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ONLOOKER  作者: 鳴瀬倉
30/31

午後のレモンティー2

「直姫、ちょっと」


 窓際の机から手招きをする夏生に、直姫はわずかに眉をしかめて見せた。彼が生徒会室で直姫を呼ぶ時はたいてい、少し面倒な用事を言いつける時なのだ。


「なんですか?」

「南校舎までお使い」

「げ……」

「職員室に行って、藤井先生から原稿受け取ってきて。今西林寺が行きますってメールしたから」

「なんでその原稿をメールで送ってもらわないんですか……」

「そう言うなら、直姫がやり方教えてあげなよ」

「あの機械オンチに説明するのどれだけ大変だと思ってるんですか」

「でしょ?」

「……ですね、はい、すいません」


 直姫は溜め息を吐いて言った。担任教師の藤井は、授業で扱うDVDプレイヤーでさえ満足に扱えないほどの機械オンチなのだ。そういえば、親睦会の時に彼が用意してくれたのも、箱に名前の書かれた紙を入れておくという、実にアナログなくじだった。

 職員室についたらとりあえずまず一言文句を言おうと心に決めて、直姫は生徒会室を出る。

 北校舎三階中央にある生徒会室の扉から、東側の階段を降りて、中庭へ出るには、それからまた一階中央にある玄関に向かわなければいけない。そして、花壇の間を通り抜けて噴水の横を通って、また花壇の間の小道を行き、そこでやっと南校舎のアーチへ辿り着くのだ。

 言葉にすれば大した道のりではないが、この悠綺高校は、それらの大きさや距離がいちいち規格外だ。大きすぎる校舎から出るだけでも五分はゆうに越えるし、中庭を横切るのにもまた十分近くかかる。北校舎から南校舎へ行って帰ってくるだけで、往復三十分もかかるのが、悠綺高校なのだ。

 そんなわけで、たった一枚の原稿を受け取りに行くだけというこのお使いを、直姫は非常に憂鬱に考えていた。歴代の生徒会役員は冷蔵庫やソファーベッドという我が儘を許されてきたが、自分なら間違いなく敷地内の移動用になにかしらの乗り物を提案すると、直姫は常日頃思っている。

 そんなことを考えながら噴水へと差し掛かった直姫は、反対側に見慣れた姿を見つけて、声をあげた。


「あれ、紅先輩……と、」


 紅は、片手を軽くあげて挨拶をする。今日も、少し部活に出てから生徒会室に来ると言っていたはずだ。剣道部をメインに、時々弓道部や空手部等にも助っ人として顔を出したりしているのだ。

 だが、弓道場は北校舎と西校舎の角に当たる場所にあるし、剣道部と空手部が使っている道場は、そのさらに外側に位置する。なんにせよ、彼女が南校舎のほうから歩いてくるのはおかしいのだ。

 はじめ紅の姿を見つけた直姫は、職員室に用でもあったのだろうか、と思っていた。だが彼女の横で一緒に歩いている人物を見て、その考えは捨てた。


「あっ、オカマのにーちゃん」

「オカマじゃありません。」


 目元だけで愛想笑いを浮かべて、直姫は答えた。沖谷浩太郎は、准乃介にそっくりな顔で可愛らしく笑う。紅はその肩に手を置いて、「鍵を忘れたらしい」と言った。


「また?」

「またじゃねーよ! たまたまだもん」

「へえ」


 直姫の薄い反応に、少年は憮然と息を吐く。彼が直姫たちと初対面を果たしたのは、つい四日前のことだ。それまでは、見かけたことも一度もなかった。最近になってよく忘れるようになったのか、それとも今までは、准乃介がきちんと忘れ物を受け渡していたのか。しかし、先日浩太郎が生徒会室へ連れて来られたのは、中庭で迷子になっていたからだったと思い出す。あまり来慣れてはいないということだ。直姫がそう考えていたところで、本人から、誰に対するともなく弁明があった。


「いっつもは……朝、家出る時に、准兄が忘れ物チェックしてくれるんだ。けど、最近、忙しいから」


 俯き加減で、薄い唇を尖らせる。准乃介の仕事が増えてきて、最近は早朝に仕事を済ませ、それから学校に直行することもあるらしい。そのせいで、忘れ物のチェックが疎かになっているようだ。


「浩太郎ももう五年生だからな。ちゃんと自分でチェックできるだろう?」

「できるよ! でも、俺が一番最後に出るから、靴箱の上に鍵置きっぱなしになるんだ」


 真剣な顔で言う浩太郎に、紅は苦笑いを浮かべた。兄に確認してもらわないといけないほど子供だと思われるのは心外だが、かといってあまりしっかりしていると思われるのもなんだか嫌、ということなのだろう。甘える隙を残しておきたいのかもしれない。紅と顔を見合わせた直姫も、わずかに口許を緩めた。


「浩太郎くん、お兄さんっ子?」

「ち、ちげーよ!」


 返ってきた答えがあまりに予想通りで、紅が彼の後ろで、声を出さずに小さく笑った。准乃介が最近忙しい、と呟いた時に彼が浮かべたのは、どう見ても、淋しげな表情だったのだ。

 だがもうすぐ十一歳になる少年らしく、浩太郎は胸を張って見せる。


「准兄なんかな、すぐ追い越してやるんだからな。見下ろしてやる」

「それはすごい……何メートルになる気?」

「二メートル以上なきゃだめだ」

「あぁ……はは、」


 直姫が乾いた声で相槌を打ちながら紅を見ると、口を覆って、肩を揺らしていた。目が三日月型に笑っている。この辺にしておいてくれないと、今に彼女が笑い泣きすることになりそうだ。

 紅がまた、浩太郎の肩にぽん、と手を乗せた。声がまだ少しだけ震えているような気もする。


「頼もしいな。ちゃんと日南子と協力して、下の子たちの面倒も見なくてはな」

「そんくらいな、ヨユーだし!」


 見慣れたような造形が見慣れない無邪気さで動くので、なんだか違和感を禁じ得ない。逆に、紅にとってはそれが微笑ましくて仕方ないらしい。これもある意味のろけなのか、なんて思っていると、浩太郎がふと俯いた。「でも、」と声を出す。


「でも……テレビとかの仕事、忙しいのに、悠綺なんか入っちゃったから」

「え、」


 柔らかそうに癖づいた髪を、見下ろす。思いもしない言葉が出てきて、どう反応を返していいのか、そもそも反応を返していいのかどうかも、迷った。


「受験の時なんか、いっつも夜中まで勉強してたし」


 少し戸惑って、紅の顔を見る。准乃介が誰かに心配されている様子なんて、あまりに慣れない状況だったのだ。紅は眉尻を下げて、頷いた。それは一体、どういう意味の頷きだったのか。直姫に見つめられたまま、紅が口を開く。


「勉強と仕事の両立は、確かに大変だろうな」

「今は違うよ? あんまり……そこまでじゃないけど」

「……准乃介に、どうして悠綺に入ったのか聞いたことがあるんだ」


 浩太郎が、顔を上げた。紅を見上げる。紅は目を伏せて、続けた。


「入ってからが楽だから、だそうだ。ちょうど受験の頃に、人気が出はじめていたこともあって」

「マスコミとファン対策ですか? でも、いくら楽っていっても……」


 のんびりとした校風ではあるが、曲がりなりにも名門高校だ。当然、入ってしまえばあとは勉強はしなくてもいい、なんていうわけにはいかない。受験の時ほど張り切る必要はないかもしれないが、当時と比べて大幅に成績が落ちたりしては、替え玉受験や裏口入学を疑われてしまうのだ。

 それに、入ってからのほうが楽だからといって、少し頑張ればなんとかなるような入学試験ではないのだ。直姫は確かに、受験当時よりはずいぶん余裕があると感じているが、それは特待試験を受けるために、尋常ではない猛勉強に慣れた者だけの感覚だろう。


「そうだな……そんな考えで特待試験を受けた受験生なんて、他にいないだろうな」

「え?」


 直姫は、目を丸くして紅を見た。あまりにも思ってもみない言葉が、含まれていたのだ。


「特待試験って」

「え? あぁ……」


 紅も驚いた顔で、直姫を見返した。ぱし、ぱし、と、カメラのシャッターのように瞬きをして、答える。


「直姫、聞いてなかったのか? 准乃介は、お前と同じ、特待生なんだ」

「初耳です……」

「そうか……まあ、普段特別な扱いを受けることはあまりないからな」


 悠綺高等学校の特待制度は、今から四年前に開始したシステムだ。難しい試験と数回に渡る面接、厳正な審査を受け、生徒会に入って他の生徒の手本になるような学生生活を送ることを条件に、学費の大部分を学校が負担する、というものである。試験を受けるほとんどの生徒は、学費のためなどではなく、特待生というステータスと理事との太いパイプを手に入れるために受けている。だからこそ、書類による一次審査を通ることすら非常に難しいのだ。基本的には紹介制なため、理事長や職員たちと何らかの繋がりがなければ、受けることすら許されない。

 そんな特待制度が始まって二年目、今から二年前にその栄誉ある地位に就いたのが、沖谷准乃介だというのだ。


「じゃあ、生徒会へも特待の条件で……?」

「あぁ。枠は二人だったんだが、一人は該当者なしということになった」

「試験に落ちたんですか?」

「そうだろうな……去年は一人もいなかったよ。だから生徒会選挙は、生徒からの投票システムも作ってあるんだ」

「あぁ、そっか」


 特待生の枠と新入役員の枠は、毎年同じ二人なのだろうか。だとすれば、該当者なしの場合は、二人もしくは一人を投票式の選挙で選ぶのだろう。ということは、二年生の三人と、紅は、選挙によって選び出されたということだ。


「なんでも、事務所の社長とうちの理事長が知り合いらしくて……毎年何人か受験生を推薦してるそうだ。もちろん、一般入試にだが」

「准乃介先輩は優秀だったから特待受験だった、ってことですか?」

「そうかもな」


 紅の顔から少し視線を落とすと、浩太郎が不思議そうな顔をして、二人を見上げていた。先日聖と恋宵が言っていた話だが、浩太郎と双子の姉の日南子、弟の徹平は、去年の春に悠綺の初等部に転校してきたらしい。次女の由乃は、その同じ年に入学した小学校二年生。一番下の光稀だけは悠綺の系列ではない幼稚園に通っているそうだ。

 幼等部から悠綺の紅や夏生や聖とは、育ち方が違う、と言っては語弊があるだろうか。だが、教育面でも徹底している由緒正しき名家とは、なにもかもが違うことは確かである。直姫はふと、映画祭の日、聖がぼそりと呟いた言葉を思い出した。とあるゴシップ誌の記者が一年前に書いたという、人気モデルのスキャンダル記事についてのことだ。

 写真に写っていたのは、すらりとした長身の青年と、着物姿の少女だった。Tシャツとジーンズというラフな服装の青年と、姿勢正しく上等な着物を着こなす、まさに“お嬢様”といった感じの少女。

 ――『身分違いの恋』。

 紅や夏生のような、ズレた言動のあまりない人だとは思っていた。それはつまり、こういうことだったのか、と気付く。


「……なるほど、どうりで」

「ん?」

「准乃介先輩は感覚がまともだと思ってました」

「……どういう意味だ?」



 ◇◇◇


 直姫は、生徒会室へ向かっていた。近頃、時間が合わないのか、定期発表会の準備が立て込んでいるせいか、生徒会室へ行っても、全員が揃っていることはあまりない。春の余裕はなんだったのかと思うくらいだ。

 西校舎から北校舎へ向かうだけでも、じわりと汗ばんでくる陽気だ。そろそろ夏だな。そんなことを思って、直姫は、嫌いだったはずの夏を、今年はそれほど嫌だと思っていないことに気付いた。

 校舎に入れば、完璧な空調管理のおかげで、汗はすうっと引いていく。エコだなんだと騒ぎ立てている昨今では有り得ないことなのかもしれないが、悠綺高校では、なによりも生徒が快適に過ごすことを第一に優先しているのだ。階段を、息が切れない程度に駆け上がっても、汗がぶり返すことはない。生徒会室に着いたら温かいレモンティーが飲みたい、と思った。准乃介に作り方を教えてもらおうか。今、いるだろうか。

 生徒会室の扉を開くと、准乃介は、いた。准乃介しかいなかった、というほうが正しい。扉を開けて体を挟んだままの体勢で、直姫は一瞬、動きを止めた。准乃介が顔を上げてこちらを見たので、体を滑り込ませる。


「みんなは」

「出てるよー。夏生と聖はまだ」

「この時期に遅刻とかさすがですね……」

「今、入るのちょっと躊躇ったでしょ。」

「……いえ、まさか」


 片方の眉毛をきっ、と上げて、直姫は答えた。図星だった、ということは、准乃介の口許に浮かんだ笑みを見る限り、気付かれているだろう。この人の察しの良さ、嫌だ、と、直姫は心の中で呟く。夏生は洞察力で様々なことを見抜くが、彼の場合は、本当に勘で判断しているような気がするのだ。

 レモンティーの作り方は、聞く雰囲気ではなくなっていた。喉は渇いていたので、冷蔵庫に入っていたアイスコーヒーをグラスに淹れる。休憩室に入る前にちらりと窺った准乃介のグラスの中身は、透き通った赤茶色だった。紅茶が好きなのだろうか。詳しくないと言っていたが、よく飲んでいるように思える。

 グラスとコースターを持って席に着いて、ノートパソコンを開く。麻糸を編んだコースターには、タグが付いていなかった。誰かの手作りなのだろうか。そんなどうでもいいことを考えながら、キーボードを指で撫でる。やけに気分が散らかっている、と思った。なにも考えずに声を出す。


「准乃介先輩って……」

「ん? なぁに」

「特待生だったんですね。知りませんでした」

「あぁ、そう。成り行きでね」

「成り行き?」


 おうむ返しに聞き返すと、「勧められるまま猛勉強して受けたら、受かっちゃったんだよ。すごい大変だった」と苦笑する。


「確かに、あれは大変ですよね……」

「入る時頑張れば後が楽だと思ったのに、全然なんだよねえ。俺は直姫や真琴みたいな頭してないから、ついていくの大変だよー」


 そうは言うが、彼は学年五位以内から順位を落としたことはなかったはずだ。それでもなぜか、その言い方が嫌味に聞こえないのは、浩太郎の心配そうな顔を見たからだろうか。


「浩太郎くんが、仕事と勉強で忙しそうって、心配してましたよ」

「えぇ、ほんとに? かわいいとこあるじゃん」

「朝仕事してから学校来るんですね。大変そー」

「忙しいのなんか今だけだよ。すぐに過去の人になっちゃうから」


 言っていることは卑屈な気がするが、その顔は柔らかく微笑んでいる。直姫が、浩太郎の話をしたからだろうか。普段生意気な弟が、実は心配してくれているというのは、嬉しいことなのだろう。

 ずいぶんリラックスしていた。直姫も、准乃介もだ。直姫は、口を噤む。気を抜きすぎると、うっかり言わなくていいことまで口走ってしまいそうだった。


「てゆうか、勉強より金持ち感覚についてくほうが大変だよー。俺、庶民派だからね」

「はあ……紅先輩なんかズレまくりでしょう」


 直姫が言うと、准乃介は「あは、そうだね」と笑った。彼の笑い方は、どこか伏し目がちだ。


「だいたい、学食にフレンチって、意味わかんないでしょー」

「それは同感です」

「直姫もなんかそんなかんじだねえ」

「庶民派ですか? 一応お嬢様、なんですけど」

「百歩譲ってお坊っちゃんらしくもないよ」

「まじですか」


 そうだろうな、とは思っていたが、いざ言われると、それもどうなのだろうと思えてくる。父親は元政治家だし、母親の家だって明治から続く外交官の家系なのだから、それなりに由緒正しいといえるはずである。あまりに上品すぎて女であることがバレても困るのだし、これでいいのだろうか。

 直姫が首を捻っていると、准乃介が目を伏せたまま、口を開いた。


「あの後、恋宵にも言われたよ?」

「え、なんですか?」

「俺のピアノ聴きたいって。なぁに、流行ってんの?」

「さあ……なんでしょう」


 恋宵の真剣な顔を思い出した。映画祭の日、聖と恋宵を迎えに行った時のことである。夏生に、准乃介のことをなにか知っているのか、と言った時、あまり見たことのないような顔をしていたのだ。先日の聖も、恐る恐る手を差し出しているようなところがあった。どうして、踏み込もうとしているのだろうか。


「弾きたくないんですか?」

「いや? ピアノは好きだよ」

「聴かれたくないなら、学校でピアノ弾かなければいいのに」

「あは、だよねえ。でもまあ、あれは……入学したばっかで、暇潰しとストレス解消みたいなものだったから」


 金持ちのご子息ご令嬢の感覚に、ついていくのが大変だった、という話だろうか。勉強のレベルと、仕事の忙しさと、決定的な観念のズレ。一つずつならなんとか頑張れても、すべて一緒に襲いかかってくるとなると、辛いものがあるのだろう。彼ならばなおさらのことだ。准乃介といえば、怒ったところを見たことがないという人が大勢いるが、どうやら意識して怒らないようにしているようなのだ。それでいて家に帰れば、かわいくもあるが面倒くさくもある弟たちが五人もいる。それでストレスが溜まらなければ超人か聖人だ。


「先輩たちが休みの時に、寝ようと思って休憩室入ったら、なぜかピアノ置いてあってさ。なんかちゃんと調律してあるし」

「いつからあるんですか? あのピアノ」

「さあ……わかんないな」


 ちょっと触ってみたら、止まんなくなっちゃって。そう話す准乃介が、いつになく饒舌なような気がして、直姫は黙った。話の腰を折ってはいけないと思ったのは、気を遣ってなのか、直姫自身興味があったからなのだろうか。どちらにしても、らしくないと思った。自分らしさを自覚していることも、らしくない。


「一時間くらい弾いて、疲れて手止めたら、紅がいて。ちょっと恥ずかしかったな、あれは」

「……あ、紅先輩の前でしか弾いたことないって、そういうことですか」

「え? なにそれ」


 准乃介が、笑いながら聞き返す。


「そういう噂あるの、知りませんでした?」

「知りませんでした。てゆうか、直姫は噂とかそういうの、全然聞いてないのかと思ってたよ」

「えぇ……」


 またそれか、と思っていると、予想通り 「やっぱり、変わったね」と笑いながら言われた。多少の自覚はなくもなかったが、そこまで何度も言われるほどではないと考えていたのだが。「そんなことないと思うんですけど」と呟きながら、ふと、軽い上目遣いで首を傾げる、という、夏生がよくしている仕草を自分がしてしまっていることに気付いて、視線を下ろす。ついでに少し尖っていた唇を、ぴっと引き結んだ。それを見て、准乃介が微笑む。


「直姫には、嬉しくない変化なんだね」


 直姫は答えずに、思い出したように、グラスを手に取った。氷が半分ほど溶けて、コーヒーの上に薄い水の層を作っている。グラスを揺らしてから、口許に運んだ。准乃介が、視線を大きく逸らす。


「紅の前でしか弾かないのは、本当だよ」


 脈絡はないが、問題はなかった。どこを見ているのかはわからないが、特に視線の先を追いもしない。


「俺が、芸能人でも、天才ピアニストの遺児でも、頼れる兄貴でもなくいられるのは、あの子の前でだけだからね。」


 ずいぶん客観的な物言いをする。そんなことよりも、『あの子』という呼び方のほうが違和感があって、直姫はふい、と顔を上げた。紅のことだと気付くのに、二秒もかかってしまった。それからさらにまた六秒の沈黙のあと、直姫はぽつりと言った。


「のろけですか」

「うん」

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