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ONLOOKER  作者: 鳴瀬倉
29/31

午後のレモンティー

 生徒会室の扉の外から、重く低い音が、二回聞こえた。誰かがノッカーを鳴らしているのだ。

 部屋にいた全員――三年生以外の五人が、五人ともそちらに顔を向ける。直姫は真琴とプリントの仕分け作業をしていて、手が離せない。恋宵は棚の引き出しから物を取り出そうとして、踏み台に上がったところだ。そのまま、全員の動きが一瞬止まった。

 夏生がペンを置いて立ち上がろうとしたが、その前に、聖が扉へ向かう。やがて重そうな音のあとに、彼の明るい声が聞こえた。


「山崎さん! どしたのー?」


 その言葉に素早く反応した恋宵が、棚に向かって手を伸ばしたまま、扉を振り返る。


「え? 乃恵ちゃん?」

「恋宵、落ちるよ」

「うにゃっ」


 夏生の警告通り、バランスを崩れて後ろにぐらついて、踏み台から飛び降りる。そしてそのまま扉のほうへと向かった。


「乃恵ちゃん久しぶりー」

「ふふ、まだ帰りのホームルームから一時間しか経ってませんわ」


 山崎乃恵(やまざきのえ)。恋宵と聖、そして夏生のクラスメイトだ。恋宵の友人であり、ついこの間まではライバルでもあった、元アイドル歌手である。

 生徒会室を訪ねた乃恵は、トレーニングウエア姿だった。長い艶やかな髪を、ポニーテールにしている。部活動前のランニングの途中だったのだろう。つい先日芸能界を電撃引退して、キックボクシング部を立ち上げたところなのだ。

 そんな彼女は、困ったような戸惑ったような、微妙な表情をしていた。


「ここに来るなんて珍しいね?」

「あ、実は……お預けしたいというか、なんというか」


 曖昧な物言いに、恋宵も聖も首を傾げる。それが方向も角度もほぼ一緒で、真琴が思わず「あ、スゴイ」と呟いた。

 恋宵が「落とし物?」と尋ねると、乃恵までが眉尻を下げて首を傾げる。


「いえ、あの……迷子ですの」

「迷子?」


 夏生は今度こそ立ち上がって、乃恵のもとへ向かった。直姫と真琴は作業を続けるべきか迷って、とりあえず一旦手を休めることにする。


「中庭でお会いしたんです。用事があって来たみたいなんですけれど、迷ってしまったみたい」

「それなら守衛さんのところに連れて行ったほうが」

「ええ、本当なら……でも、直接お連れしたほうが早いと思って」

「え?」


 乃恵の前に、小柄な人影が出てきた。夏生と聖の背はそれほど代わらないが、二人の肩より低いところに旋毛がある。悠綺大学附属初等部の制服を着て、茶色いランドセルを背負った、少年だ。それだけならまだわからなかっただろうが、その顔が目に入った瞬間に、彼ら全員が「あぁー……」と納得の声を上げた。


「なるほど……」

「あの、いらっしゃいます?」

「もうじき戻ってくるんじゃないかにゃー?」

「そういうことなら、わかりました、任せてください。わざわざごめんね、乃恵さん」

「よかった。じゃあ、よろしくお伝えくださいね」

「うん、ありがとう」


 再び重厚な音を立てて、扉が閉まる。聖は「ジュース持ってくる」と言って休憩室の扉へ向かい、恋宵は少年の前にしゃがみ込んだ。「お名前は?」と聞かれた少年が、不機嫌そうに返事をする。


「……浩太郎」

「浩太郎くんかぁ。何年生?」

「五年。……なー、さっきの」

「うん? 乃恵ちゃん?」


 少年は一度扉を振り返って、また恋宵に向き直る。


「ノエルだよね?」

「ああ、うん。そーよ?」

「お姉さん、もしかして、Ino?」

「うん」

「Inoとノエルって仲悪いんじゃないの」


 恋宵はぱちりと瞬きして、眉尻を下げて笑った。


「そんなことにゃいよ、仲良しにょろよ?」

「にゃ? にょ?」


 恋宵の喋り方を聞いて、少年が目を丸くする。これはなんだか面倒なことになりそうだと思ったのか、夏生が直姫たちのほうへ振り向いて、ちょいちょいと手招きをした。なんとなく、きっと彼は子供の相手は苦手だろうなと直姫は思っていたが、一年に押し付けようとするところまで、ぴったり予想通りだ。

 浩太郎(こうたろう)と名乗った少年は、顔を上げて、近付いて来る直姫を見て、不思議そうに首を傾げた。そして、ソファーの背もたれに腰を乗せる夏生のほうを見る。何度かそうして二人の顔を見比べるようにしてから、直姫に向かって行った。


「……オカマ?」


 ぶふ、と、堪えきれなかった笑いが、夏生から漏れる。直姫は眉と口許を引きつらせた。腕を組んだまま口許を手で覆っている夏生を睨み付ける。彼は、俯いて肩を揺らしていた。


「あのね、自分はオカマじゃありません」

「そうなの? でも女みたい。あの人も」


 今度は直姫が吹き出す番だった。浩太郎は真剣な顔で、くつくつと笑っていた夏生を指差したのだ。夏生はうっすらと笑った顔のまま、絶句した。「は?」という険悪な声が思わず出なかったのは、一種のプロ根性と言えるだろう。地雷に凍りついたその顔を見て、直姫は仕返しとばかりに肩を揺らして笑う。


「ひ、人を指差すのはだめだよ」


 震える声でそう言うと、夏生の視線が突き刺さった。珍しく、あからさまに眉を寄せている。


「先輩先輩、顔。コワイ」

「どこが? 別に、君で慣れてるからね」


 年下からの無礼な態度は、ということだろう。夏生は浩太郎の見ていないところで、一瞬真顔に戻ってからにこりと微笑んだ。直姫はいまだ歪んだままの口許を隠しもせずに、彼を横目で見る。


「そんな笑い方するからじゃないですか」

「まあ、僕はあくまで“みたい”だったけど……直姫は、ね。」


 含みのある流し目で返されて、直姫は再び口許を引きつらせた。目を合わせたまま、口の中で舌打ちをする。


「ちょっ、ちょっと二人とも」


 そこへ慌てて二人の間に入ってきたのは、真琴だ。最近直姫の遠慮がなくなってきたせいで、放っておくと勝手に少しずつ生徒会室の雰囲気を険悪にしていく二人なのだ。いつも周りがすぐに止めに入るか流すかするのだが、今は最も防御力の高い三年生の二人がいない。


「お客さんの前ですよ!」

「はは、ごめんね、仲が良くて」

「先輩ってばお茶目で、すいません」


 浩太郎がきょろきょろと辺りを見回してこちらを見ていないのをいいことに、目だけは全く笑わず睨み合ったままで、二人が言う。

 真琴は「もう」と溜め息を吐いて、少年の前にしゃがみ込んだ。目線を合わせて、あの眉尻の下がった笑顔を浮かべる。


「ごめんなさい、喧嘩してるんじゃないんですよ」


 だが浩太郎は、真琴に向き直って顔を見た途端に、切れ長の目を見開いた。後退りをはじめるその顔には、明らかに怯えの色が浮かんでいる。

 その様子に焦る真琴は、小学生相手にも敬語が崩れないままだ。


「どどどどうしたんですか、あのっ」

「こ、コマツガオカだ……! コマツガオカケンジロウ!」

「え?」


 浩太郎が真琴を呼んだ名前は、聞きなれないものだった。だが真琴は否定することも、不思議そうに聞き返すこともなく、ただ丸い目を瞬かせた。


「知ってるんですか? バブルフォースレジェンド」

「ずっと観てた! お前がいなかったらレオパルドブルーは失明なんかしなくて済んだんだぞ、スクエアデビル団!」

「あ……すいません」

「テレビの外だけいい奴ぶってんじゃねー!」


 直姫たちには、なぜか浩太郎が激昂していて、真琴がその理由を知っている、ということしかわからない。さっきまで横目で睨み合っていた夏生と顔を見合わせると、彼は首を傾げて、上目使いで直姫を見た。その仕草があまりに自然だったので、そんなだから女みたいなんて言われるんですよ、という言葉が喉まで出かかる。口を噤むことでそれをやり過ごしていると、恋宵が「あ」と声を上げた。


「バブルフォースレジェンド、あたし知ってるにょろ」

「え、ホントですか?」

「うん、こないだDVD借りたの。まだ観てないけろ」


 真琴が浩太郎の前にしゃがんだまま、恋宵を仰ぎ見る。直姫と夏生が見ているのに気付いて、恋宵が「あのね、特撮ヒーローにょろよ」と言った。


「スクエアデビル団ていうのが悪いやつらで、そのリーダーのコマツガオカ役が、まこちゃんだったのね」


 ということは、レオパルドブルーというのがヒーロー側の登場人物なのだろう。真琴の演じる役が率いるなんとか団のなんらかの悪事のせいで、視力を失ってしまったという役柄らしい。子供が見る特撮ヒーローもので失明なんて重い展開があるとは、今時のヒーローは大変である。


「三年前か、懐かしいなあ。あの時に聖先輩と」


 だいたいの話は掴めたが、なぜそこで聖の名前が出てくるのか。直姫がわずかに不思議そうな表情を浮かべると当時に、休憩室の扉が開いた。トレイに並んだグラスと、金髪が現れる。聖はソファーのそばにいる彼らを見て、目を瞬かせた。


「あれ、座ってもらいなよ。オレンジジュースとミルクティー、どっちが好き?」


 後半は浩太郎に向けて、爽やかな笑顔を向けながら言う。そんな聖を見て、浩太郎は、目を丸くした。


「……グリーンだ」

「え?」

「ファジーグリーンだ……!」


 さっきまでのどこか生意気そうな強気な表情は鳴りを潜め、小学五年生らしい感激がありありと浮かんでいる。聖を見るきらきらとした目は、種類は多少違えど、ファンの少女たちが“アイドル”である時の聖に向ける眼差しと似ていた。彼もまた聖に夢を見ている一人なのだと、直姫は気付く。


「バブルフォースレジェンド、ひじぃのドラマデビュー作にょろよ」

「僕、あの作品で聖先輩とはじめて会ったんです。っていっても、顔合わせ以来、撮影が被ることはなかったんですけど」


 なるほど、と直姫が頷く視界の端で、やっとソファーに腰を降ろした浩太郎が、ごそごそとランドセルの中を探っていた。ガラステーブルにトレイごとグラスを置いた聖が、不思議そうに見ている。やがてノートと油性ペンを取り出すと、浩太郎は紅潮した顔を聖に向けて、両手を差し出した。


「あのっ、サインください!」

「あ、うん、いいよー」


 どこに、え、裏表紙に書いちゃっていいの。そんな声と、きゅ、とペンのキャップを開ける音を聞きながら、二人の後頭部をぼんやりと眺める。直姫が聖の芸能人らしい部分を見るのは、これがはじめてなような気がした。普段は恋宵と一緒に歌っているか、恋宵と一緒にお菓子を食べているか、夏生にツッコミを入れているか、紅に怒られている、ちょっと派手なだけの、ただの学校の先輩なのだ。こういうテンションのこの人は見慣れない、なんて思っていると、生徒会室の扉がノックもなしに開いた。ノッカーを鳴らさないのは、生徒会役員の七人と、顧問の居吹だけだ。


「あ、遅かったですね」

「すまないな、ちょっと演劇部の部長と。次の発表会、プログラムに変更があるそうだ」

「わかりました。それより、准乃介先輩」


 夏生が呼ぶと、准乃介が「ん?」と、紅の頭越しにこちらを向いた。ソファーの背凭れ越しに、聖の「お名前は?」という声が聞こえる。来客があることに准乃介が気付いたのと、夏生が准乃介に言ったのとは、ほとんど同時だった。


「弟さんが来てます」


 切れ長の目を、彼は丸く見開いた。


「あれ? 弟いるって、言ったことあるっけ」


 直姫は首を横に振った。夏生も、「いえ」と短く言う。確かに准乃介の家族構成について聞いたことは、一度もなかった。だが、誰もなにも言わなくても、一目瞭然だったのだ。

 直姫の背後で、浩太郎が聖の質問に答える。


「浩太郎です! 沖谷浩太郎」

「浩太郎くんね。ほんと、准乃介先輩そっくりだねえ」


 憧れのヒーローアクターを前にきらきらと輝かせた少年の瞳は、切れ長で二重瞼の、たれ目だった。色素の薄い癖っ毛が、額にかかっている。高くはないがまっすぐに通った鼻筋と、小さめの顎に、薄い唇のあひる口。首が長いところも、手足が大きいところも、果ては少し女性的な指の形まで。迷い込んだ少年は、准乃介に瓜二つだったのだ。まるで幼い准乃介を見ているみたいだ。これで血縁関係がなかったら、ドッペルゲンガーなんていう都市伝説を信じるしかない。


「浩太郎?」


 紅の声に、少年は顔を上げた。胸にはしっかりと、聖にサインしてもらったノートを抱えている。振り向いた浩太郎は、紅の姿を見て、満面の笑みを浮かべた。もし准乃介が無邪気に笑ったら、きっとこんなふうなのだろう。


「紅じゃん!」

「オイ。呼び捨てしないの」

「はは、久しぶりだな」


 浩太郎の砕けた口調を、紅は当たり前のように笑い飛ばす。たしなめた准乃介は、見たことのない、苦い顔をしていた。


「どうしたの?」

「中庭にいたそうですにょろ」


 端的に尋ねた准乃介に、恋宵も短く答える。迷子か、と呟くと、聞き付けた浩太郎が、「違うし!」と声を上げる。


「乃恵ちゃんが連れてきてくれたにゃろー」

「山崎さん? そっか、お礼しとかないとね」

「女子キックボクシング部の勧誘手伝ってあげたらどうスか?」

「俺が? 厳しいでしょー」


 苦笑いで言ってから、准乃介は腰を曲げて、弟の顔を覗き込んだ。膝に手を突いていても、その身長差はまだ頭一つ分ほどある。体格は兄に似なかったのか、それとも、これから一気に伸びるのだろうか。


「で、どしたの?」

「うん、家の鍵忘れた」

「またあ? ヒナに借りらんなかったの」

「ヒナ今日バレエだよ」

「あ、水曜日か……。てっぺーとのんは?」

「お父さんと買い物だから、先に帰っちゃった」

「あぁ、そっか、今日みっきの迎え頼むって父さんに言われてたんだった」


 たったこれだけの会話だというのに、あまりに次々と別の名前が出てくるので、彼らは戸惑った。紅だけが平然とそれを聞いているので、思わず顔を向ける。視線を一気に浴びた紅は、ぱちりと目を瞬かせてから、「あぁ」と声を上げた。


「准乃介の弟と妹たちだよ。六人兄弟なんだ」

「ろ、六人?」

「もうすぐ七人だよー?」

「七人!?」


 おうむ返ししかできないくらいには驚いて、彼らは視線を沖谷兄弟へと戻した。浩太郎は兄そっくりなたれ目を丸くして、准乃介はにこりと微笑んで、弟の頭に手を置く。


「俺が一番上。次がこれ」

「え……じゃあその下にあと、えと、五人?」

「まだ四人。夏に弟が一人増えるけど」

「あ、おめでとうございます」


 頭をふるふると振って大きな手のひらを避けようとする浩太郎を他所に、そんな少し間の抜けた会話をする。改めて「へええ……六人……」と、誰かが呟いた。

 直姫は一人っ子だし、他の役員からも兄弟の話は聞いたことがない。家族の話をあまりしないので、ただ単に言っていないだけということも考えられるが。唯一家族のことがよく話題に上る恋宵も、生後数日間はいたという双子の妹の話は、記憶にもないためにあまりできないのだ。そんな事柄を別にしても、さすがに七人兄弟はなかなかいるものではないだろう。

 紅は准乃介の兄弟たちとも顔馴染みのようで、後輩たちの反応を小さく笑いながら言う。


「妹さんがすごく可愛いんだ。小学二年生の子が由乃(よしの)ちゃんっていって」

「へぇ、二年生……末っ子ですか?」

「や、その下にもう一人いるよー、四歳のが。光稀(みつき)っていう」

「で、徹平(てっぺい)が四年生、か? それから、五年生の浩太郎と日南子(ひなこ)」

「双子なんですか?」

「そう。ヒナちゃんも准乃介とそっくりなんだ」


 紅はそう言って、可笑しそうに笑った。本人はなぜかなんとか隠そうとはしているが、紅の小さいもの可愛いもの好きは、もはや周知の事実といっていい。准乃介の小さな妹たちに懐かれて嬉しそうにする彼女の姿が、目に浮かぶようだ。

 真琴も子供好きなのか、興味津々で聞いている。恋宵は、「双子」と聞いて思わず反応してしまったのか、ぱちぱちと目を瞬かせた。リラックスした猫のような瞬きだ。


「へー、あたし双子ってあんまり見たことないにょろ。案外いないものよねー、ひじぃ」

「えっ? あ、そうかな。そうかも」


 突然話を振られて驚いたのか、聖が妙な反応をみせる。准乃介は、苦笑いを浮かべて言った。


「そ? 五回も産めばどっかで双子出てくるって、母さんが言ってたけど」

「そ、そういう問題ですかね……?」


 そんな話をしていると、浩太郎が准乃介の着ているブレザーの裾を引いた。いつの間にか、茶色いランドセルを背負っている。聖がサインしたノートと筆入れも、きちんとランドセルの中だ。


「准にい、みっきのお迎え。バスの時間」

「あ、そーだ」


 時計を見て、准乃介は夏生を振り返った。四歳だという末っ子の光稀のことだろう。あとから紅に聞いた話だが、自宅に近い私立幼稚園に通っているらしい。

 彼がなにか言う前に、夏生が答える。


「大丈夫ですよ、急ぎの用もないし」

「悪いね……あ、山崎さん、まだ中庭にいるかなあ?」

「えっとお、三十分は走り込みしてるから、まだいるはずですにょろよ」

「じゃあ勧誘は手伝えないけど、差し入れでもしとくわ」


 おつかれー、と言って出て行く准乃介のあとを、浩太郎が追う。兄に小声でなにか言われた彼は、扉の前でくるりと振り返った。


「ジュースごちそうさまでした。サインありがとうございました!」


 ランドセルをがこん、と鳴らしながら、深々と頭を下げる。顔を上げて、目が合った聖が笑いながら手を振っているのを見て、また屈託のない笑顔を浮かべて、それから生徒会室を出て行った。重い扉が閉まり切る前に、サインをもらったことを嬉しそうに報告している声が聞こえる。聖は笑ったままの顔で、言った。


「いやあーかわいいねえ」

「そう? なんか准乃介先輩が小さくなったみたいで、扱いに困る」

「言えてるにょろ~。無邪気な笑顔が違和感ありすぎだにゃあ」

「ふふ、でも、賑やかで楽しい兄弟だぞ?」


 目だけで笑って言った紅に、恋宵がぐりんと顔を向ける。その猫に似た目は、好奇心の色に染まっていた。


「紅ちゃんなんでそんなに准先輩のお家の家族構成に詳しいにょろ?」

「そうッスよね! 家行ったんすか? 紹介されたんすか? 家族公認すか?」

「はあ!? な、そんなわけないだろう!」

「由乃ちゃんに『お姉ちゃん』とか呼ばれてたりするのにゃ!?」

「そ、それはっ……まあ、」


 きゃあきゃあと騒ぐ三人を眺めながら、真琴が苦笑いを浮かべる。


「それにしても、びっくりですね……もうすぐ七人兄弟」

「面倒見いいから下がいるかなとは思ってたけど」

「五人もいたらそりゃしっかりしますよねえ」


 はは、と乾いた半笑いで言葉を交わす、夏生と直姫。少しの沈黙のあと、真琴は、ぽつりと言った。


「出産祝いとか……用意したほうがいいですかね……」

「え……さあ……?」



 ◇◇◇


 そんな出来事から、数日経ったある日のこと。

 生徒会室のテーブルの、入って右側の奥から二番目の定位置で、直姫は作業をしていた。パソコンに向かって、今度の定期発表会のパンフレットを作成しているのだ。

 何十種類も並んだフォントを流し見ながら、直姫は視線だけを上げた。テーブルを挟んだ向かいには聖が座っていて、紙の束を見ながら電卓を叩いている。

 その二つ隣、扉に一番近い席には、准乃介がいる。彼もまた、ペンを片手に紙に視線を落としていた。確か彼は、発表会の司会だったはずだ。直姫のクラスが親睦会の演劇を披露した発表会の時も、ホールには准乃介の声が響いていて、その度に女子生徒からの悲鳴のような歓声が上がっていたような気がする。

 生徒会室には現在、この三人しかいなかった。真琴は仕事で欠席、紅は剣道部の稽古中、恋宵と夏生は、用事で南校舎へ行っている。

 マウスから手を離して、直姫は腕を伸ばした。肩が小さく鳴る。立ち上がって、二人に声をかけた。


「先輩たち、なんか飲みますか?」

「あぁ……レモンティーにしようかなあ。俺、自分でやる」

「あっ、レモンティー俺も飲みたいっす! 准乃介先輩のレモンティーまじ美味しいんだよー」


 准乃介が立ち上がると、聖がぱっと顔を上げて言った。後半は、直姫に向けての言葉である。

 准乃介が小さく笑って、「直姫も飲む?」と言ったので、直姫は頷きながら答えた。自分からティータイムと言い出したのに、結局淹れてもらうことになってしまっている。直姫はごく小さく苦笑した。


「なんか手伝います」

「じゃあ、こっちにカップ用意しといてよ」

「わかりました」


 休憩室に入って、直姫が棚からカップを取り出したりしている間に、准乃介は湯を沸かしたり、レモンを切ったりしていた。冷蔵庫に常にレモンが入っている生徒会室ってなんなんだと、当たり前に並んでいるケーキやゼリーから目を逸らしながら思う。

 そもそも生徒会室に休憩室があって、給湯設備が揃っていること自体、少しも普通ではないだろう。聞いた話によると、ずいぶん前の生徒会長の我が儘らしい。それまでこの休憩室は、きちんと廊下に繋がった扉が機能する部室だったそうだ。もちろん、生徒会室と繋がる扉もなかった。

 机にカップを三つ並べたところで、准乃介がティーポットとスライスしたレモン、はちみつの瓶の乗ったトレイを持って、出てきた。カップにはちみつをほんの少しと、レモンを一切れずつ落としてから、紅茶を注ぐ。


「あ、いい香り」

「茶葉の種類も気にしてないけどね。ま、下手なの置いてないし、平気でしょ」


 そう言って、准乃介が口許だけで微笑した。紅茶と柑橘の香りが高く上り、時々甘さが鼻を擽る。


「あ、レモン、すぐ出してね」

「わーい、ありがとうございます」


 嬉しそうにカップを受けとる聖は、さっき自分でも言っていたように、相当これを気に入っているのだろう。直姫はカップに唇で触れたまま、しばらく息を吐き出す。猫舌なの、と聖が笑った。

 数分待ってようやく直姫の適温まで冷めたので、ゆっくりとカップを傾けた。紅茶の少し渋いくらいのコクと、レモンの酸味と、はちみつの甘さ。それぞれがバラバラのタイミングで舌に届いて、最後にはまとまって消えていく。直姫は紅茶には詳しくないので種類はわからないが、棚にある中から特に頓着せずに選んだというこの茶葉は、驚くほどレモンと相性がよかった。


「あ、おいしいです」

「やっと飲めたの」

「熱々が美味しいのにー」

「好きで猫舌なわけじゃないんですけど」


 そう言うと、カップを手に窓際に立っていた准乃介が、笑い声を上げた。直姫は、体ごと窓のほうを向いている。三分の一ほど開けられた窓から吹き込む風が、すっかり夏みたいになっていることに気付いた。見上げれば、空の色も雲の形も、梅雨前とは全く違う。

 特製レモンティーの後味を舌の上に感じながら、直姫は言った。


「准乃介先輩は……」

「うん?」

「ええと、どうして悠綺に入ったんですか」


 気付けばそう口にしていて、少し驚いた准乃介の表情に、気付けばすでに後悔していた。なんでこんなこと言ってるんだろう、と思っても、遅い。


「気になる?」

「……すいません、別に」

「ははっ」


 率直に言うと、准乃介は声を上げて笑った。紅の趣味らしい、真っ白のカップを傾けてから、直姫に流し目を送る。


「直姫は他人に興味のない人間だと思ってんだけど。変わったねえ」

「……先輩に、なにがわかるんですかー」


 准乃介の口調がまるで保護者で、直姫は唇を尖らせて、わざと可愛げなく言ってみせた。横から、面白そうに目を細める聖の茶々が入る。


「そーゆうとこじゃん?」

「なんですか?」

「冗談っていうか、軽口叩くようになった」

「……そうですか?」

「だよー。直姫のくせに生意気ぃ」


 歯を見せて笑いながら聖が言うと、窓のほうから、准乃介まで「なまいきぃー」とからかってくる。直姫は特に答えずに、眉を寄せて、レモンティーを一口飲んだ。

 不意に一瞬の沈黙が訪れる。三人が三人とも紅茶を口にしていて、飲み込んだ一拍の後に、聖が言い出す。


「この間、映画祭あったじゃないすかー。」

「うん?」

「あの時俺と恋宵ちゃん後から行ったんですけど、会場近くで人にバレちゃって」

「あぁ。大変だったみたいだねぇ。追いかけっこしたんだって?」

「そうそう、そうなんすよ。で、たまたま見つけた喫茶店に逃げ込んだんです」


 レモンティーはもう飲み終わったのか、聖はカップを置いて、急に饒舌になっていた。彼は人になにか話す時、一から順序立てて説明する癖がある。しかし恋宵や夏生にはいつも「話す順番が変」「脈絡がなさすぎ」と言われているから、きっと他の人に話す時には、そういうふうに努力しているのだろう。直姫はそれを黙って聞きながら、次にくる言葉を予想していた。


「ジャズ喫茶クラウド、っていうんですけど」

「ジャズ喫茶?」

「店の奥にステージがあるんすよ。小さいステージなんですけど、グランドピアノとかギターとかサックスとか置いてあって」


 准乃介が、へえ、と相槌を打つ。ちらりと上目で聖を見たが、その視線はすぐにカップの中に戻ってしまった。


「そこの壁にね、写真がたくさん貼ってあったんです。たぶん、ステージで演奏した人の写真を記念に撮ってるんですかね。結構有名な演奏家の写真もあったりして」

「うん」

「その中に、准乃介先輩にそっくりな男の人の写真があったんすよ。ピアノの前に座った、四十手前くらいの」


 聖も体ごと准乃介の方へ向けて、片足を揺らしながらつらつらと語っていた。あまり話すことに集中していないようだ。と言うより、自分の口から出る言葉よりも、准乃介の反応の方を見ている。


「……オキ セイイチって、もしかして、先輩のお父さんとかっすか?」


 なんでもないような口調と声色で、聖は尋ねた。平静を装ってはいるが、きっと実はものすごく緊張しているのだろう。なにしろ、家族の話をほとんどしない准乃介のことだ。したくなくてあえて避けていたんだとしたら、この話はすぐにでもやめるべきである。そしてその後を空気を悪くせずに取り繕えるかどうかは、言い出した聖にかかっている。

 准乃介は聖をじっと見たあとに、目を逸らして、ふっと笑った。


「そうだよ。よく見つけたね、そんなの」

「や、ほんと偶然で。一番奥の席に座ってなかったら、気付かなかったかもっすね」


 聖は視線だけで、安堵の溜め息を吐いた。直姫はそれを、掠るように眺める。その映画祭の時の、恋宵と夏生のやり取りといい、なんだかよくわからないことを頭の上で話されている気がするのだ。それがどうして落ち着かないのか、以前なら特に興味も持たなかったはずだ、ということは、もう気にも留めなくなっていた。自分は彼らに関心があるのだ、ということを、直姫は自覚しはじめている。野次馬のようなもの、人間観察の延長などではなく、純粋に、その人間に対しての関心だ。自覚どころか准乃介や聖にまで気づかれているとは思ってもみなかったが、なぜか少しだけ、自分のそんな変化を残念に感じていた。そして同時に、自然に受け入れてもいた。

 聖は、手持ち無沙汰にカップの取っ手を指先で撫でながら、続ける。


「先輩、ピアノ弾いてくれないッスよね。紅先輩は聴いたことあるんスよねー?」

「あぁ、そうだったかな? そんなに上手くないけどね」

「でも紅先輩に聞いたら、准乃介先輩にしか弾けない音だってのろけられたんすけど」

「のろけって……それ、紅の前で言ったら二時間正座させられるよ?」

「俺、先輩のピアノずっと聴いてみたいと思ってたんですよ」


 聖が唇を尖らせる。今日はやけに我が儘ばっかり言うね、と准乃介が目を細めて微笑んだ。

 夏生、なにか知ってるの。そう言った恋宵の声が、直姫の脳裏に甦る。聖はわざと、試しているのだ。甘え上手な後輩のふりをして、どこまで踏み込めるかどうかを。そんなこと聞いていいのか、と考えている自分に、直姫は気付く。

 だが、だめ押しのようにねだった聖に「えぇ、やだよ」と答えた准乃介は、笑っていた。目が笑っていないどころか、なんとなく照れ臭そうですらある。


「俺が人前でピアノ弾かないのはね」


 空になったティーカップを、トレイの上にかたりと置く。紅茶に濡れたレモンの乗った皿。はちみつを混ぜたティースプーン。甘酸っぱい香りは、いつの間にか消えかけていた。


「聞かれたくないからだよ。誰に習ったのって」


 教養として音楽を習う生徒の多い、悠綺高校ならではの質問だろう。有名講師やプロのピアノ奏者に習うことが一種のステータス、という考え方の人が大勢いるのだ。


「プロに教えてもらったなんて羨ましいって、あんまり言われたくないから、かな? 自慢するような腕前でもないしね」


 聖の口振りも准乃介の答え方もずいぶん端的で、直姫は脈絡と言葉の端々から、大雑把に推察するしかなかった。

 喫茶店の写真に写っていた男性は、准乃介の父親である。写真には、“オキ セイイチ”という彼のサインも入っていた。そして、父親のことを話していたと思ったら、唐突に准乃介のピアノの話題にシフト。准乃介は父親からピアノを習った、ということは、聖にとっては既知のことなのだろう。それを誰かに話して、「プロに教えてもらえるなんて羨ましい」という言葉が出てくる、ということは。


「……准乃介先輩、お父さんピアニストなんですか」


 なんだかやけに間抜けな質問をしてしまったと、口にしてから思った。二人の会話の速度にあまりに波があるので、ついていくのが少し面倒になってしまったのだ。

 准乃介は、目を細めて答える。


「んーん。ピアニストだったの、俺の親父はね。」


 それを聞いた直姫は、一瞬で、心の底から後悔した。浩太郎と話す時とは違う口調に、気付いてしまったのだ。

 だった、という、過去形。浩太郎と話していた時の「父さん」と、今言った「親父」との違い。

 言うべきではなかったのだ。

 聞くべきでは、なかった。



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