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ONLOOKER  作者: 鳴瀬倉
31/31

階段の踊り場ですれ違ったような話

 

 控えめな声量で名前を呼ばれて、振り返った真琴は、目を丸くした。


「大友さん。どうしたの?」


 いつも凛とはりのある声を上げているイメージのある大友麗華が、そんなふうに小声で話しかけてきたことに、少し驚いたのだ。それに、元来男子生徒と積極的に接点を持つほうでもないため、直姫の隣にいない真琴に声をかけてきたことも、意外だった。

 麗華は聞かれたくない話でもするように、言う。


「あの、この間、映研部の依頼で撮らせていただいた映画のことで、お話が」

「あぁ、あの……」


 一月ほど前、映画研究部から依頼を受けて協力した、生徒会役員総出演の自主制作映画のことだ。

 同じく自主制作の映画作品を持ち寄って完成度を競う映画祭への参加作で、悠綺高校のその映画は見事最優秀賞を受賞した。悠綺高校のプロモーションになるからという名目で依頼を受けたものの、内容は殺人の起きた校舎内に生徒が閉じ込められるというサスペンスで、正直いってあまり宣伝になっていない気がしてならない。要は単純に、完成度のためにプロの役者を使いたくて、そのプロの役者の演技を見せつけるための、シリアスなシナリオだったのだろう。

 その自主制作映画において脚本を担当したのが、映研部所属の麗華だった。とはいえ、真琴たちは後々まで彼女が関わっていたことを知らなかったのだが。結果発表の時の麗華の笑顔を思い出して、真琴はなんとも言えない気持ちで苦笑いを浮かべた。


「どうかしたの?」

「今日の放課後、他校の生徒がわが映研部の機材の見学に来ることになってますの。あの映画祭にも参加していた学校なのですけれど」

「見学……そっか、うちは使ってる機材もプロ並みだもんね」

「形から入るタイプですのよ」


 麗華がはにかんだように笑う。実力が伴っているわけではない、という謙遜の言葉のつもりだろう。

 だが悠綺高校の映研部は、経験値こそないとはいえ、高校生とはとても思えない技術を持っているのは確かだった。先日の映画祭での最優秀賞受賞も、それほど意外な結果ではなかっただろう。

 しかし他の受賞作品との完成度の差があまりにも大きかったせいで、映画祭会場にいた他校の生徒から、反感を買いまくることになってしまった。どうせはじめから出来レース、プロの役者を使うなんてずるい、使っている機材が高級だから、金と時間のかかる技術を使えるから、金持ちは暇だから。そんな陰口を叩かれ、挙げ句の果てには金で雇ったプロに撮ってもらったのではないかとまで言われて、真琴もずいぶん不愉快な思いをした。

 あの会場に、悠綺高校に好感を持っていた学生なんて、いなかったはずだ。なぜわざわざ、気に食わない奴らのホームへ飛び込んでくるような真似をするのだろうか。まさか隙を見て嫌がらせの細工でもする気では、とまで考えが及んだところで、麗華が続けた。


「それでね、佐野くんにお願いがあるんですの。放課後、お時間いただけないかしら?」

「放課後? 今日の?」

「えぇ、急で本当に申し訳ないんですけれど……ちょっとした、演技指導というわけじゃないけれど、お力を貸していただけたら、と思って」

「演技指導って……僕が? そんな、全然なにもできないと思うけど」

「インタビュー感覚で、少しお話してくださるだけで構いませんのよ。ぜひプロの方にお願いしたいらしくて……駄目かしら?」

「うーん……今日かぁ」

「ご都合でも悪くって?」


 困った顔をする麗華に、真琴も眉尻を下げた。彼女の言い方から察するに、きっと見学に来るという他校の映研部の希望なのだろう。

 一体どんな成り行きで機材見学なんてことになったのかはわからないが、もともと好印象を持っていない彼らにいいイメージを与えるチャンスだし、相手方の希望はできるだけ叶えておきたい、というのはわからなくない。こんな時あの友人なら、「向こうが勝手に嫌ってるんだから、別に嫌わせておけばいいじゃん」なんて言うんだろう、と真琴は考えた。

 その時、図ったようなタイミングで、件の友人の声が割り込んでくる。


「真琴、しばらく忙しいって言ってなかった?」

「あら、直姫くん。ごきげんよう」

「どうも」


 直姫は、にこりと口許だけで笑った。


「やっぱりお忙しいんですの? 佐野くん」

「まぁ……ちょっとね」

「ほら、英語のスピーチコンクール、うちのクラスからは真琴が出ることに決まったでしょ」

「そうでしたわね……練習は順調?」


 ことりと首を傾げた麗華に、真琴は苦笑いを返した。運悪く仕事が重なってしまったせいで、正直なところ、練習どころか原稿の最終確認も終わっていないくらいだ。そういった意図を汲み取ったのか、麗華は頬に手のひらを添えた。


「そうね、お仕事もしてらっしゃるんですもの、当然ですわよね……」

「演技の話聞きたいなら、他にもいっぱいいるじゃん。聖先輩とか准乃介先輩とか、三年の井上先輩とかでも」

「ちょ、ちょっと直姫……、」


 友人のぞんざいな物言いに慌てた真琴の眉尻が、どんどん下がっていく。同時に麗華の表情も、みるみるうちに曇っていった。


「もちろん、他にもお声はかけさせていただきましたわ。けど」

「どうかしたの?」

「先方が、どうしても佐野くんにとおっしゃっていて」

「え?」


 真琴が困って直姫を見ると、怪訝な表情を隠しもせずに、眉を潜めていた。真琴のほうを向くと、小さく首を傾げる。


「どうして僕に……? 芸歴も長くないし、映画にもたくさん出たわけじゃないし」

「佐野くんのファンなのではなくて?」

「だからってそんな……真琴の都合もあるし、仕方ないでしょ」

「十分でも五分でもいいから呼んでくれないかと、頼み込まれてしまって。一応お断りはしたんですけれど、試しに声だけかけてみてくれないか、とのことなんです」


 麗華の困り果てた顔は、映研部の代表として真琴に話をつけに来たというよりも、ただちょっとした愚痴をこぼしたいクラスメイトの姿になっていた。実際には先方に無理を言われたのは部長なのだろうし、麗華の役目はただのメッセンジャーだ。

 直姫は眉を少し上げて、真琴を見た。口許には苦笑いが浮かんでいる。


「まさか、あのコネ狙いのごますり部長じゃないよね……なんだっけ、田所? 違うな……」


 直姫も、全く同じ人物のことを思い浮かべていたらしい。名前はうろ覚えだが、あまりにぴったりのタイミングで言ったので、真琴は、自分が声に出してしまったのかと思ったくらいだった。

 直姫のほうを見ると、片眉をひょいと上げて見せる。麗華は、小さく首を傾げた。


「そんな名前でしたかしらね……田村さま? いえ、田辺さま……」


 彼女の言葉を聞いて、二人は苦笑いを浮かべ合った。さすがにそんなことは、という笑いだ。似たような名字なんていくらでもある。好きな映画監督へのパイプ役を頼むためだけに、わざわざ部室見学を申し込んで忙しい真琴に時間を作ってもらうなんて、並みの行動力と常識ではできないだろう。

 スピーカーから、音質の低いチャイムが鳴った。きんこんかんこん、というポピュラーな響きは、この悠綺高等学校の唯一普通の高等学校らしいところだ。真琴は席に戻る前に、慌てて言った。


「大友さん、とにかく今日はちょっと無理そうなんだ、ほんとにごめんね」

「いいえ、お気になさらず! ご無理はなさらないでね」


 授業がはじまってから気付いたのは、結局先方の学校名も、どんな学校なのかも、ほとんど聞けなかった、ということだった。


 

 ◇◇◇


 放課後の真琴は、忙しなく足を動かしていた。

 以前からCM契約しているメーカーの新商品の発売が近いのだが、今回は特に力を入れていて、五十パターン以上ものCM撮影の真っ最中なのだ。ちょうどその撮影の時期と、英語スピーチコンクールの準備期間が重なってしまった。おまけに、学期末テストも近い。

 学校が終わったらすぐに仕事に向かい、仕事から帰ったらまた勉強して、眠くて働かない頭で作るスピーチ原稿は、遅々として進まない。今日になってようやくなんとか形にはなったが、まだ誰かにチェックしてもらう必要がある。語学の得意なクラスメイトに頼んでもよかったが、やはり先生に見てもらうのがいいだろうと、英語教師のマリーを探して、校舎をうろうろとさまよっていた。

 職員室で待っていればわざわざ真琴が歩き回ることもないのだが、いつ戻ってくるのかわからないため、少々時間が無駄になってしまう。クラスメイトや通りかかった先生の話では、最後の授業は三年生だったから、他に用がなければ北校舎にいるはず、とのことだったので、急いで足を運んだのだ。

 仕事と勉強とコンクールの準備が重なって、正直少し疲れ気味だ。最近食欲もないし、と昼休みに溜め息を吐いたら、直姫に「おにぎり四個平らげた人の言うことじゃないと思う」と真顔で言われてしまったが。ちなみにその時点で、まだ二つ残っていた。

 ちょっと小腹空いたかも、と思いながら、腕時計を確認した。校舎前にはそろそろマネージャーが迎えに来ているはずだ。原稿はマリー先生にその場で添削してもらうとして、と、顔を上げた、その時だった。


「あ、れ……佐野!」


 聞き慣れない、だが確かに聞き覚えのある声がした。

 振り向くと、今真琴が素通りした階段を、上から降りてくる、見知った顔。真琴は目を丸くして、口を開けた。


「へ? み、光村?」

「今日は帰っちゃうって聞いてたのに」


 なんでここにと言いそうになって、彼が、今は名桜館学園に通っていることを思い出した。小学校の頃の友人だった彼と、先日偶然の再会を果たしたばかりだったが、その場というのが、あの映画祭だったのだ。卒業以来お互いなんの音沙汰もなしだったが、再び出会ったのは、名桜館の映画研究部と、悠綺高校映研部の作品出演者としてだった。

 思わぬ再再会に驚いた真琴は、同時に、直姫と自分の「まさか」が大当たりだったことを悟る。映画祭の時に光村たち映研部員を引き連れて話しかけに来たのが例の、強引で下心見え見えな、田畑部長だったのだ。


「機材見学って、名桜館だったんだ……」

「うん……よくOK出たよな」

「あは、そうだね」

「でも機材の使い方とか撮影テクとかより、部長は芸能人に話聞くほうがメインみたいで。レポーターみたいになってるよ」


 真琴は、困ったような苦笑いを浮かべた。他にどう反応したらいいのか、わからなかったのだ。光村がいい顔をしていなかったのもある。やっぱりあまり好かれてないんだ、と感じたが、同調するのはさすがに気が引けた。


「けど、有川さんが話聞かせてくれるっていうから、抜け出して来た」

「光村、カメラマンなんだ?」

「うん……テクニック磨く前に、体力つけなきゃだめかもな」

「有川先輩は陸上部とかけもちなんだよ。砲丸投げ」

「うわーギャップゼロ」


 なんでもない話が、少しだけ盛り上がる。そんなことがやけに嬉しくて、真琴は落ち着かなかった気分が、わずかに癒されるのを感じた。

 小学校五年生で光村が転校してしまってから、もう会いたくないな、と漠然と思っていたのだ。一度は友達になったのに真琴をいじめる側についた彼を、裏切ったと思っていた時期も少しだけあったし、その頃は、ずっとこの傷を抱えたままなのかもしれないと、暗く予感していた。

 だが結局は、恨まずに済んだ。恨まずに済んでいたと気付いたのは、映画祭で再会した時のことだ。

 ぎこちなくはあったし、気まずい思いもあったが、光村との久しぶりの会話を、確かに嬉しく思ったのだ。


 相変わらず恐る恐る近寄るような固さはあったが、二人は穏やかに話をしていた。だが、階段の前という、落ち着きにくい場所だ。近況報告をするには時間も距離感もいまいち足りなくて、会話が途切れがちになっていく。

 そこへ通りかかったのは、パステルイエローの人影だった。


「あれ、真琴? 今日生徒会ないよ?」

「あ、僕はちょっと先生探してて……聖先輩こそ、どうして北校舎に?」

「んー、俺ね」


 苦笑いのようなしかめっ面のような、微妙な表情を浮かべながら、聖は光村と同じように、二階から階段を降りて来た。前髪に、ちょこんとロリポップキャンディが乗っている。同じヘアピン、恋宵先輩もしてなかったっけ、と真琴が思っていると、聖の色白の指が、その辺りの額を撫でた。


「真琴と同じクラスの、大友化粧品のご令嬢に、映研部のお手伝い頼まれて。他校の生徒が来るから演技指導してくれないかってさ」

「え、聖先輩も?」

「いちおあの時の映画に出てたからってことでね。今日ヒマだったし、ちょっと話するくらいならいーかと思ったんだけど」


 そうだとしたら、少し妙だった。映研部の部室があるのは二階で、当然機材もすべて二階に置いてある。機材見学が建前にしても、見学に来た名桜館の生徒たちは、二階にいるはずだろう。現に光村も、階段を降りて来たのだ。

 それなのに聖は今、彼らのいる二階から降りてきた。まだ授業が終わってそれほど経っていないのに、早々に役目を終えてしまったのだろうか。そうじゃなかったら、わざわざ上まで行ったにもかかわらず面倒になってやめたか、もしくは、さっさと追い出されてしまったかのどちらかだ。

 聖の、なんとも言えない表情も気になった。真琴の不思議そうな顔に気づいて、聖が苦笑して見せる。


「なんか、俺の話はあんまり聞きたくないみたいだったから。他の子役出身の人とか、演劇部の人に任せて、帰っちゃおうかなって」


 真琴は眉を歪めた。

 そんなの、あんまりだ。そもそも先方が是非にと言うから、演技指導を頼めないかと数人の生徒に声をかけたのだ。そんなわがままを聞いてもらっておきながら、わざわざ時間を作ってくれた人をぞんざいに扱うなんて。いくらなんでも、失礼が過ぎる。聖が苦笑いなんてする理由はどこにもなくて、もっと怒ってもいいはずだ。

 光村が、困った顔をして言った。


「すみません、うちの部長が失礼なこと……あの人、アイドルやモデルの人は役者じゃないなんて言って、見下してるところがあるんです」


 そういえば映画祭の時も、真琴には真っ先に挨拶しに来たのに、准乃介の名前は出て来ないようだったし、他の三人に至ってはほとんど見向きもしなかった。


「僕は柏木さんの演技、自然で好きだし、映画祭の作品の沖谷さんの演技も、怖くて凄いと思ったんですけど……」


 申し訳なさそうに言う光村に、聖はわずかに目を見開いた。それから、その目をきゅっと細めて、大きな口を横に広げて笑う。


「ありがとー。後輩にフォローされるなんてだめな部長さんだなー、ったく」

「いえ、フォローなんて」


 聖が取り成すように笑うのも、古い友人が頭を下げるのも、真琴は複雑な気持ちで見ていた。もしも真琴がこの話を受けていたら、親しい先輩が他校の生徒におざなりに扱われるさまを、目の前で見ることになっていたのだろうか。やるせなすぎる気分に俯いた、その時だった。


 階段の上からの足音に、顔を上げる。さっきから下校する生徒たちが何度か通りすぎているのに、その時に限って気を引かれたのは、話し声にだった。

 高めの女性の声。日本語ではない発音の混じった、独特のイントネーション。真琴は、北校舎を歩いていた当初の目的を思い出した。


「あら、佐野くん」


 英語教師のマリーは、真琴を見つけると、ぱたぱたと階段を降りてきた。「コンクールの原稿ね?」と言う彼女に返事をしようとしたが、再び階段の上に視線が向く。足音も話し声も、二人分だったのだ。光村が真琴と同じようにして、「あ」と声を上げた。


「部長……」

「佐野さんじゃないですか! 今日は来てくれないって聞いてたのに、どうしたんですか?」

「……こんにちわ」


 喜色を顔に浮かべる田畑から、真琴は目をそらしながら言った。手に持っていたスピーチ原稿を、マリーに渡す。


「先生、すいませんが、添削すぐにお願いできますか?」

「まぁ、わざわざ? ワタシ、東校舎に寄ろうと思ってたのに」

「ちょっと時間なくて、探したほうが早いかと思って」


 それを聞いたマリーは、言葉に迷うように、意味のない音だけ口から発した。すぐに、ごめんなさいね、と続ける。


「すぐ行くつもりだったんだけど……」

「え? マリー先生の用って、佐野さんだったんですか?」

「まぁ……」

「なんだ、早く言ってくださればよかったのに。演劇部の顧問だって聞いたから、ちょっと話聞かせてもらってたんですよ」


 田畑は笑いながら言った。聖がひくりと眉をひそめるのが、視界の隅に入る。

 その口振りからすると、マリーを引き留めた時点で、彼女に急ぎの用があることは知っていたのだろう。真琴が彼女を探してうろついていた時間は二十分程度だが、田畑に捕まっていなければ、すぐに原稿を見せて、仕事に向かえていた。用があるという人を自分の都合で引き留めて、急いでいる誰かの予定を狂わせておいて、悪びれもせずに「早く言ってくれればよかったのに」なんて。


「あんたさあ、それはないんじゃねーの」


 低い声で言った聖に、田畑は半笑いで眉を跳ね上げた。


「はあ? なにがですか?」

「マリー先生が急いでんの知ってたんだろ。自分の長話で引き留めておいて、その言い方はねーだろって言ってんの」

「あなたに関係ないじゃないですか。佐野さんがなにも言ってないのに、どうして柏木さんが怒るんです?」


 光村が、部長、と宥めるように声を上げた。

 真琴は、聖になにも言えない。自分が思ってもきっと言うことのなかっただろう言葉を、聖が声に出したように思えたのだ。


「真琴が怒んないから俺が怒ってんだよ」


 どこかで聞いたような言葉だ。以前、直姫の口から似たようなことを聞いたような、と思い出す。あの時は確か反対に、真琴が代わりに怒ってくれるから自分は怒らない、と言っていたんだったか。

 だが、聖の苛立ちにも、田畑は怯む様子もなかった。彼のほうも少し機嫌が悪いように見える。本命だった真琴が彼の頼みを蹴ったことが、そんなに腹立たしかったのだろうか。聞いたことがないくらい皮肉めいた響きで、「へーえ」と言った。


「“KNIGHTの聖くん”が、そんなに怖い顔していいんですか? イメージ守らなくちゃだめなんでしょ? お得意の演技したらいいじゃないですか」


 美人が怒ると怖い、とはよく言うが、それは女性に限ったことではないらしい。大きなつり目を細めた聖が、一歩田畑に近寄る。光村とマリーの困り果てた顔が、真琴の視界には入っていた。それらを尻目に、聖だけをまっすぐに見て、真琴はようやく口を開いた。


「そうですよ、聖先輩。先輩が怒ること、ないです」


 自分で思っていたよりも、ずいぶん静かな声が出たことに、少し安心する。視界の端で、田畑が鼻で笑うように息を吐いた。諌めるような言葉遣いに、真琴が田畑の側についたとでも思ったのだろうか。

 真琴は続けた。


「こんな低俗な人相手に」


 振り返った聖が、驚いた顔で瞬きをする。彼の肩越しに、ぽかんとした顔の田畑が、ようやくまともに視界に入る。馬鹿にしたようにでもなく、高圧的にでもなく、ただ少し苛立ちを含ませて、真琴は言った。


「僕に演技指導してほしいんでしたっけ? 冗談じゃないですよ」

「は……は?」

「あなたみたいな失礼な人には、どれだけ頼まれたってなにもしてあげたくありません」

「さ、佐野さん? なにを」

「あなたなんかにあげる時間はないって言ってるんです。松矢監督にも紹介したくないです、僕が恥かくじゃないですか」

「はあ……?」


 田畑が、口の端を歪めた。目元もひくひくと引き攣っている。

 彼の目的であった松矢監督の名前が出て、一瞬止まった思考がようやく働き出したのだろうか。笑いが混じったような、醜い声の出し方で、言う。


「な……なんですかそれ? なに言ってるんですか」

「だから、これ以上僕に関わる理由はないでしょうって言ってるんです」

「り、理由?」

「僕に取り入りたかったんでしょ? 松矢さんへのコネ狙いで。バレバレですよ。媚び方下手すぎ」


 怒りに歪む田畑の顔を、真琴は思いの外冷静な気持ちで見ていた。

 いつか自分が見ないふりをした、この男の汚い部分。直姫は薄いガラス一枚隔てただけのそれを、なんでもないかのようにばりんと破って、冷めた目で眺めていた。あの驚くほど素直な彼女のように、田畑に向かって、目を細める。


「い……いいと思ってるんですか? そんなこと言って」

「なにがですか」

「さ、佐野さんみたいな役者さんが……そんな、人を選ぶようなこと、言うとは。そんなこと言うとは思いませんでした」


 真琴は、できるだけふてぶてしく眉を潜めた。一度瞼を伏せて、溜め息を吐く。田畑の、なぜか平静なふりをする変わった怒り方は、ひどく滑稽に見えた。

 そんなことを言っていいのか、なんて。だからなんだ、というのが、正直な返答だ。

「佐野真琴は本当は性格が悪い」と世間に訴えでもするつもりだろうか。こんな学生一人に脅されたからってなんだというのだろう。彼一人の告げ口で世論が動かせるとでも思っているのだろうか。

 そんなふうにとどめでも刺そうか、と考えた。今後の関わりを完全に断ちたいならそうすべきだ。夏生や直姫なら、なんの躊躇いもなく、最も効果的な仕方でそうするだろう。

 だが真琴は、冷え冷えとした視線を田畑に向けて、一言だけ言った。


「僕は役者じゃない。人間です」




 ◇◇◇


 田畑がなにか言おうとして、結局なにも言わずに立ち去った、その後のこと。階段の下に取り残された四人は、しばらく黙っていた。余震に怯えるような、余韻が消えるのを耳をそばだてて待っているような、そんな気分だ。

 やがて、真琴が言った。


「あ、部長さん、帰っちゃったかな? 光村一緒に行かなくていいの、置いてかれちゃうよ」


 それはいつもの真琴だった。穏やかで、柔らかで、爽やかで、なんの邪気も黒いところもない、いつもの真琴だ。苛立たしげに顔を歪めたのも、絶対零度で突き放してみせたのも、すべて演技だったのだと、聖は気付く。あの数分の間、いったい誰が彼に憑依していたのだろう。光村が呆気に取られて真琴を見ている。


「えっ、い、今の、えっ」

「あは……ちょっとふてぶてしすぎたかな」


 そう言う真琴は、見慣れた苦笑いを浮かべていた。息をする間に羽を裏返したような、そのギャップにぞっとする。それと同時に、なぜ演技までして慣れない感情をあらわにしたのかも、少し気になった。聖が尋ねると、真琴は小さく首を傾げる。


「だって、あそこで僕が黙ったままで、聖先輩に怒ってもらいっぱなしなのはなんか、違うと思ったので」

「うちの部長が……悪かった、ほんっとうにごめん」

「いいよ、僕はきっともう会うことないだろうし」

「でもマジで怒ったかと思ったよ……ビビったあ」


 ほう、と安堵の溜め息を吐く光村に、真琴は困った顔をした。一瞬迷うような仕草を見せて、それから口を開く。


「僕が怒るとそんなに変?」

「え?」

「なんで僕が怒っちゃだめなの」


 光村は目を丸くした。真琴は、なにを言っていいかわからなくて戸惑っているような表情をしていた。


「芸能人だから? 役者だから怒っちゃだめなの? 違うよね。そうなる前からそうじゃん」

「さ、さの」

「人見知りだから? 優しそうだから? 大食いで変なやつだから? お父さんが社長だから? だから僕はなにされてもにこにこしてなきゃいけないの」


 光村が、ぎくりとした顔をした。同時に、驚きの色もあるように見える。


「僕だって普通に普通の人間だよ。食べ物の好き嫌いだって結構あるし、お笑い番組見てるとほんと笑いのツボが小学生だなって思うし。映画観ててつまんなかったら寝ちゃうし、犬はかわいいけど世話は面倒だなとか思ったり、勉強しなきゃいけないのに漫画読んでたらいつの間にか真夜中になってたり、早起きなんか大っ嫌いだし。タイプの子に会ったらテンション上がっちゃうし、ゴミ箱に投げたゴミはだいたい入らないし、四時間目の授業はお腹鳴るの気になって全然集中できないし」


 時々つっかえながら、視線をうろうろさまよわせながらも、真琴は言った。

 聖が小さく口を開くと、「ま、まこと?」という音が出る。マリーのほうを見ると、目も口もぽかんと丸く開いたまま見返してきて、きっと自分も今こんな顔をしているんだろうと思った。


「それじゃだめなの。それのなにがいけないの」


 拗ねたような声色。いつもの困った苦笑いでも、さっきのような誰かが乗り移ったみたいな演技でもなかった。

 そうわかったのは、その顔が、どんな表情を作ればいいのかわからずに迷っているように見えたからだ。

 むすっとした膨れっ面。まるで、友達と些細な喧嘩をした高校一年生みたいだ。今までに見たどんな顔よりも、年相応だった。

 だがその表情も、一瞬でかき消える。思い出したように、いつもの苦笑を浮かべた。


「……って、あの頃言えてたら、楽だったのにね」


 あの頃、というのがいつのことで、なにがあって、どうなったのか、聖は知らない。唯一心当たりがあるはずの光村は、黙ったままで、少し険しい顔をしていた。血を流している他人の怪我を見た時のような表情だ。

 真琴は目を伏せて、大人びた穏やかさで笑ってみせた。


「でもきっと、そうじゃなかったら、今の僕はいないから」

「……」

「仕事にのめり込むことも、悠綺高校に入学することもなかったんだよ」


 状況がまったく飲み込めなくて、二人を交互に観察するしかない聖の目には、光村が目を見開いたように見えた。実際、少し驚いたように、言う。


「あの……もしかして、俺に、気にするなって言ってんの」

「え? あ、えっと……まあ、うん、そうかな」


 真琴は首を捻るようにして、疑問系みたいな発音で肯定した。口元は少し恥ずかしそうに笑っている。それを見た光村は、声を上げて吹き出した。


「お前さあ……全然変わってないじゃん、そーゆう遠回しなとこ」

「え、そうかな、そんなに?」

「ほんっと、」

「あ、あは……」

「ごめんな」


 頬を掻く真琴に、光村は言った。真琴はぱちりと瞬きをして、笑い顔のまま、彼を見ている。


「今までなんにも言えなかった」


 そして、そう続けた光村に、頷いてから、首を横に振った。

 なにかがあって、時間が経って、今、それがゆっくりと溶けたのだ。そんなことくらいしかわからない聖とマリーは、首を傾げながら顔を見合わせる。その横でかつての親友は、ぎこちなく微笑み合うのだった。

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