歌う少女と事件3
翌日の放課後、やはり直姫は、生徒会室にいた。単位のためというのも理由ではあるが、直姫は生徒会としての仕事(仕事とは、例えば今日の場合、主に各部長などから上がってきた文書類の確認作業で、それは今聖と紅だけが真面目に行っている)をしているわけでもなく、いつもの自分の席で個人的な作業に没頭していた。
そんな彼女に、真琴が声をかける。
「直姫? 最近ずっとパソコン見てるね……なにしてるの?」
真琴にとっては、機械の類いが苦手そうには到底見えないが、だからといって特別関心があるようにも思えない友人である。その直姫がここ一週間ほど、時間が空けばノートパソコンと向かい合ってなにやら単調な作業をしていることが、意外に思えたのだ。
「……え? あぁ、これ……」
振り返り、パソコンをずらして隣に座る真琴にモニターを見せようとした直姫は、不自然に言葉を切った。生徒会室の重厚な扉に取り付けられたノッカーが、控えめに二度、打ち鳴らされたからだ。校舎内にある部屋にしては不適当だと直姫はいつも感じていたが、渋いノッカーはライオンを象ったもので、その剥かれた牙に怯えてでもいるかのようなノックは、それでも生徒会室内のあらゆる動きを一瞬止める。そして直姫は、開かれた扉の向こうで俯く人影に、なんてタイミングだ、と胸の中で小さな悪態を吐いた。
出迎えた准乃介は、わずかに目を瞠って、すぐににこりと笑って「どうぞ」、丁寧な仕草でソファーを手で示す。
扉の真っ正面の位置で夏生は、ゆっくりと微笑みを浮かべた。それはまるで、彼女があのノッカーを恐る恐る叩くことを、予測していたかのような表情で。
「──いらっしゃい。山崎さん」
山崎乃恵は、一人で立っていた。
◇
「今日は、その……落葉松は」
「来ておりません。だいたいこの件には、彼は関係がなかったんです」
やはり俯いたままの乃恵の言葉に、怪訝な目を向けたのは、その場にいた半数ほどだった。盗作したのが乃恵側だというのは紛れもない事実なのだし、もし乃恵自身には知らされていなかったとしても、彼女のマネージャーのとしてさすがに、無関係というわけにはいかないだろう。
けれど乃恵は、誰かがどういうこと、と尋ねるより先に、その答えを自分から言った。
「私も落葉松さんも、昨日までは全く知らないことでした。でも」
一つ、大きく息を吸って吐いて、ようやく、顔を上げる。その目は乃恵の向かい側、ソファーに腰かける夏生と紅の背後に立っている、恋宵に向いていた。
「あなたの作品を盗んだのは、私たちです。心からお詫び申し上げますわ」
「え、」
「昨日落葉松さんが、教えてくれたんです。プロデューサーが誰かと電話で話しているのを、偶然聞いてしまったって」
恋宵を目を見たままで、乃恵は言った。その瞳が不安げに揺れていることに気付いたのは恋宵で、目配せで、話の先を促す。
「どうせInoの路上ライブの映像が残っているわけでもないし、後から証人が出てきたって、Inoの熱狂的ファンがInoを庇うために言っているだけだと、取り合わなければいいと」
「最近のノエルはワンパターンになってきて、人気も勢いもInoに呑まれ気味だから、……ちょっとぐらいあやかったからってなんだっていうんだ、自分はノエルを売り出すのが仕事なんだから、形振り構ってられないんだって」
「そう愚痴っているのを、聞いてしまったと、落葉松さんが」
勢いに任せたような話し方でそう語ると、少しずつ荒れてきた口調と考えを落ち着けるように、一度口を噤む。
「落葉松も……知らなかったっていうのは、本当なのか?」
彼女がソファーに腰かけて話しはじめてから、初めて口を挟んだのは紅だった。その口調は、肯定を期待している。
「そのようです。本当にすまないと……、落葉松さんが悪いわけでもないのに、何度も何度も」
「そうか……なんだか、こう言うのも変な話だが、……よかった」
「えぇ。私も、そう思いました」
少しだけ口許を緩めてから、乃恵は続けた。
「私側からの発表は、取り止めます。Inoさんは予定通りに新曲を発表してください」
「ですが」
物憂げな目をゆるゆると乃恵に向けたのは、夏生だった。
今回の件、乃恵が盗作の事実を知ったからといって、では発表はやめます、新曲はなかったことに、などという対応で済む話ではないのだ。既に双方が新曲発表を予定した日を、数日後に控えている。どんなコネやツテでか、もう彼女らの新作を耳にする機会があった者も、少なからずいるはずなのだ。そしてそれらが非常に似通っていると誰かが気付くのも、時間の問題である。つまり、少しだけ、遅すぎた。
そんな意味を込めて、夏生は簡潔に言う。
「……どうやって」
「私が、マスコミにリークします。プロデューサーやスタッフが、盗作を働いてしまったと」
「え……」
恋宵が声を発したのを聞いたのは、直姫にとっては今日、これが初めてだった。昨日の放課後、仕事が入ったと言って帰宅したときから、明らかに沈んでいるのは、気のせいなどではないはずだ。少し掠れた声で、信じられないと言うような声色で、乃恵を真っ直ぐに見つめて言う。
「でもそれじゃ、乃恵ちゃんが」
「平気ですわ。多少叩かれることは覚悟しておきますが、悪いのは私ではありませんもの」
「事務所がそんなの、許してくれないよ。揉み消されちゃうよ、乃恵ちゃんのとこじゃ」
「落葉松さんという証人がいますわ」
それに、あとは、こちらから訴えてしまえば、それ相応の機関がすべて調べあげてくれるはずです。そう語る乃恵の声は淡々としていて、きっと、真実を聞いてから一晩、考えて考えて、覚悟を決めてあるのだろうと思えた。
それでも恋宵はまだ食い下がり、乃恵よりも困惑を表情に表している。潰されちゃうよだとか干されちゃうよだとか、どうしてこんなに必死で止めているのか、恋宵自身にさえわかっていない様子だ。
そうして何度目か、恋宵がまた「でも」と口にした時だった。あの、と控えめにかけられた声は、後輩のものであることに気付く。
「そのプロデューサーの話なんですけど」
「え……? はい」
「例えば向こうが先に恋宵先輩側を訴えたとしますよね」
「……直ちゃん?」
「それでこっちの証人として、二年以上前の先輩の路上ライブで、今回の新曲の原型が歌われていたのを聞いたことがある、っていう人が出てくる」
「ですから。先日私も勢いに任せて言ってしまいましたけれど、Inoさんの熱狂的ファンが証人になっても、いくらでもこじつけて証言を無効化できると」
「それ、その証人が、先輩が訴えられてから名乗り出た場合の話でしょう?」
「え?」
直姫は、乃恵が生徒会室に来てからも自分の席を離れずに、相変わらずずっとパソコンを眺めていた。人の話を聞いていないようで、やはり意外に聞いているらしい。急に話に参加した直姫の言わんとしていることに逸早く気付いた夏生は、驚いた様子など微塵も見せずに、彼女の方を向いた。
「やっと見つかったんだ?」
「はい。これ見てください」
夏生との会話は、なぜか噛み合っているようだ。直姫がパソコンをくるりと向けたのに従い、それぞれがその画面を覗き込む。離れたところにいる夏生、紅、恋宵、乃恵の四人に聞こえるように、聖が言った。
「……え? ブログの記事だよ、ただの」
「ブログ?」
「あ、『路上ライブをみかけました』って題名にある。内容は…………」
そうして聖が読み上げた記事には、伊王恋宵という中学生くらいの少女が、公園の広場で、ギター一本だけを抱えて歌っていた、ということが書かれていた。歌詞も耳で拾えた数フレーズが記されてあって、それは、恋宵がこの間生徒会室で歌っていた歌詞と、同じものだった。
「それ……目撃者、ってことですか?」
「日付は二年前の十月二十一日……聖以外にも聴いてた人、いたんだねぇ」
「え、もしかして直姫、ずっとこれ、探してたの?」
「はい。まぁ、夏生先輩に押し付けられたんですけど」
ここ一週間ほど直姫がパソコンにかじりついていたのは、これを探すためだったのだ。名前やだいたいの日付、場所、歌詞などをキーワードにして検索し、やっとこの一件に辿り着いた。
他の記事を見てみれば、恋宵がメジャーデビューした頃、それについての日記が書かれていた。Inoがデビューしたのは、最後の路上ライブから八ヶ月ほど経ってからのことだ。期待の大型ルーキーとして鮮烈なデビューを飾った少女を見て、小さな公園で歌っていた恋宵を、きちんと思い出してくれていたのだ。
「これ武器に、先に訴えますか、そのプロデューサー」
「でも……そんなことしちゃ、乃恵ちゃんは」
「あ、山崎さんからも訴え出たらいいんじゃないでしょうか! 一番実害を受けてるのは、山崎さんなわけですし」
乃恵は、自分が知らないうちに、ライバルの作品を盗作したというレッテルを貼られるところだったのだ。もし訴えられても乃恵が罪に問われることはないかもしれないが、一度貼られたレッテルを綺麗に剥がすのは、難しい。
しかし、乃恵はきっぱりと言った。
「いいえ、それはやめておきますわ。」
首を横に振って、き、と顔を上げる。
「はじめに言ったように、私は新曲の発表を取り止めます。ですからそちらも、大事にはしないでいただきたいんです」
「それは……いいけど、だから」
「周りが許そうが許すまいが、私の決意は変わりませんわ。強行するようなら、こちらも逃げれば良い話ですもの。歌い手がいなくては新曲もなにもないでしょう?」
乃恵の言うことももっともだと思えたし、恋宵がいいと言うなら、誰も異論はなかった。しかし、乃恵のこの態度には、違和感を感じる。つい昨日までは、恋宵の姿を見れば睨み付け、わざと嫌味を聞かせ、直接対峙すればヒステリックに喚くだけだった彼女が、今日はやけに理性的なのだ。それどころか、伏し目がちに、自嘲するように告げた言葉に、彼らは耳を疑った。
「今までのこと、ごめんなさい。感情的になって、言う必要のないことまで言ってしまいましたわ」
「え……あ、いいよ、気にしてない」
「私……少し、羨ましかったのかもしれませんわ、あなたが。僻んでいたんです。こんな居場所を持っていて、自分を晒け出せる人がこんなにいて」
乃恵のことを、典型的なお嬢様タイプ──つまり、真面目で世間知らずなところがあって、そのくせプライドの高さでは誰にも負けない質──だと思っていた。彼女のような振る舞い方をする人間が、そう簡単に自分の非を認め、他人に謝ることなどしないだろうと思っていたのだ。
だから驚いたというわけではないが、直姫でさえ、多少面食らったのは事実だった。
そして、不思議なほどすっきりとした表情で乃恵が生徒会室を出ていったあと、予想通りではあったが、聖が呟いた言葉に、紅はすぐさまつっこまざるを得なかった。
「……ツンデレ?」
「馬鹿かお前は」
◇
「恋宵、知ってたでしょ。」
乃恵が立ち去って十分あまり、考えを落ち着けるように誰も口を開こうとしなかった空気を払拭したのは、ソファーに腰かけたままの、夏生だった。背後を振り向かないままで、後ろに立つ恋宵に言う。
いつもなにもかもを見抜いているような顔をしている彼だ。やはり今回も、些細なことから全ての真実に真っ先に辿り着いていたのだろうか。彼らは、ミステリーの探偵役に絶対的な信頼と期待を寄せるかのように、夏生に対しても思っていた。
「うん……実はね。落葉松さんが、電話で喋ってるの、偶然聞いちゃった」
「それ、俺も聞いてた」
「たまたまかよ!」
待ち構えていたような聖のツッコミは、夏生に黙殺されることとなった。
「もしかして、昨日の放課後か? 戻ってきた時、様子がおかしいとは思っていたが……。気が利かなくて、すまない」
「え、なにゆってるにょろよー。紅ちゃんが謝ることなんもないじゃにゃい」
ここ数日、追い込まれた恋宵の口調の変化から、彼女がこの喋り方をするのは、おどけて場の空気を和らげたいときだと、十分に分かっていた。分かっていたからこそ、少し安心する。強がっていることには変わりないが、最近は強がることさえもままならないほど、精神的に負担がかかっていたのだ。ふざける余裕が出来たということは、少しでも負担が減ったと思っていいのだろう。
「やっぱ耳が良すぎるってのも、考えものだねぇ。」
「そりゃーね……、」
昨日、一度生徒会室から出たときに偶然聞いてしまったのは、中庭で話している落葉松の声だったらしい。恋宵が歩いていたのは三階の廊下だったが、窓が開いている五メートル近く下で小声で話す人間の声も、鮮明に聞こえるほどの聴力を持っている。
誰と話していたのかは定かでないが、落葉松の声は明らかに焦り、苛立っていた。恋宵の耳が拾った声で分かったのは、ノエルのプロデューサーが盗作の常習犯であること、今回の新曲もInoから盗んだものを元にしていること、乃恵本人はそれを全く知らないこと。先ほどここへ来て乃恵が話した内容と、ほぼ同じだ。きっと昨日あの後、乃恵は落葉松から話を聞いたのだろう。
恋宵はというと、その事実を乃恵は知らないということにばかり、気をとられていた。自分の身の潔白を優先して、先に行動を起こすべきか。けれど、なにも知らない乃恵のことを思えば、彼女を不利な立場に置くのはあまりに酷だ。結局動揺のあまり、不自然な態度を取ってしまったわけだ。
そしてその一部始終を、夏生も目撃していたのだった(ちなみに彼はやはり、生徒会室を抜け出して図書室へ行っていたようだ)。
そんな事のあらましを聞いて、直姫が放った第一声は、こうだった。
「嫌じゃないですか? 聞かない方がいいことまで、聞こえちゃったりして」
優れた、を通り越して、異常なほどの聴覚を持つと知った、恋宵に対しての言葉だ。
耳がいいというのは昨日も話していたばかりだが、そこまでとは考えなかったのだろう。思えば今までにも、彼女には超能力でもあるのかと疑うような出来事がいくつかあった気もする(そして、この人ならそれも有り得ないことではないかもしれない、と思わせるのが、恋宵である)。夏生ほどではなくても、どことなく色んなことを見抜いているような素振りもあった。里吉の狂言誘拐事件の時に、声で准乃介と真琴の居場所に気付いたのも、恋宵だった。
そんなふうに考えてみれば思い当たる節があって、それは多少なりとも人の役に立っていた。けれど恋宵の聴覚は、自分に都合のいいことだけよく聞こえるわけではないのだ。
「直姫……お前、どんだけネガティブなんだよ」
直姫らしいといえばらしいのかもしれないが、思わずそう呟いた聖の隣でにこりと笑ってみせたのは、恋宵本人だった。
「だいじょぶよ?」
聞きたくないことももちろん時々あるけど、と続ける。その表情はやはり、たまに彼女が見せる、色んなものを包み込んだような笑顔だ。
「みんなの声、ちゃんと聴こえるから」
「紅ちゃんのも准センパイのもまこちゃんのも、直ちゃんのも、ひじぃのも、夏生のも」
その言葉がどういう意味なのかは、直姫にはよくわからなかった。結局この数日間でわかったことは、伊王恋宵という人は意外と色々な顔を持っていること、聖と二人での即興セッションがない生徒会室は存外に静かすぎて落ち着かないこと、それから、恋宵には、いつもの底抜けに明るい笑顔が、一番似合うということだ。
そろそろ今回のこの騒動も、終わりを見せようとしている。色々な人を巻き込んで色々な方向へ転がった『Ino盗作疑惑事件』が、最後にまだもう一騒ぎを起こすというのは、彼らの知るところではない。
◇◇◇
時は変わって、生徒会メンバーが久し振りに恋宵の笑顔を見た一時間後、その彼女はまだ生徒会室にいた。
ソファーの背に凭れかかって、窓の方へと顔を向ける。その表情は、恐らく誰も見たことのない、ある特定の一人にしか見せないものだった。
無表情とも少し違う、きっと“Ino”としてならばそれほど不自然でもない顔だ。“恋宵”だからこそ違和感のあるその態度で彼女は、西日を背中に浴びる人物に話しかけた。
「アレもね、聴こえちゃったんだ」
いつもの弾むような話し方でも、落ち込んだ時の自嘲混じりでも、年相応のなにも纏わない声色でもない。なんと形容することもできない、ただただ普通の調子で、無言で続きを促す話し相手に、語る。
窓を背に、この室内では“王座”に位置する席に、すべからくして居るその人物は。
「ここ、防音不完全なんじゃなぁい? 理事長に言ってみたら?」
「……そんな改装工事できるわけないでしょ。会長権限をなんだと思ってんの」
──東雲夏生だった。
「で、なにを聞いたって?」
「そーやって、夏生はいっつも分かりきってることを聞くよね」
性分なんだよと、薄く笑った夏生に、恋宵も似たような笑みを返した。
「直ちゃんの、お父さんのはなし。」
◇◇◇
Inoの新曲発表が、ついに翌日に迫っていた。大事になる前に騒動も解決して、恋宵にもほとんどなんの実害もなく、これで一件落着かと、事情を知る誰もが思っていた。
しかし、嵐のように生徒会室に乗り込んでくることから始まって、嵐のように引っ掻き回し、嵐のように過ぎ去って行った山崎乃恵が、最後に起こしたもう一波乱を、彼らはその日の朝、知ったのである。
「直姫、大変だよ! 山崎さん、引退するんだって!」
「え?」
血相を変えた真琴が手にしていたのは、今朝の朝刊と、悠綺高校の校内新聞、通称『悠スポ』の号外紙だ。朝刊には一面に『ノエルのプロデューサー逮捕 盗作していた』の文字が踊っていて、続く二面、三面までその話題が事細かに報じられている。例によって例のごとく遅刻ギリギリに起床した直姫は知らなかったが、ワイドショーでもインターネットのニュースでも、今朝はこの話で持ちきりらしい。
しかし、真琴が言った“引退”という言葉は、どのメディアにもない。その大スクープをどこよりも早く報道したのは、なんと、悠スポだったのだ。
記事には、昨日の夜遅くにノエル本人とマネージャーから直接、新聞部の部長に連絡があったことが書かれている。事務所の不祥事を知って引退する決意をした、警察に通報しマスコミ各社にもリークしたから、明日大きく報道されるはずだ。正式な引退発表は明日の午後二時に会見を開いてそこでするが、その前に同級生や学校関係者には知っていて欲しいのだと、乃恵は言ったそうだ。恐らく今日の夕方には、プロデューサーの逮捕に重ねてその話題が紙面を賑わすだろう。
混乱を避けるため今日は乃恵は欠席しているが、真琴は最初にあの人物を案じた。
「恋宵先輩、大丈夫かなぁ……きっと落ち込んでるよ」
「大丈夫でしょ。聖先輩とか夏生先輩とかもいるんだし」
「とかって……もー、適当だな。全然心配してないでしょ、直姫」
「だって、心配いらないと思うよ? 聖先輩とか、何気に支えになってるっぽいし」
「何気って……」
◇
休み時間、あまりにも大丈夫かな、平気かなと繰り返す真琴に負けて、二人で東校舎へと向かった。真琴は一人でいてもそこらじゅうの視線を集めて歩くし、“生徒会の一年生”が揃って東校舎へ来る機会というのはほぼ皆無なためか、必然的にかなり人目を引く。さらに、二人が訪ねて来たのはあの、色々と有名すぎる三人だ。生徒会役員が揃って人前に出ることは行事以外でほとんどないのも相まって、五人の周りには人垣と呼んで憚りないほどの観客が遠巻きに集まっていた。
「うっとーし……」
「夏生先輩って意外と隙多いですよね。なんで誰も本性に気づかないかな」
「ちょっと直姫、それは直姫もでしょ。そんなことより、山崎さんからなにか連絡とか、なかったんですか?」
「あったはあったにょろよ? まぁ、忙しいみたいで、メールでちょこっとだけろ」
「え、なんてですか!?」
「うん……あたしね、ほんとにプロデューサーさんが逮捕されたから引退しちゃうんだと思って、メールしたのね」
「あれ……? でも、通報したのって」
「落葉松さんだよ。警察にちゃんと通報して、マスコミにもリークしてって、提案したのは山崎さんなんだって」
「でもどうして……そんな、自分が不利になりそうなこと」
「引退したかったんじゃない?」
「引退……乃恵ちゃん、そうなのかにゃあ」
◇◇◇
その翌日もまた、“ノエル”の名前がメディアを独占していることに、変わりはなかった。スポーツ新聞や週刊誌にはとりわけ目立つ色で『ノエル引退』の文字が並び、ワイドショーでは昨日の記者会見の様子が繰り返し放送され、ウェブニュースのコメント欄には秒刻みで書き込みがされ続けている。
その一方で、“Ino”の新曲発表も同じように、世間の賑わいを加速させていた。
人気絶頂の現役高校生歌手が、一方はマイクを置き、一方は待望の新作を発表したのだから、当然といえば当然だ。
きっとこの後一週間はこの話でどこも持ちきりだろうなと、前日午後二時の衝撃を思い出して、直姫は思う。
◇
記者会見の場、落葉松と共にカメラのフラッシュの中に現れた乃恵は、とても穏やかな表情をしていた。
──この度の事務所の不祥事は本当に申し訳なく思うが、正直自分は、少しほっとしている。このままなにも知らずに、人から盗んだ歌を歌い続けることになっていたかもしれないと、思うと。
引退するのは、責任を取るわけでも、逃げたいからでもない。歌手活動が嫌いなわけでもない。でも、本当に自分がやりたかったことが、なぜか急に視野に飛び込んできた。
盗作のことを知って、最初に思ったのは、これで振り出しに戻るかもしれない、ということ。世間の信用も今の人気も全て失うかもしれない。でも、そうなったら、自分が本当に目指したかった道を、目指せるかもしれない。
そもそも歌手になったのは、小さい頃からの夢への足掛かりに、少しでもなるかと思ったから。けれどそれは違った。今の立ち位置もキャラクターも、事務所の方針でこうなっただけのことだ。顔と声が合うから、清楚で女の子らしい“ノエル”になった。それが、もういい加減嫌になった──
ともすれば反感を買うようなことを、乃恵は前を向いて、真剣な顔で言った。
平たく言えば、今まで世間を欺いていました、本当は最初からこんなことしたくなかったんです、もうこんなキャラでいるのは嫌になりました、だから引退します。そんな内容だ。
しかし誰もが驚いたのは、そんなアイドルにありがちな内情をなんの躊躇いもなくすっぱりと言い切ったことではなかった。その後に彼女が口にした、“本当にやりたかったこと”が、あまりにも予想外だったのだ。ワイドショーで最も繰り返されたのは、「引退します」とはっきり言った映像よりも、その部分だった。
『私、本当はプロのキックボクサーになりたかったんです』
そう言った乃恵のはにかんだ表情と、「いや……ええぇぇぇぇ……」と呟いた聖の声は、しばらく直姫の脳裏から離れることはなかった。
◇◇◇
あれから二週間ほどが経った。乃恵ももう、きちんと学校に来ている。
夢に向かって走り出した(文字通り、毎朝毎夕学校のグラウンドの隅を走る姿が目撃されている)乃恵だが、事実上は事務所側からの解雇という形になっている。そこでまた乃恵の潔白をきちんと理解している人たちから一悶着あったりしたが、それも今は落ち着いた。落葉松までなぜか今までの仕事を辞め、相変わらず乃恵のマネージャー兼トレーナーとしてサポートしているらしい。
ようやく終息を見せた一連の騒動に、完全に巻き込まれた形になっていた生徒会役員も、そろそろまた忙しい時期に入っている。
中間試験、そして夏休みが近づいてきたのだ。
◇
珍しく一本古い邦画を観ただけで満足した直姫は、テレビから聴こえる声に、顔を上げた。
愛は絶えませんが見えません
貴方の意識は目に見えて
わたしの瞳にあるというのに
とても不思議でなりません
会いにきて 会いにきて
夕陽が赤く見えない日には
すべてが確かな気がするのです
「……やっぱり歌ってるときは普通なのにな……」
少し乱れた髪、揺れるスタンドマイクや体の底から響く音、どすの効いた張りのある声は、客観的に見ればやはり、かっこいいのだろう。それでもなんとなく、画面の中でカメラに鋭く視線を寄越す恋宵は、見慣れない。
直姫にとっては、生徒会室の片隅、窓際に腰掛け、アコースティックギター 一本で楽しそうに歌うあの人が、恋宵なのだ。チョコレート菓子の箱と一緒ならなお彼女らしく、紅が淹れた紅茶の香りと、つい聴き入る真琴と、つられて歌い出す聖がいれば、それがあの部屋での日常だ。
“Ino”はかっこいいけど、“恋宵先輩”の方が、伊王恋宵だ。
そんな意味のわからないことを考えて、それに付け加えるように浮かんだ思い付きに直姫は、誰も見ていないのだからと、明らかに苦笑した。
そうか自分は、彼女に笑っていてほしいのだ。




