていた。
貧乏人の少女と富豪の一人息子という、身分違いの二人の禁断のラブロマンスに、観客の盛り上がりは予想以上だ。
しかも主役を演じているのが、常に注目度の高い“あの”生徒会、新入りの美少年二人。おまけに片方は女装、もう片方は人気実力ともに今ナンバーワンの俳優、佐野真琴。
話題性は十分すぎるほどだ。
これを楽しみにしていた観客も、ずいぶんいたのだろう。
華やかなパーティーのシーン、主役の二人が出会う場面などでは、まるでアイドルのコンサートのような歓声さえ起こっていた。劇も中盤を終える頃には、会場の熱気や空気に酔って体調を崩す生徒まで出ていたくらいだ。
そしてそんな中、事件は起こった。
◇
「捻挫!?」
ステージ裏の小部屋に重なって響くのは、麗華と真琴の声だ。
そんな二人の正面、椅子に腰掛けた直姫を、クラスメイトたちが不安げに見ている。彼女の手には氷嚢が握られ、それは左足首に当てられていた。
「さっき、袖でなにかに躓いちゃって……」
衣装が動き辛いことや、急いで移動していたこと、ステージ裏の独特の暗さなども相まって、体勢を立て直しきれなくて、足を捻ってしまったのだ。
そこは本来なら機材を置いたりしてはいけない、通り道になる場所である。練習と打ち合わせを何度も重ねてきた一年B組の生徒が、それをわかっていないはずはない。
なにに躓いたのかは暗くてよく見えなかったが、直姫の脳裏を、あの手紙のことが過っていた。
あれが机に入っていたのは確か、クラス全員に台本が配られたすぐあとのことだ。
シナリオにキスシーンがあることは、このクラスの人間しか知らなかったはずである。つまりあの手紙を書いた人物は、この一年B組の中にいるということなのだ。
ここまでは、大体予測はついていた。
しかし盲点が一つ。
同じクラス、ということは、物理的な距離も近い。脅迫を無視した直姫に危害を加える機会など、いくらでもあるのだ。
クラス全体に声明を出すでもなく、直姫一人だけに来た脅迫状。恐らくクラスの調和は乱したくないと考えられる。
直姫に役は降りてほしいが、劇をぶち壊しにするのは嫌だ、そんなふうに考えていると、直姫は思っていた。
だからこそ、劇の失敗を省みず、本番中に危害を加えてくることはないだろうと、高をくくっていたのだが。
(油断した……)
しかし、だからといって、今になって直姫が役を降りることなど、できるわけがない。劇の失敗云々よりも、個人的に、そんなことで自分が負けを認めるのが気に食わないのだ。
妙なところで負けず嫌いな直姫は、この際なにがなんでもこの劇をやり通すことを、半ば反抗心によって決意していた。
「大丈夫ですの?」
「痛くありませんか?」
松浦嬢や他の生徒が、怪我をした直姫を心配して声を掛けてくれる。本当は、この中に自分に悪意を向けている人物がいるなんて、いまいちピンとこない。
だが、それ意外には考えようがないのだ。
きっと真琴の熱狂的ファンの仕業なのだろう。
「平気だよ、怪我は軽いし。劇もあと少しだから、がんばろ」
そう言って直姫が薄く微笑むと、不安な顔をしていたクラスメイトたちが、少なからず安堵の表情を浮かべる。
直姫の足にはサポーターが巻かれ、そのまま劇は続行されたのだった。
◇
いよいよ劇も終盤に差し掛かった。
真琴演じる蛍(ケイ)がアメリカへと旅立つことになり、空港へ駆け付けた奈緒子と、互いの気持ちを伝え合う場面だ。
「蛍さま……私、あなたのことが!」
「奈緒子っ! 僕と一緒に来てほしい……!」
駆け寄り、固く抱き合う二人。台本を見た真琴が、ぼそりと「相手、僕でよかったね」と呟いていた場面だ。
固唾を呑んで見守る観客の間には、しんとした静寂の隙間にわずかなざわめきが広がり、ハンカチを片手に嗚咽を漏らしている女子生徒も多い。
そしてついに、残すところはラストのキスシーンだけとなった、その時だった。
「二人とも、危ない!!」
本番での役目はないはずの、そして内気なはずの山田琢己の、今まで聞いたことのないような大声が響いた。
驚いて舞台袖の彼に目をやると、上を指差して「避けて!!」ともう一度叫んだ。
頭上を見上げた直姫と真琴は、思わず目を瞠る。顔を上げた瞬間、二人の真上に設置されていた照明器具が外れて、落下してくるのが見えたのだ。
「え、うわ……っ」
「直姫っ!」
後ずさった拍子に、足首がズキリと痛んで、直姫はよろめいた。
真琴が咄嗟にそれを庇って、二人一緒に倒れ込む。
――がしゃん、照明が叩き付けられた音が、やけに大きく響いた。
あまりの出来事に、客席もしんと静まり返っていた。
割れた硝子の破片や、砕けた機械の部品が、舞台上に散らばる。
次の瞬間、客席からは大小の悲鳴が上がった。
真琴の肩越しにそれを聞きながら、直姫は詰めていた息を吐いた。せっかくここまで、自分の捻挫以外は何事もなく進んでいたというのに。
しかし深く考える間もなく、視界にちらちらと白いものが入って、直姫は舞台袖に再び目を移した。
『佐野、そのままなんとか続けて』
山田琢己が、黒い太字が書かれたスケッチブックを掲げている。
直姫にアドリブの芝居をこなす技量はもちろんない。だからあえて、真琴へ名指しの指示なのだろう。
あくまで自然な仕草でその文字を見た真琴は、ちらりと直姫と目を見合わせた。それから直姫の手を引いて、立ち上がる。
「奈緒子……大丈夫、怪我はない?」
その目が伝えようとしていることをなんとか汲み取って、直姫は頷いて返事を返した。とにかく今は、劇を無事に終わらせることを考えなければいけない。
さすがプロというべきか、真琴の表情には、いつもの困った顔や苦笑いは、少しも感じられない。
それに関心しながらも、言葉を選んでいることを悟られないように、なんとか倣う。
「ほんとに危なっかしいな、君は」
「でも、蛍さまが守ってくれるんでしょう? 今みたいに」
そう言って笑い合って、二人はもう一度抱き合った。
予期せぬ事故に観客も戸惑ったとはいえ、彼らの即興の演技によって、歓声と会場一杯の拍手のもと、幕は降りたのだった。
「佐野くん西林寺くんっ、大丈夫ですか!?」
「怪我はない!?」
舞台から降りた二人に、心配顔のクラスメイトたちが次々と集まってきた。その中の一人は、深く肩を落としている。
「きっとライトを固定するネジが緩んでたんだ。僕がちゃんとチェックしておけば……」
「え、委員長のせいじゃないよ」
「そうだよ、委員長が叫んでくれなかったら危ないところだったんだよ。むしろ感謝してるくらいだよ」
「そうですわ!」
高らかな声を上げて琢己の肩に手を置いたのはやはり、我らが舞台監督兼脚本家、親睦会実行委員、そしてもう一人の学級委員長である、大友麗華嬢だ。
委員長を慰め励ますためかと誰もが思いきや、彼女は満面の笑顔で言い放った。
「終わりよければすべてよし、結果オーライですわ! 誰にも怪我はなかったのですし、まさに素敵ハプニングといえましてよ?」
「お、大友さん……?」
「佐野くんさすがです、素晴らしかったですわ、ラストシーンのアドリブ! 自然に笑い合うあの表情、私の脚本なんて遥かに凌駕していましたわ!」
麗華は直姫と真琴の手を取って上下に振りながら、嬉々と捲し立てる。どうしてか、おしとやかなお嬢様口調がその勢いを助長しているように感じられた。
「あ、ありがとう」
「まあ、よかったね、無事に終わって……」
真琴は舞台上での頼もしい表情とは一転、困り顔の苦笑いを浮かべている。
そんな彼を尻目に、直姫は視線を巡らせた。
(あれ……、さっきまではいたような……?)
そこにいるはずの──麗華や松浦と一緒に真っ先に駆け寄ってきそうだった、とある人物の姿が、見当たらないのだ。もうその人の本番での仕事は終わっているはずである。
それが気に掛かって、直姫は近くにいたクラスメイトに尋ねた。
「え、さっきそこで、幕を下ろしてたはずだけど……」
「そっか、ありがと」
更衣室へ戻って、足にまとわりつくワンピース姿から、急いで制服に着替える。
それから、舞台の隅にある細い階段へと向かった。幕の上げ下ろしをするレバーは、その階段を数段上がったところにあるのだ。
天井に吊られた照明器具の取り外しは、舞台を見下ろすキャットウォークの上でしかできないはずだ。
そして、キャットウォークへ上がる道は、レバーのある階段一つのみ。
(もしかして、あれは事故なんかじゃないんじゃ……)
直姫が痛めた足を庇いながら上に辿り着くと、そこには誰もいなかった。
舞台を見下ろしながら、キャットウォークを歩く。一つだけライトのなくなっている場所は、舞台中央より、少し上手にずれたところ。
(落ちたのはここか……)
最後のシーンでの直姫の立ち位置とはずいぶんずれているが、微動だにせずに避けられるわけでもない、絶妙な場所のものだ。
薄暗い中、屈み込んで目を凝らす。ライトを固定する土台に開いたボルトの穴には、なにも異変はない。
持ち上げてみたことがあるわけではないが、舞台上での落下音からいって、ライトは決して軽いものではないだろう。もしボルトが緩んでいて耐えきれず落ちたのなら、最後の一瞬にかかった無理な力によって、多少の歪みができていてもおかしくないはずなのだ。
だが眼鏡いらずの直姫の目には、歪みも傷も、塗装の剥がれすらも、なにも確認できなかった。
(やっぱり、ネジはわざと外されたのかも……)
スラックスのポケットに手を入れた。くしゃ、という音を立てたのは、あの脅迫状だ。
序盤のシーン、質素な直の部屋での場面で、異彩を放ちつつもしっくりと溶け込んでいた、小道具の一つを思い出す。
直姫の目が確かなら、この脅迫状を書くことができたのは、そしてライトを誰にも気付かれずに舞台へ落下させられたのは、たった一人しかいない──。
そして直姫は思い当たった人物を捜すため、管弦楽部の演奏が始まったホールを、一人抜け出したのだった。
◇◇◇
計画は大成功だ。
せっかく皆で準備してきた劇が台無しになるのは気が引けたが、それも彼のキスシーンを防ぐためと思えば、全く気にならない。
主役二人のアドリブのおかげで無事に幕が降りた時、とても安心したし、惚れ直しもした。
照明器具を落とす時も、彼が怪我をしないようにしっかり場所を考えたから、きっと平気だったはずだ。
ひとつだけ、心残りはあるけれど。
本当はキスシーンを阻止するために、あの人には舞台に上がること自体やめてもらおうと思っていたのだ。
でも脅迫状は無視されたし、誰にもなにも言わずにいたみたいだから、仕方なく強行手段に出ることになってしまった。
男子生徒がヒロインを努めることに異議を唱えるとか、こんなこと生徒会の威信に関わるとか、なんとでも理由をつけて最初から役を降りてくれていれば、こんなことにはならなかったのに。
それだけが残念だ。
舞台での彼は、確かに素敵だった。
たけど本当は、彼があんなラブストーリーを演じることが、嫌で嫌で仕方がなかったのだ。
結局のところキスシーンは決行されなかったのだし、それでも劇はなんとか成功したし、大友さんの言っていた通り、結果オーライ、ということにしておこう。
その人は、わずかな安堵と良心の呵責と、そしてなにより、大きな達成感を抱きながら、多目的室の扉を開けた。証拠を隠滅しようと、制服の上着のポケットに忍ばせていたスパナを取り出す。
そしてそれを、似たような工具が何本も入った工具箱に入れようとした、その時だった。
「やっぱり……君だったんだね、」
「っ!?」
彼女は、突然聞こえた声に、ひくりと肩を跳ねさせた。
慌てて振り返ると、扉の前に立つ直姫と、目が合った。
舞台を降りて急いで着替えて、南校舎の隣にあるホールから、この西校舎まで走って来たのだろう。薄く開いた唇の隙間から、わずかに荒くなった息遣いが、二人しかいないこの空間にやけに大きく聞こえた。
「あ……何言ってる、の、西林寺くん?」
「これ」
直姫は、白い紙を取り出して見せた。
ノートの罫線を無視して、筆でぐりぐりと描かれた文字。
例の、脅迫状だ。
「この間、自分の机の中に入ってたんです。……入れたの、君だよね?」
直姫の言葉にわずかな動揺を見せるが、彼女はあくまでも否定し、目を逸らした。
「何のこと……? どうしたの、それ」
「この字」
荒い息を吐き出すように、直姫は言った。
「変わった色ですけど、筆を使って、絵の具で描かれてるみたいなんです。……あの絵に使われているのと、同じ色ですよね?」
直姫が指差した先には、絵があった。
今は無造作に壁に立て掛けてある、直の部屋に飾られていたものだ。
稽古の最中に見て、今回の劇がずいぶん本格的であることに関心すらした、あの、花瓶と花の絵。この親睦会のためだけに、クラスの美術部員が描き下ろしたものだと聞いている。
白や黄色や橙色でまとめられた花とは対照的に、背景は暗い寒色だ。青と緑の中間のような、どちらでもないような、不思議で綺麗な色。
その色は、直姫の持っている脅迫状、筆で書きなぐられた文字の色と、ほとんど同じ色に見える。
そして、この絵の作者は、今直姫の目の前にいる城ノ内未奈。一年B組でたった一人の、美術部員なのだ。
「この絵は確かに私が描きましたけど……、そんなの偶然じゃ」
「絵の具で全く同じ色を作るのは、ほとんど不可能だって真琴に聞きました。美術部員の君にとっては、常識なんでしょう?」
「で、でも……」
「それから、劇のラストシーン。ライトは偶然落ちたんじゃない、誰かがキャットウォークへ上がってボルトを外さないと、落ちなかったはずです」
口の中を潤すように、一度口を閉じる。そしてすぐに開いて、続けた。
「でもキャットウォークへ行く階段には、幕の開閉を担当してる人がいました。細い階段ですれ違うのは無理だから、一旦下に降りなきゃいけない。そんな動きをしてれば誰かの目に留まったはずだし、それになにより」
直姫は、彼女の視線を無理矢理あげさせるように、じっとその顔を見た。
「幕の担当でその階段にいた、城ノ内さん……君が通すわけはないよね?」
「そ、れは……」
「そのスパナ、なにに使ったんですか」
彼女の目を真っ直ぐ見据えて淡々と話す直姫の、責めるでも咎めるでもない、単調な様子に追い詰められたのか。
城ノ内未奈は、おもむろに膝からくずおれて俯いた。
両手で顔を覆った拍子に、からりとスパナが転がる。
「だ、だって私っ……堪えられなくて、」
涙の滲む声で、ぽつりぽつりと話し始める。城ノ内未奈は、自分を正当化するでもなく、ただ“傷付けたかったわけじゃない”ということを懸命に言葉にしようとしていた。
直姫はそんな彼女の隣に屈み込み、目線を下げて言う。
「あの……城ノ内さん。真琴のキスシーンを止めたかったんだろうけど、今回だけじゃないだろうし、いちいちこんなことしてちゃキリがな」
「西林寺くんがキスシーンなんて、絶対に嫌だったの……!」
予想外の言葉に、咄嗟に言葉は出なかった。
間抜けにも、ただの音だけが口から発せられる。
「……え?」
「どうして西林寺くんがシンデレラなんですか! ヒロインなんだから女の子がやればいいじゃない! 佐野くんの相手役ならやりたい子がいっぱいいるでしょう!?」
泣きそうな顔で叫ぶように訴える彼女に、唖然とする。これまでにないほど目を丸くしていたが、そんなことを意識する余裕もまったくなかった。
「……自分、ですか?」
「そうよ! 佐野くんが誰となにを演じようがどうでもいいわ、ただ西林寺くんが殿方とキスシーンなんて……私にはっ、耐えられなかったんです!」
ついには両手に顔を埋め、わっと声を上げて泣き出してしまった。
直姫の頬が、ひくりと引きつる。
「え、あの、でも、ほら、結局キスシーンなかったんだし、ね、……その」
女の子に泣かれる、なんていう経験したことのない事態に、直姫らしくもなく、おろおろと焦ってしまう。
しかし泣き声は一層大きくなるばかりで、途方に暮れた直姫の思考は、現実から遠いところで傍観していた。
さすがお嬢様、泣き方も完璧にかわいらしい。というか、いけないことをしたのはこの子のはずなのに、どうして自分がこんなにいたたまれない気分にならなければいけないのだろうか――。
そしてなぜか思うのは、あの猫被り生徒会長やフェミニストな先輩ならば、こんな時に女の子をうまく慰める方法も心得ているんだろうな、なんて。
「ほんっとうに、ごめんなさい……」
涙も引いてずいぶん落ち着いた彼女は、小さな声でぽつりと、謝罪の言葉を口にする。
直姫としては、いつまた濡れた目尻が決壊しないかと、それだけを気にしていた。
「いいよ、もう済んだことだし……」
「私きっと、ほんとは西林寺くんに気付いてほしくて」
「え……あ、絵の具のこと? ごめんね、鈍感で……」
「あ、いえ、西林寺くんが謝ることないんです! 悪いのは全部私なんです、ごめんなさい」
「いや、そんな……他の人にはなにもなかったんだし、自分は平気ですから」
直姫が言ったのは、劇の中盤、通路に置いてあった荷物で躓いて、捻挫したことだった。痛む足でなんとかここまで急いだが、すでに衣装から制服に着替えているため、今はサポーターは見えない。
しかしそれを聞いた途端、城ノ内の表情がみるみる曇っていく。
「他の人にはって……西林寺くん、まさか怪我でも……!? ライトの破片とか……!?」
「え? や、違うよ。あの時は大丈夫、だったけど」
また泣くのではとぎょっとすると同時に、青褪めた唇から発したその言葉に、直姫は違和感を覚えた。
まるで彼女は、直姫の怪我のことを知らないようだ。確かに、真琴や麗華たちに囲まれて手当てを受けていたあの時、控え室で彼女の姿は見かけなかった。
あれは脅迫状を書いた人物が直姫に怪我をさせようとしたのであって、当然そこに障害物を置いたのも城ノ内だと思っていた直姫は、首を傾げた。
「もしかして城ノ内さん……劇の間って、ずっとあの階段に?」
「え? えぇ……本番は幕の操作の担当でしたから、はじめからずっと」
直の部屋、パーティー会場、蛍の部屋など、場面は限られてはいるが、その代わりに場面転換はこまめにあり、幕の開閉は頻繁にあった。そしてその担当は彼女一人であるため、ずっとレバーのところに張り付いていなければいけなかったはずだ。
直姫が荷物に躓いた通路は、舞台を挟んだ反対側。
それはつまり、城ノ内が劇の最中に通路に障害物を置くのは、不可能、ということだ。
(え、じゃあ、あれは誰が──?)




