すぐそこで迷子
柏木聖は、かけ慣れない眼鏡を指で押し上げて、左右を見回した。昼過ぎに仕事が終わって、途中まではタクシーに乗っていたものの、道が混んであまりに車が進まないので、大きな通りで降りてきたのだ。
映画祭の会場は、確かもうすぐそこのはずである。夏生から送られてきた地図を液晶画面でもう一度確認して、聖はぐりんと首を傾げた。
(……迷った)
声は出さずに、唇だけで呟く。革のトートバッグを肩にかけ直して、またちらりと視線を巡らす。移動は車だからと油断して、帽子もマスクも持っていなかったのだ。伊達眼鏡だけではさすがに不安なのは、自惚れなどではない。以前部屋着のままでコンビニへ買い物に行って、サインやら握手やらで二時間家に帰れず、結局急遽マネージャーを呼ぶ羽目になったのは嫌な思い出だ。
ただ、表通りの道路の混雑に反して、一本裏に入れば驚くほど人通りの少ない道である。歩道すらない細い道の両端には、雑貨屋やら不動産屋やらが民家と入り混じって並んでいた。どの店もそう繁盛しているようには見えない。
誰にも気づかれていない今のうちに、できるだけ早く映画祭会場に行ってしまいたいところだ。
だが残念なことに、柏木聖は、極度の方向音痴だった。
夏生に電話をかけようと、携帯電話を取り出す。道に迷うことを危惧した彼がわかりやすいナビまで用意してくれたはずなのに、表通りの信号待ちですらないタイミングでタクシーを降りてしまったせいで、そもそも現在地が危ういのだ。電話口から呆れた溜め息が容赦なく浴びせられることは、覚悟しておかなければいけないだろう。
だが電話帳を開きかけた聖は、思わず声をあげた。
「あ」
さっき自分が歩いてきた角を、少女が曲がってきたのだ。
片耳にイヤホンを嵌めて音楽プレイヤーを弄っていた彼女は、俯けていた顔を上げた。丸い目がぱっちりと見開かれる。そして次の瞬間には破顔し、口からは小さな歓声が漏れていた。
「あーひじぃ!」
「恋宵ちゃん! 助かったあー」
「えーなに、また迷ってたにょん?」
ずばりと言い当てられて、聖は眉尻を下げる。
恋宵も今日は昼まで仕事が入っていると言っていたから、終わってすぐにこちらへ来たのだろう。彼女の細い肩には、ギターケースがかかっていた。小柄な恋宵が背負うギターは、やけに大きく見える。
「ひじぃ眼鏡だけ? 危なくにゃい?」
「いや、今日はずっと車だと思って油断して……てゆうか、」
「はは……うん」
「恋宵ちゃんもじゃない?」という言葉は、恋宵の苦笑いに遮られた。そう言う彼女だって、黒縁の眼鏡に、普段は下ろしたままの前髪をピンで留めている、という申し訳程度の変装だったのだ。あまり露出しない額を触りながら、恋宵が「へへ」と小さく笑い声をあげる。自覚しているあたり、聖とだいたい似たような状況だったのだろう。
「すごかったもんね、あっちの通りの渋滞」
「うん、映画祭終わっちゃうかもにゃあって。確か三時で終わり? だから……」
恋宵がパーカーの袖を捲るよりも早く、聖が手に持ったままだった携帯電話で時間を見る。
「あと二時間ないね」
「あ、じゃあ急がにゃいと」
そう言って、恋宵が歩き出す。道のわからない聖は、それについて行くのみだ。よかったあ、という聖の言葉に笑ってから、他愛もない話をはじめた、その時だった。
『ねえ、あれ、あの金髪の人』
『え? 柏木……』
『だよね? 聖くんだよね、KNIGHTの……』
ごく小さな囁き声だったはずだ。聖にはまったく聞こえなかった。だが恋宵の耳は、それを正確に拾っていた。
恋宵は振り返らずに、小さく「ひじぃ、バレちった」と呟いた。
「え、うそ」
「こっち来るにょろ」
恋宵の聴力の高さは、聖もよく知っている。彼女が言うのだから、間違いないのだろう。
これだけ人通りが疎らなら平気だろうと思っていたのだが、その考えは楽観的すぎたらしい。その数少ない数人の通行人が、聖の目を引く服装と、髪の毛に気付いてしまったようだった。
「どうしよ、しゃくる?」
「それねえ、効果ないにょろよ」
「あ、やったことあるんだ」
「それより電話してるふりとかのがいい……けろ」
「けど、ねえ……」
一人で歩いている時ならば、電話中だと遠慮して声をかけてきたりはしないだろう。だが二人でいる時に二人ともが電話を耳に当てているなんて、不自然にもほどがある。
どうしよっか、とわりと呑気に話しているその間にも、恋宵の耳はまた別の方向から音を拾っていた。
「これはまずいですにゃー……あっちも気付いた」
「まじ?」
ちらりと横目で視線を送った先には、学生服姿の少女が五人ほどでこちらを窺っている。少なくとも柏木聖が歩いている、ということだけは、明らかに気付かれているようだ。
『一緒にいる子誰?』
『アイドルかなんか? ギターケース持ってるよ?』
『……ねえ、聖くんと同じ高校の、』
『え? ……Ino?』
そんな声が聞こえてしまって、恋宵は思わず呟く。
「あ……やば」
「え? バレた?」
小さく頷く。振り返る勇気はないが、恋宵の耳が確かなら、背後からは遠巻きに複数の足音に追いかけられているらしい。そして、恋宵の耳が確かでなかったことなど、聖が彼女と出会ってから一度もなかった。
二人はちら、と顔を見合わせる。このまま映画祭会場へ向かえば、あらぬ誤解は避けられるかもしれない。だがそれまでに完全にバレて写真なんて撮られては困るし、制服も着ていない二人が駆け込んで、騒ぎにならないはずがない。そうなれば准乃介や真琴にまでかけなくていい迷惑をかけてしまうかもしれない。
逡巡ののちに二人が出した結論は、同じものだった。小さく頷き合う。
そして、聖がかすかな動きで右に顎をしゃくった瞬間に、角を曲がって走り出していた。
後ろの方で、悲鳴のような歓声のような、よくわからない奇声が上がった。例の女子高生集団のようだ。聖は小さく舌打ちをする。その声で気付いた周囲の通行人が、走り出した二人に目を留め、その目立つ容姿の正体に気付くのは、ごく自然な流れだった。
「恋宵ちゃん、ギター」
「え、え、あ」
肩に背負っていたギターケースのベルトを受け取る。走りながら腕から抜くのを手伝って、そのまま自分のトートバッグと一緒に肩に担いだ。バランスを崩した恋宵の腕を、反対の手で掴む。
とにかく入り組んだ道へ。
とにかく人のいないところへ。
目に入った角を反射的に曲がっていく。悲しいかな、聖にとって逃走なんて慣れたものなのだ。
恋宵のほうはそうでもないようで、息を切らしながら、聖に手を引かれてなんとかついて来ている、という感じだった。もともとそれほど運動が得意なほうでもない。聖一人ならば簡単に撒ける人数と距離だが、なかなか視線から逃れることが敵わない。今は、狭く路地の多い町並みに、ずいぶん助けられていた。
何度目の角か、小さなドラッグストアに沿って曲がった時だった。石畳の歩道はあるがやはり細い道の向かいに、下へと続く階段が見えた。地上に見えている二階は雑貨屋のようだが、蔦の這う一階部分は半地下のようになっていて、中は薄暗いがなにかの店らしい。階段の脇に看板が出ている。
聖は考える前に、その階段へと飛び込んでいた。座り込めばとりあえずは身を隠せそうだが、咄嗟に下まで降りて、木の扉の向こうに滑り込む。
窓から外を窺うと、直後に沢山の足が走りすぎて行くのが見えた。どうやら、間一髪、うまく撒けたようだ。
「はあ……危なかったあ……」
一息吐いて、聖は暗い方へ視線を移す。
当面の危機は脱したようだが、今外に出るなんて無謀なことはできない。夏生に連絡して迎えを頼んで、来てもらうまでは時間を潰しているしかないだろう。そう思って、店内を見渡したのだが。
木のもので統一された調度品、落ち着いた色合いの店内、長めに取ったカウンター。照明は小さめのシャンデリア風で、奥の席にはシェードランプがテーブルに置かれている。極めつけは、ゆったりと流れるBGMのジャズ。
一瞬、バーに入ってしまったかと考えた。もしそうなら、万が一バレた時に大変なことになる。白昼堂々バーに出入りする現役高校生のアイドルとシンガーソングライターなんて、週刊誌の格好のネタにもほどがある。
だがすぐに、自分の思い違いに気付いた。鼻を擽るのが、心地よいコーヒーの香りであることに気付いたのだ。そもそも昼間にこんな平凡な商店街で営業している飲食店が、高校生が入って問題のある店なんてことはまずないはずだ。全力疾走したせいで、頭の働きが鈍っているのかもしれない。
実際、ここはカフェバーかなにからしい。慌てて入って来て肩で息をする若い二人を訝しむでもなく、カウンターの中で調理台に向かっていた初老の男は、奥のテーブルに案内した。
「ご注文は」
「えーっと……アイスコーヒー」
「あたしも同じの、おねがいします」
「かしこまりました」
冷えた水のグラスをテーブルに置いて彼が立ち去ると、二人はそれを掴んで一気に飲み干した。ぷはあ、と息を吐いてグラスを置いたタイミングが同時で、小さく苦笑いを交わす。
「あ、ひじぃ、ギターありがと」
「ああ、うん……ごめんね、なんか」
「にゃにが?」
「もっとちゃんと変装しとけばよかった」
「んにゃあ……お互いね……」
恋宵は言いながら受け取ったギターケースをテーブルに立て掛けて、店内をぐるりと見渡した。初老の男は店主なのだろう、他に店員の姿は見当たらない。てきぱきと動き回ると、すぐにグラスの二つ乗ったトレイを持って戻ってきた。ことりと小さな音を立てて、丸いテーブルの上にグラスが増える。そしてまたカウンターに戻った彼は、手に粉をはたいて再び作業を始めた。レジの横にクッキーの袋の入ったカゴが置いてある。今作っているのも、焼き菓子なのだろう。
上から光の入る窓。すぐ向こうの景色は、ただの蔦の這った石の塀だ。それが独特の雰囲気を作り出しているのか、もしくは濃厚すぎないコーヒーやバニラの香り、あるいはオレンジがかった照明と木の壁にかかった絵のせいか。そんなものをぼんやりと眺めていて、ふと思い出す。
「夏生に連絡しなきゃね」
「あ、そーねえ」
「メール打っとく」
「うん」
静かな雰囲気に呑まれて、自然と声が抑えられる。聖が携帯電話を操作している間の、わずかな沈黙。夏生からの返事は意外に早く、迎えに行くから詳しい場所教えて、と簡潔に書かれていた。
「えっと……店の名前、なんだった?」
「え、わかんにゃ……あ、コースターに書いてある」
少し濡れた紙製のコースターには、くせのある英字が書かれていた。手描きなのだろう、店名らしい『CLOUD』だけは全て大文字で書かれているが、大きさが不揃いで文字が歪んでいる。それが妙にバランスが取れていて、味のあるロゴになっていた。
「ドラッグストア向かい、と」
「抜けて来れるかにゃー。会場はすぐそこなんだけろ。歩いて五分くらい」
「えっ、そうなの」
「そーよ?」
あっちの角を左に行くとさっきのコンビニの前に出るでしょ、そしたら向こうにずっと歩いて突き当たりで左に行ったらあるにょろ。
そんな説明を口頭でされても、ただでさえ自分がどこにいたのか知らない上、適当に走り回って余計現在地がわからなくなった聖に、伝わるはずもない。眉を寄せて首を傾げる聖に、恋宵は苦笑いをしてアイスコーヒーを飲んだ。
「きっと全部上映終わってるねえ」
「あとでDVDで貰えるはずだけどね……生徒会室で観ちゃえ」
「他の学校のも観れるにょろ? 楽しみ」
その頃会場では最優秀作品賞の発表が済み、優秀作品賞、つまり二番手だった他校に絡まれた真琴がなんとか逃げ出していたなんてことは、二人には知る由もない。
夏生の迎えを待っているしかないとわかれば、途端に時間を持て余してしまって、二人は改めてぐるりと店内を眺める。そして視線は自然と、店の一番奥、二人の着いた席のそばにあった、小さなステージへと向いた。
ステージといっても、十センチほど高くなった部分が、直径三メートルほどの半円状にあるのみである。その上にはグランドピアノが、柔らかいオレンジ色の光をぼんやりと照らし返していた。ずいぶん古いものなのだろう。角は丸くなり、剥げて塗装し直した跡が何箇所もある。椅子は革を張り替えたばかりなのか座面だけ真新しく、アンバランスに生き生きとしていた。
「ピアノかー……俺挫折したんだよね」
「ひじぃピアノやってたの? ……みんなやめちゃってるのねえ。直ちゃんも過去形だったし……あと、准先輩も」
「うちは兄貴が器用で上手だったから、一緒にやらされただけで……准乃介先輩はプロ並みって聞いたけど、絶対弾いてくれないんだよね」
「そーにゃのよ、紅ちゃんは聴いたことあるらしーのに」
「えー、ずるーい」
そう言って、ストローをくわえる。
生徒会室に繋がった隣、休憩室と呼んでいる部屋には、ここにあるものよりも幾分新しいピアノが当たり前のように鎮座している。誰がいつ置いたものなのか定かではないが、恋宵が時々気紛れに弾いたりしていた。
それを准乃介が弾いていることがごくごく稀にある、という噂だけが、まことしやかに存在するのだ。実際に彼の演奏を聴いたことがあるのは、紅だけらしい。准乃介に頼んでも笑顔で躱されるだけだし、紅に感想を聞いてもはぐらかされるのだ。
「二人だけの秘密ってか。あやしー」
「夏生もピアノとバイオリンはやってたはずにゃのに、弾いてって言ってもめんどくさがって嫌がるじゃにゃい」
「あー、実は下手なんじゃん?」
「そうだったらオモシロすぎるにゃ」
ステージの隅に置かれた古ぼけた道具たちや、奥の壁に貼ってある写真なんかをぼんやりと見ながら、なんでもない言葉を交わす。中身も根拠もない話だ。
と、不意に、聖が「あれ?」と声を上げた。
「あの写真……」
立ち上がって、壁一面を埋め尽くす写真に近付いて行く。ピアノと寄り添ったり椅子に腰かけたり、他の楽器を持っていたり、どれにせよステージの上で撮られた写真ばかりだ。きっと、ここでこのピアノや別の楽器を演奏した人たちの写真なのだろう。
その中の一枚、端が黄ばんだ古い写真に、聖は引き寄せられるようにじっと見入っていた。整った顔立ちの中年男性が、ピアノの前に腰かけて、カメラに向かって微笑んでいる。切れ長のたれ目が柔和さを醸し、立ち上がっていなくても十分わかる脚の長さだ。
「かっこいい人にょろねー」
「うん……いや、そうなんだけど、なんか」
そう言った時にはもう聖は、ある一つの確信を抱いていた。
なぜかはわからない。だが、そうとしか思えなかった。そうとしか思えないほど、明らかだったのだ。
優しげに細められた目が。
薄い唇が。
少し癖付いた髪が。
しなやかで長い指が。
「なんか……似てない……?」
「え? 誰に……え」
「ね、そっくりだよね」
「え、は、あれ? うそ」
「准乃介先輩に」
いつもの微笑みから棘を抜いた准乃介に、そのまま三十歳年を取らせたような男性だった。あまりにも似すぎている。写真の隅には、小さくサインがしてあった。丸っこい文字で、『Seichi Oki』と書かれている。
「オキ、セイイチ……」
「ねえ、准乃介先輩、確か」
「うん、知り合いが」
「ピアニストって……」
そう言ったきり、思わず黙り込んでしまった。その沈黙で、自分の抱いた疑問が、相手の考えにも浮かんでいる、ということをお互いに確信する。
そして、聖は、ぼそりと言った。
「……ほんとに、ただの知り合い、かな……」
◇
「あっれー……直姫だ」
薄暗い店内から外に出て、眩しさに目を細めてから、聖は言った。日焼け跡が気になるほどの日差しでもないので、外していたUVカット加工入りの伊達眼鏡を再びかける。ただの黒縁眼鏡では変装としての意味は全くと言っていいほどないということがわかったので、眼鏡をかけた姿が気づかれてもなんら支障はないだろう。次からは、もっとちゃんと人目を避けられるものをなにか考えなければならない。
夏生からのメールで店を出た二人を迎えたのは、いて当然の友人と、いるとは思っていなかった後輩だった。直姫は歩きながら、生意気そうな視線で聖を見返す。当たり前でしょ、か、見ればわかるでしょ、か、そうですけどそれがなんですか、のどれかだろう。
「行こ。もう表彰式も三十分くらい前に終わったよ」
「表彰式なんてあったにょろ?」
「そう、あったの」
「へえ……。てゆーか、歩きなんだね」
「そりゃ、すぐ近くだし。地図、送ったよね?」
「あ、うん……けど、えーっと、めちゃくちゃに走ったから、途中で現在地がですね」
「……はあ……」
夏生は呆れた表情を浮かべて、まるで苦労人のような溜め息を吐いた。聖は申し訳なさそうに苦笑いするしかない。本当は走り回って逃げる前から、夏生に送ってもらった地図は本来の役目を果たしていなかったのだ。
「まあ……それに、車じゃ目立つでしょ。道が狭いから、停められるのかもわかんなかったし」
「うん、でも、歩きでも十分目立ってるにょろよ?」
「それは先輩たちの変装が雑なせいでしょう」
「う……くそう、直姫も有名人になってしまえ。ひじりんとInoちゃんのお友達としてお馴染みになってしまえ」
「意味わかりません」
それなら目立たない車で迎えにくる、という選択肢は、そもそも夏生には存在していない。生まれてこのかた、日本の公道で圧倒的に有利な、いわゆるコンパクトカーやファミリーカーなどの類いには、もしかしたら触れたこともないのだ。
「それで、なんで直ちゃんだったにゃ?」
「ちょっと……めんどくさい人たちが帰ってやっと解放されたので、真琴は思う存分食べてます」
「へ?」
きょとんとする二人に、夏生は特に説明もせずに続けた。
「男子の制服二人と歩いてれば、変な誤解も減るでしょ。紅先輩とか准乃介先輩じゃ逆効果だし」
夏生の言ったように、明らかに学校の友人とわかる二人と歩くことは、確かに意味があった。アイドルの柏木聖と、歌手のInoが連れ立って歩いている。そのせいで視線を集めてはいるが、制服姿の夏生と直姫を見ると、皆すぐに目をそらすのだ。四人が友人関係であることは明白だし、一般人を巻き込んでまで大騒ぎするわけにはいかない、という暗黙のルールのようなものが、きちんと存在するのである。だったらそのルールを芸能人の日常生活に踏み込まないということにも適用してほしいものだが、自分自身を商品にしている以上はそんなことが言えないのもまた、聖にだって十分わかっていた。
「まあ、そっか、そうだね」
「あ、ねえ、」
よいしょ、と肩のギターケースを担ぎ直した恋宵が、夏生に言う。今の「准乃介先輩じゃ……」という言葉で思い出したのだろう。彼女がなにを言おうとしているのかは、聖にもすぐにわかった。
「さっきの喫茶店ね、奥に小さいステージがあって、立派なピアノ置いてあるのよー」
「ステージ?」
「ジャズ喫茶なんだって。」
「へー」
夏生からは、全く興味のなさそうな反応が返ってくる。だが聖や恋宵にしてみれば、そんな彼の態度はいつものことだ。不器用な子なんですう、とふざけて言えば呆れた表情を返されるような、日常のことである。
夏生に続いてある角を曲がると、正面に大きな建物が見えた。大きなといっても、悠綺高校の各校舎とそう変わらないくらいだろう。
「あ、こんな近かったんだ……」
「それでね、ピアノのそばに、写真が沢山貼ってあるのね。きっとそのステージで演奏した人を記念に撮ってるにょろ」
「ふーん」
「その中にね、十年くらい前の日付が入った写真があったのよ……ピアノの前に座った、男の人。その写真に、サインが入ってたにょ。『オキ セイイチ』って」
「……え?」
その時夏生が、はじめて反応らしい反応を返した。振り返った友人に、恋宵は続ける。
「優しそうで、かっこいい人でね、准乃介先輩にそっくりだったにょろ」
いつも通りのふざけた口調で、だが恋宵の大きな丸い目は、真剣な色を帯びていた。
「その顔。……なっちゃんはやっぱなんか、知ってるのにゃあ?」
そんな彼女の表情に、直姫でさえわずかに目を丸くした。なんのことを言っているのか、と聖を見る。聖は、恋宵の横顔を直姫を見比べてから、曖昧に首を傾げた。
「いや、」
夏生が口を開く。
「知らないよ、なんにも」
「……ほんとに?」
「俺が今まで、あんたに嘘吐いたことあった?」
「ないにょろ……黙ってたことはいっぱいあるけろ」
「今、知らないって言ったでしょ」
「むう」とも「うう」ともつかない声をあげて、恋宵は口を閉じた。直姫が丸くした目を、驚いたように瞬かせる。恋宵が夏生にこんなふうに食い下がったことも、夏生が恋宵に言い聞かせるように話したことも、意外だったのだろう。確かに、これが恋宵じゃなかったら、なんの反応も返さずに無視しているか、にこりと笑ってはぐらかしているところだ。
直姫にしてみれば、なんの話をしているのかさっぱりわからないに違いない。ジャズ喫茶にあった写真に、准乃介に瓜二つの男が写っていた。それだけのことだ。
恋宵はそんなことを聞きたかったんじゃないんだろう、と、聖は思っていた。
きっと、不安になったのだ。准乃介が絶対に人前でピアノを弾かないことも、それについて紅があからさまになにかを隠すような態度を取ることも、自分はなにも知らない。まるで、お前は知らなくていいと、突き放されているような気分なのだろう。加えて夏生の、すべて見通してでもいるような目。情報戦の駒にされているような、自分の足元しか見えない感覚。
乃恵との間にあった盗作騒動で、“知らない”ということの恐ろしさを、身に沁みて感じたのだろう。今突然そう思ったのではない。恋宵の不安は、潜在的に常にあるものだった。
「ほら、行こう。一応一通り挨拶くらいはしておかないと。プロモーションなんだから」
夏生が言って、一人でさっさと歩き出す。小首を傾げた直姫が、背中を追う。唇を尖らせてその後に従った恋宵を見ながら、聖は、どこか悔しさすら感じていた。
夏生はきっと、恋宵のそんなところまでわかった上で、今に限って、あえてはっきりと言葉にしたのだ。恋宵も憮然とした表情のままではいるが、足取りは重くない。自分にはきっと築けない、言葉の足りない信頼関係が、もどかしくも、心地よくも、羨ましくもあった。
◇
「意外と人少ないにょろねえ」
恋宵の言葉は、直姫も感じたことだった。ずいぶん人が減っている。表彰式終了後の立食パーティーは自由参加ということにしてあるので、一通りの挨拶を終えるとさっさと帰ってしまう学校が多かったためだろう。
今までそれほどはっきりと感じたことはなかったが、改めて他校と交流できる場に出てみると、悠綺高校は近隣の学校からはいまいち評判が良くないということがわかる。自分の学校と比べてしまうせいだろう、というのはわかるのだが、どうせ僻みと生徒は誰も気にしていない。その余裕もまた、気に入らないのだろう。
この映画祭では、それが顕著だった。
なにしろ他の学校は、充実しない設備と小道具、足りない人員で、勉強や他のことの合間でなんとか映画を完成させているのだ。撮影場所のこともあるし、撮った映像の編集だって容易ではない。そんな苦労を重ねて作り上げた、思い入れの強い作品だ。
それなのに、時間と金をかけて、広大で見映えのする校舎で、在校生とはいえ人気の芸能人まで使って撮影した悠綺高校の作品が、最優秀賞をかっさらっていったのだ。腹が立たないはずがないと、無関係の直姫でさえ思う。
住む世界が違うと、本気で思っているのだろう。金持ちの家の子供だから自由に使える金が無限にあって、顎で使えるコネがいくらでもあって。全国トップクラスの学力と云われる名門校に入学しても、ご子息ご令嬢だから、勉強なんて少しもする必要はなくて、時間は有り余っていて。芸能人だから、なんの練習もしなくても演技が上手いのは当たり前で。そんなふうに、本気で思っているのだ。
創造力がない、と思った。そんな貧弱な発想しかできない人たちの作る映画が、面白いわけがないとさえ。
(……なにを苛立ってるんだか、)
制服姿の中で浮いている聖と恋宵をちらちらと見て、なにやらこそこそと言い合っている他校の生徒を見ながら、直姫は小さな動きで深呼吸をした。別に、評価が不当だったわけではない。審査員は主に、市や教育委員会の人間だ。地味なグレーのスーツ姿で、落ちつなかげにうろうろしている人もいる。彼らはちゃんと、見るべきところを見て、評価したはずだ。
開け放しのドアからホールに入ると、ほど広い空間に、細長いテーブルが並んでいる。と同時に沸き起こったざわつきで気付いたらしい、真琴が、皿とフォークを両手に振り返った。そして、満面の笑みを浮かべる。
「あ! 先輩たち、間に合ってよかったです」
「大変だったにょろよー……ひじぃが迷子で鬼ごっこ」
「へ?」
真琴は笑顔のままで、きょとんとした顔をした。しながらも、皿に乗った生ハムのサラダを頬張っている。
真琴の暴食と言っていいぐらいの食べっぷりから視線をそらして、傍らでは、准乃介が紅と談笑していた。さっき恋宵の言っていた写真の話が気になるが、どこにも聞ける雰囲気ではないし、今気にすることではないだろう。
ふと直姫は、そんな二人の背後で、背広姿がうろついていることに気付いた。さっき見かけた、審査員の一人らしい男だ。枯れたように痩せていて、スーツも新しいものではない。なんとなくこの場にそぐわない印象だが、やけに風景に溶け込んでいる。
直姫が横目でその男を眺めていると、夏生がそばに寄って来て、言った。
「あのグレーのスーツ、週刊誌の記者だよ」
「えっ?」
「え、あいつ、いつも悠綺の生徒マークしてる奴じゃん」
いつのまにか、聖も隣に並んでいる。
「マークって? うちはマスコミは完全シャットアウトですよね」
「外での行動追っかけてんだよ。あそこの社長令嬢が校外で誰と会ってたとか、対立してる政治家の息子同士が仲良くて、学校帰りに数人でケーキ屋に寄ってくオトメンだとか、そーゆう小ネタ記事にしてんの」
「くだらな……どっかにシメられたりしないんですか」
「大物は徹底的に避けるんだよ。ギリギリ訴えられないラインを狙っていく。だからタチが悪い」
へえ大変ですね、と直姫が呟くと、「直姫だって他人事じゃないかもよ、気を付けとかないと」と聖は言った。確かに、それもそうだ。悠綺高校に特待入学した元政治家の息子が実は娘です、なんて、いくらなんでも洒落にならない。
細めた目を件の記者へ向けると、彼は料理を眺めながら、少しずつ距離を縮めてきていた。明らかに、准乃介と紅が話している背後へ近付こうとしている。会話の内容を拾って、人気モデルと名家令嬢の密談、なんて見出しの記事でも書くつもりだろうか。
聖が一歩踏み出したのと、准乃介が振り向いたのは、ほとんど同時だった。
「いい加減にしてもらえませんか?」
紅も全く気付いていなかったのかと思いきや、少しも驚かずにスーツの男を睨み付ける。彼はへらりと笑って言った。
「や、やだなあ……たまたま映画祭の取材で来てただけですよ」
「だったらこちらへは近付かないでください、僕らへの取材は学校を通すことになってるでしょ」
「はいはい、すいませんねえ」
准乃介が邪険に扱うのは、まだわかる。直姫も最近気付いたのだが、彼は柔らかな印象とは裏腹に、驚くほど排他的だ。自分で懐に招いた者以外へ目が笑うことは、全くない。
だが、紅までがそんなに固い表情を見せることは、少し意外だった。彼女は准乃介とは正反対で、気を許した者以外に怒ったり負の感情を見せることのない人間だと思っていた。
「あの記者、一年前に一度だけ、大スクープ掴んだことがあるんだよ」
聖が小さな声で言った。直姫がそばにある顔を見上げると、彼は困ったように下げた眉尻で、直姫を見返す。
記者は、紅の鋭い目にも怯まずに、にへらと下品な笑いを浮かべていた。
「相変わらず、仲がよろしいんですねえ。お嬢様と」
そう言った瞬間、ぴくりと動いた紅の肩を、准乃介が軽く叩いた。関わらないで、行こう、という無言の合図に、紅が従う。目を逸らすまでずっと、草臥れたスーツの男を睨み付けたままだった。さっきまでよりも、ずっと険しい目付きで。
どういうことですか、と、視線だけで聖に尋ねる。
「二年の時に、二人、あいつに撮られた写真で週刊誌に載っちゃったんだ」
「……前に、榑松さんが言ってた」
「そう、紅先輩は一般人なのに、家のことまで書かれて」
悠綺高校に通う高校生の娘がいる剣道家元なんて、日本にそういくつもあるわけがない。
人気急上昇中でテレビにも出始めたモデルと、名家の娘の相瀬。実際にはただ町中でばったり会って立ち話をした程度のことらしいが、それがそんなふうに報じられてしまったらしいのだ。
しかも直姫が榑松から聞いた話では、その記事の見出しというのが。
「……『身分違いの恋』、ですっけ」
「……そういうのってさ。どっちか片方が気にし出しちゃうと、ね、」
聖は、その後に言葉を続けなかった。




