歌う少女と事件2
あ、と、声を上げたのは、向こうも同様だった。東校舎と北校舎を繋ぐ渡り廊下で、お互い気まずそうに俯く。このままなにもなかったかのようにすれ違うのがいい。
しかし、すれ違う瞬間、反射のようにわずかに視線を上げた恋宵は、同じように乃恵も目を向けていることにまず、驚いた。そして思わず身を引いて、彼女から遠ざかろうとしてしまう。
それを見た乃恵がどう感じたか、どんな表情だったかはわからないが、そのせいで、より深く俯いてこの場をやり過ごすことを願う恋宵の旋毛に、聞いたこともないくらい刺々しい声が浴びせられることになったのは、確かだ。
「…………嘘つき、」
つい顔を上げそうになって、瞬時にそれを自分で拒否したのは、自己防衛の一種だろうか。きゅ、と拳を握りしめた。
「あなたなんか……世間に、本当の自分を見せることも、できないくせにっ……!」
そんなの自分が一番悔しい。そんなの自分が一番苦しんでいる。そんなの自分が一番。
言い返す言葉は浮かんだが、口を開けなかった。
「あなたは才能にも、環境にも、恵まれて、いるのにっ……あんな、軽薄な態度を隠した、ふざけた気持ちで」
言葉を探しながら、乃恵は必死に恋宵を傷付けようとしている。彼女の拳も、同じようにきつく握りしめられていた。
「私は……、小さい頃からの夢がある! あなたみたいに、なにか持て余しているものがあるから、だからこの業界に入ったわけじゃないんです!」
つい最近生徒会室でやってみせたように、震える声を荒げているが、あの時よりもはるかに重く、悲痛な声だ。うまく表現できる言葉がなかなか見つからないのか、視線はうろうろとあちこちを忙しなく移動して、もどかしさに時々眉を歪めている。
「そんな不真面目で、享楽的な姿勢で歌を歌っているなんて……私だったら、恥ずかしくて、両親に顔向けできませんわ!」
『お前の母ちゃんでーべそ』などという、意味も根拠も大した悪気もない、なぜ存在するのかもわからない罵りの言葉のようなものだった。小学生が、相手を苛立たせるのにとりあえず『バカ』と口にするのにも似ている。
けれど恋宵にとってそれは、もっと口汚く心底から罵られるのと同じ意味を持っていた。それまで一度しか上げなかった顔が上がって、乃恵に向く。乃恵はそれを無視して逃げるように立ち去ってしまったが、もし一瞬でも恋宵の方を見ていたなら、きっと彼女が今まで見たことのない表情を目にすることになっただろう。
恋宵は、半ば走り去るように消えた乃恵の姿を、目で負うことはしなかった。目にぐっと力を入れて、握った拳を弛める。
ただ一つ救いがあるとすれば、乃恵の声も、泣きそうに震えていたということだ。
◇
「……あ、恋宵ちゃん」
「んりゃ? ひじりんに直ちゃんじゃまいか。どしたの?」
「夏生先輩の使いっ走りで職員室に行くところです。人使いの荒さへのせめてもの抗議として、中庭を突っ切らずに中から回ってゆっくり行こうと」
「直ちゃんブラックねぇ……」
「えぇ、まぁ」
じゃあ生徒会室で、と言って別れた恋宵は、直姫にはいつも通りに見えた。目に見えて動揺している聖を一瞥して、眉を潜める。
「なんですかその顔。バレたらどうすんですか」
「や、だってあんなこと言われて……恋宵ちゃん、平気なはずねぇのに」
眉尻を下げた聖は、しゅん、という効果音がぴったりな、叱られた仔犬のようだった。
直姫が恋宵に言ったことは全て事実だったが、一つだけ抜けていることがあった。恐らく恋宵が二人には知られたくなくて普段通りを装った、先ほどの一連の出来事を、目撃してしまっていたのだ。乃恵が恋宵に辛辣な言葉を浴びせて走り去るところにばったり行き当たってしまい、恋宵が顔を上げたのを見た聖が慌てて直姫を引っ張って、来た道を戻ったのだ。
「恋宵ちゃんさ……自分の仕事に、ご両親は賛成してないって思ってんだよ」
「え、どうして」
恋宵の両親は確か、夫婦で服飾メーカーを経営している、その業界でもおしどり夫婦と有名な二人だったはずだ。直姫はその方面には疎いのであまり詳しくは語れないが、子供服を中心に展開するブランドだと聞いた。恋宵も両親の話をするときは、いつになく嬉しそうにしていた気がするのだが。
直姫の沈黙が先を促すものだと気付いたのか、聖は、少し迷う素振りを見せてから、口を開いた。
「妹がいたんだよ。双子の」
「……“いた”?」
その時点で感じた嫌な予感、いや、このあとに続く台詞の予想のようなこれは、外しようのないものだった。
聖は、一度話しはじめてしまえば一も十も同じ、と思ったのか、勢いに任せたように、言った。
「亡くなったんだよ、生まれてすぐ」
◇
職員室を出たのは、それからずいぶん経ってからだった。ほとんど無意味に広い悠綺高校の敷地内だ、一つの校舎を歩いて横切るだけでも十分近くかかる。その上そもそもの職員室への用事だった生徒会誌の掲載記事の説明が思うようにいかずに、結局終わったのは、夏生に言いつけられて生徒会室を出てからたっぷり三十分は経った頃だった。
聖から聞いた恋宵の話は、とても簡潔に終わった。
恋宵には、二卵性双生児の妹がいたが、もともと母親が病気がちだったのもあってあまり丈夫に育っておらず、産まれて数日で亡くなってしまったらしい。そのことを、恋宵は最近まで知らずに育った。
両親は兼ねてから将来は自分たちの仕事を継いでほしいと言っていたのに、その期待には答えずに、歌手としてデビューしてしまった。
恋宵が妹の存在を知ったのは、その頃。自分が妹の分まで愛されて愛されて育ったのだと知って、恋宵は一度だけ、聖にこう漏らしたことがあったそうだ。
『あたし、こんなことしてていいのかなぁ』
◇◇◇
「それで……あ、直姫には写真見せたことあったっけ?」
「え……? なかったかな」
「そっか。でね、甲羅がちゃんと赤いんだよね」
「へぇ……赤いの」
「うんそう、赤いの。だからきっともう茹でてあるやつなんじゃないかと思うんだ、僕。」
「茹でてなくても赤いのはいるよ……」
「え、そうなの? 毛ガニとか? じゃあ生きてる設定かなぁ」
「生きてる設定かもね……」
「お前ら一体なんの話をしているんだ……?」
「北海道で見た、こーんなにあるカニのオブジェのことです」
そう言って真琴は、大きく腕を広げた。三メートルくらいはあってすごくリアルだったんですよ、しかも別にお店の前とか看板とかじゃなくて、畑の隅っこに邪魔くさそうに置いてあって。そう言う彼の隣では、直姫が自前のノートパソコンを開きながら意外と律儀に相槌を打っている。
「あんなに大きなカニがいたら、食べるところいっぱいあるんだろうなー」
「そんなカニ、茹でる鍋がないよ」
「えー、あるよ、きっと。巨大ハンバーグとか巨大ホットケーキもできるんだし」
「それフライパン……」
「直姫……ちゃんと聞いてるのか?」
紅が声をかけると、どう見てもパソコンの画面に集中している直姫からは、間をおかずに「はい」という答えが返ってくる。しかし、真琴は隣で首を振っている。
「それがね、聞いてないんですよ」
「え? でも……」
「前は適当にうん、とかそーなの、とか言ってるだけだったんですけど、最近はなんか生返事でも普通に会話できるようになってきて」
「え……それは……すごいのか?」
「うーん……」
紅と真琴はなんとなく黙り込んでしまって、あとには直姫がパソコンを操作するカチカチという音だけになった。紅としては、直姫の妙な会話術よりも真琴の話題のチョイスの方が気になったが、それについて触れるのは、なぜか今ではない気がしていた。
「直姫ー」
「なんですか」
「これ」
そして、直姫が引き出した潜在能力も、夏生の単語で喋る究極の面倒くさがりの前には無力だということがわかった。
◇
『回り道禁止。帰りは別にどうでもいいけど、十五分で南校舎の保健室まで届けて』
そう言い含められたため、たった一枚の紙を手に、直姫は早足で中庭を歩いていた。小走りにすらならないのはもはや彼女の意地だ。このだだっ広い敷地内でなにより不便なのが行き来に時間がかかることで、けれど移動設備を設けるほどでもない絶妙なラインが、憎らしい。どうせならもっと広くしておけば車も必要になったのに、じゃなければすぐにでも、南北間で届け物をするのにわざわざ外にでなくて済むようなそれなりの設備を設けるべきだ。そう心の中で愚痴りながら無事に保健室に辿り着いたのは、リミットまであと一分という頃だった。
この学校は四つの校舎にそれぞれ保健室があるが、南校舎の保険医は、丸い眼鏡を丸い顔にちょこんとかけた初老の女性で、名前を川中という。
「川中先生、生徒会長から届け物です」
「あらあら……西園寺くん」
「西林寺です」
「あらあら……西林寺、直也くん」
「直姫です」
「ご苦労さま。ありがとう」
入学以来、本人には不本意ながら色々と話題には事欠かなかったため、名前を覚えられていないというのが少し、新鮮だった。それがどれだけわざとらしかろうとである。川中教諭は目を瞑った日本猫のような顔で、にこにこと笑っていた。
◇
中庭をゆっくりと歩きながら戻っていると、向かいから金髪が近寄ってくるのが見えた。いくら服装規定が厳しくない学校だとはいえ、通うのは育ちのいい御子息御令嬢、しかも『超名門』の名に恥じないような秀才ばかりが集まっているので、それほど一般常識を大きく逸脱した外見の生徒はいない。思い付く限りでも髪を明るく染めているのは一握りだし、その中でも仕事上の理由以外で奇抜な髪色にしている生徒といったら、もう三年B組の“幼馴染み五人組”の一人、大道寺倭ぐらいしかいないだろう。
そんなわけで、直姫には前方から小走りで来るのが誰なのか、すぐにわかった。
「あーっ、直姫いた!」
「聖先輩? どうしたんですか」
「いやちょっと、接待を命じられて……」
「え? 誰に誰の」
「居吹に、恋宵ちゃんのご……」
理解に苦しむ答えに、誰にもわからないくらいわずかに眉を潜めた。しかし、不自然に言葉を切った聖の視線が直姫の肩越しに別の方向に向いていることに気付いて、それに倣う。その先には、ちょうどこちらを向いた、一人の女性がいた。
「あら」
一言口にした小柄なその女性が、誰かに似ている気がして、聖に視線を戻す。恐らく中年、けれどそんな表現が少しも似合わない少女のような表情をして、セミロングの黒髪も大きな目も猫のようなその人は、隣で花壇を見ていた背の高い男性の袖を引いて、こちらに目配せを寄越した。三人の視線を一斉に浴びた聖が、迷いながら、口を開く。
「あ。あのー……お久しぶりです、今日はよくいらっしゃ」
「あーっ、あなたが直姫くん? ほんっとかわいい顔してるわねー恋宵からいっつも話聞いてるわよぉ」
「え。あ、はじめまして」
開いたがそれもほとんど聞かれることはなく、黒髪の女性はつかつかと近寄ってくると、至近距離で直姫に微笑みかけた。
なんだこの既視感。直姫の表情筋が、引き攣りはじめる。
「えぇと……恋宵先輩にはいつもお世話になってます……?」
「うっそぉー。やだーほんとに生意気そー! お世話してる側でしょホントは」
一方男性は、妙な距離をおきながらむしろ馴れ馴れしく、聖に笑顔を向けていた。
「やぁ聖くん久しぶりだね って言っても僕、恋宵が聖くんの話ばっかりするから少しも久しぶりな気はしないんだけど。あまりにもひじぃがひじぃがって言うからねパパやきもち焼いちゃうぞって言ったら、でもアタシパパもひじぃも大好きだからパパがひじぃ嫌いになっちゃいや! だってさ だから僕も聖くん大好きだからね」
口許も頬も微笑んでいるのに、目だけが鋭い。なんだこれコワイ。聖も引き攣る顔で、それでもさすがはアイドルというべきか、爽やかに笑ってみせた。
「あのお父さん目が笑ってないのは僕の気のせいでしょうか」
「え? 誰が誰のお父さんだって?」
「すいません!!」
先ほどまで毛ほども状況を理解していなかった直姫にでも、ここまでくれば察することができる。要するに、この二人はアパレルブランド『IK(アイケー)』の社長と副社長兼専属デザイナーで、伊王夫妻、つまり伊王恋宵の両親、ということだろう。
この親にしてあの娘あり。そんな言葉が一瞬直姫の脳裏を過ったほど、恋宵のあのテンションや振る舞い方が納得できる二人だ。そして同時に、我らが顧問、竹河居吹には苦手なタイプなのだろうとも、察することができた。きっと彼のことだ、この二人を相手にするのが面倒で、伊王夫妻と顔見知りである聖にその役割を押し付けて行ったのだろう。
「今日はまた……どうして学校に?」
「ほう、用がなければ愛娘の通う学校に突撃訪問しちゃいけないというのかい? かわいいかわいいかわいい娘がどんな男共に囲まれて生徒会活動に励んでいるのか見にきちゃいけないとでも?」
「いえ、あの、なんの問題もないと思います、はい」
「もうパパは静かにしててよぉ。あのね、たまたまこの近くでイベントがあってね、ちょっとしたファッションショーなんだけど」
「あ、それ知ってます。三年の佐久間先輩が出るって聞きましたよ」
「そうそう、そうなのよ。あの子ほんとイイ子よね、もう優しさが滲み出てるのよ、見た目から。恋宵もお付き合いするならあーゆう人がいいわ、きっと」
「え!? いや、やめた方がいいっスよあの人は絶対! もうほんっと、節操ないしアホっスから!」
「あら、そうなの。意外」
そんなふうに世間話をしていると風が少し出てきて、よかったら生徒会室でお茶でも、と申し出た聖の言葉は、丁寧に断られた。イベントの休憩中に抜けて来たようで、そろそろ戻らなくては主賓のいないまま再開することになってしまう、と言ったのは、夫人の琴弥(ことみ)だ。恋宵の顔だけ見て帰りたい、と渋る光樹(こうき)を引っ張ってロータリーへ向かう背中を見て、伊王家の力関係を垣間見れた気がした。
「……いいご両親だと思います自分は。はい」
「はは……棒読みだな」
◇◇◇
「直ちゃん、ほんとはあの時、聞いてたんでしょ」
不意に恋宵の口からそんな言葉が出たのは、直姫と聖が中庭で伊王夫妻と会ってから数日後のことだった。
生徒会室で、たまたま二人になったタイミングでふと思い出して、この間ご両親に会いましたよ、と言った。恥ずかしそうにしながらも少し嬉しそうな恋宵が印象的で、その直後に呟くように落とされた言葉に、上手い反応を返せなかった。
「……え、なにを」
「渡り廊下で、あたしと乃恵ちゃんが話してるの。聞いてたんだよね?」
ほんの少しの沈黙の後、はい、とだけ答えた。横顔しか見えない恋宵は、少し笑っているように思える。
「……自分だけだったら、バレない自信あったのに」
「そうでしょ。ひじぃはね、良くも悪くも隠し事できにゃいのよ」
「恋宵先輩の……妹さんの、ことも。聖先輩から聞きました」
すいません、と言おうとしたが、すんでのところで、やめた。どうして謝るのか聞かれたときに、答えられないことがわかっていたからだ。
恋宵は、「そ。」と言ったきり、口を開こうとはしない。早く誰か戻ってくればいいのに、と思いつつも、今誰かが間に入ってしまえば、中途半端に開いた距離を戻すことは困難だと感じている。
(……人。好きになったな、最近)
丸くなったというか、甘くなったというか。直姫にしては非常に珍しいことに、なんと声をかければいいか、迷っていたのだ。しかしそんな戸惑いを察したのか、先に再び声を発したのは、恋宵だった。
「こういう時ね、なにも言わないのが一番だめにょろよ?」
「……じゃあ、正解は」
「正解ねー。その聞き方、直ちゃんいかにも優等生って感じだにゃー」
「すいません」
今度こそ謝ったが、この判断は思わずなどではなく、理由を聞かれて答えられると思ったからだった。案の定、「どして謝るのかにゃー?」、恋宵はそう小首を傾げる。彼女ならば必ずそう聞くだろうと、読んでいた。
「恋宵先輩、嫌いなんでしょう? こーゆうの」
「あたし文系だもん。数学じゃないんだから……答えが一つなんて面白くない」
少しむくれたように唇を尖らせる仕草が、いじけて拗ねた子供の様子を思わせた。いつもの妙な喋り方も芝居がかった気の抜けた振る舞いも、少しずつ剥がれてきている気がして、直姫は核心に触れる準備をする。
「自分は、無理して喋ろうとしないのもありかと思ったんですけど」
「……今直ちゃんの言いたいことは、わかるよ」
「なら話が早いですね」
「答え合わせはいらないの?」
「してみますか?」
口許だけで笑ってそう言った直姫に恋宵は、わぁ生意気そーと、母親とそっくりの笑顔を浮かべて見せた。
「なんでこんなキャラになったかって話でしょう?」
「いいんですか? 素、出てるけど」
「えー、なにか問題?」
どこか間延びした声の出し方と、会話をするときに明後日の方向を向いて足をふらふらと揺らしながら話すところだけは、いつも見る彼女と変わらない。けれど二人だけでぼそぼそと言葉を交わす生徒会室の空気は、直姫のいつにも増して愛想のない態度のせいもあるが、考えられないほど淡白なものだった。
「あたし小中学校ってね、虐められてたのよー。」
「へぇ」
「理由は多分ねー、あたしが社長令嬢で、パパがデザイナーだから。そんだけじゃないかにゃー」
「まぁ、よくある話ですよね」
「ふふ、もしかして同じ苦労を知ってる?」
「まぁ、多少は」
「そかー。」言った恋宵は、辛い過去の体験を思い出して苦痛の表情を浮かべるでも、そんな苦しみなど封印したかのように淡々と話すでもなく、ただ昔の思い出を聞かせるように、遠くに目をやる。微笑みを浮かべている気さえするが、やはりどことなく、淋しげではあった。
「仲間はずれになるのがイヤだから明るく振る舞ってねー、それが余計に気にいらないみたいで、ウザがられたりなんかしちゃってね」
結果身に付いたのが、本心を隠してただ飄々と振る舞う今の姿だった。
心の内を曝け出すのは怖い、全部が本気だと思われたくない、全部が冗談だとも思われたくない。そんな内心の葛藤やらなにやらが固まって、次第にどれが本気でどれが冗談か、わからせないような態度を取っていた。
恋宵は、やはり本心のわからない声色でぽつりと話す。
「もうねぇ、どれが本気なんだか自分でもわかんないのよ」
「それは大変ですね」
「ふは、すんごい他人事ねぇ」
「えぇ、まぁ」
無神経で非情で甲斐性のない台詞を吐いて、直姫は恋宵に視線をやらないまま、言った。いや、正しくは、そんな振りをしていただけかもしれない。
「でも恋宵先輩の本気、ちゃんとわかってる人いると思いますけど」
それなら恋宵先輩がわかんなくても別によくないですか?
そう言ったあと、少し照れたように目線を一度落とした直姫を、恋宵は見ていた。
「そうかなぁ……そうだといーなぁ」
「……恋宵先輩だってほんとは分かってるでしょう? 支え。」
「……うん。ほんとはね」
だから頼っちゃうの。
主語のないような言葉の応酬は、当人たちにだけわかればいいという、とても人に優しくないものだ。そんな本人たちは、他人になどわからなくてもいいとばかりに、一瞬同じタイミングで目を伏せた。
それを上げたのはバラバラだったが、先ほどよりも幾分すっきりした感覚がして、直姫は先ほどの恋宵のように、明後日の方へはっきりと顔を上げる。そして恋宵は、俯き加減で笑いながら、いつものような声色で、言った。
「ね、」
「はい?」
「今言ったの全部、独り言だからね。直ちゃんいないフリするの得意でしょ?」
「……はい。」
◇◇◇
現時点で一番重大で重要な問題はなに一つ解決していないが、本人の心持ちはなんとなく軽くなっていた、そんなある日のことだった。
古そうなアコースティックギターを抱えて自分の耳だけでチューニングを済ませる恋宵の隣では、真琴が興味深そうにそれを見ている。そんな二人からは離れた場所で夕方のティータイムと決め込む紅、直姫、聖は見るからに手持ち無沙汰で、この時期の生徒会の暇さ加減を伺わせる。現に、会長である夏生は野暮用と言ってどこかへふらりと消えてしまっているし、准乃介は仕事の都合で昼で早退していた。
時間の流れ方までゆっくりとしているかのような錯覚を覚える中、小動物のような二人は、端から聞けばなんとも不思議な会話を繰り広げている。
「先輩先輩、絶対音感って後からでも身に着くって、ほんとですかっ?」
「わかんないけろ、そうにゃの? どうやるんじゃろ」
「……今、じゃろって言ったか」
「言いましたね……」
「じゃろ……じゃろはいくらなんでも恋宵ちゃん……」
「いくらなんでもなんじゃね、ひじりん」
「え!? 聞こえたの今の!」
「わー、やっぱり聴力も高いんですねぇ」
そうにゃのよ大変よ?と言ってにへらと笑う恋宵が、数日前に比べていくらか元気を取り戻しているように見えて、直姫は人知れず、それどころか自分でも気付かないうちに、わずかに安堵していた。やはり、吐き出す場があると人は多少なりとも救われるものなのだろうか。それならばいつも一緒にいる聖や夏生、相談に乗るのが上手そうな紅などが相手でもいいのではと思ったが、あれは独り言だったのだから、と思い直した。あの時直姫は確かに、恋宵の隣になんて“いなかった”のだ。
「え、耳がいいと大変なんですか?」
「そーよ? ちょっとの騒音でもイライラしたりするもん」
「え、恋宵ちゃんこっち見てない? なんかこっち見てない?」
「ちょっとの騒音でもイライラしたり」
「アレ? 二回言った?」
「聖、泣くな、男だろう。涙はな、堪えなければいけない時もあるんだ」
「な、泣いてねーし、泣かねーし!」
「聖先輩ガンバでーす」
「うるせぇよ! 直姫お前、それ良くない! 良くないよそーゆうの!?」
だいたいお前はいちいち接し方が先輩に対するものじゃないし云々、長々と説教(この数ヶ月で結構積もった文句と愚痴ともいう)を決め込もうとする聖の肩越しに、くすくすと笑う恋宵の姿が見えた。恐らくわざと明るく馬鹿馬鹿しく振る舞っているこの空気が、いつもの生徒会室みたいで、直姫は少しだけ目を細める。ここに夏生がいれば時折目許だけで笑いながら茶々を入れ、准乃介がいれば綺麗な笑顔で聖にフォローの振りをしたとどめを与えるのだろう。パズルのピースのように、この光景にかちりとはまる様が想像できた。
些細な音でも耳が拾う。この生徒会室において、恋宵がいつも窓際の隅でなにかを口ずさんだり、会話の中心にいるようで傍観者の位置にいるのは、そういうわけなんだろうか。これは直姫の想像に過ぎないが、きっとこの空間が、恋宵にとっては。
慌ただしく波乱の渦中だった最近にしては、この日常は安心感があった。だからというわけではないし、はっきりとそう思っていたわけではないが、この盗作騒動もじきに、しかも誰も傷付かない、困らないような形で片が付く、そんなふうにどこかで感じてしまっていた。
けれど、波乱はまだ残っていたのだ。
◇
「ちょっと出てきますにょろー」
「あぁ。……て、もう今日はどうせやることもないだろうし、別に帰っても構わないぞ? 夏生はたぶん図書室あたりにいるだろうし、一言連絡を入れておけばいい」
「えぇー、だってまだ四時半にょろよー。いいじゃにゃい、特活の単位もらえるし」
『特活』というのは特別活動のことで、この学校では課外や放課後の活動、つまり教科授業以外に学校でする活動を、総じてそう呼んでいる。部活動はまた別で、それに含まれるのは行事やホームルームや委員会活動、生徒会活動などが主だ。最低取得単位ぐらいは通常の学校生活で優に稼げるが、多く取っておけばなにに役立つかといえばまぁ、内申点だろう。定期的に演奏会や発表会があり、一般的な高校よりも行事が圧倒的に多い悠綺高校では、それは大きな特徴だ。“悠綺に入れば大学受験や就職にはまず困らない”とさえ言われるほどの、超名門の超名門たる所以の一つでもあった。
これが、特にやることがなくても生徒会室にたむろするのが彼らの日常となっている理由の一つ、というわけだ。それを包み隠す気など更々ない恋宵の物言いに、紅は苦笑を返す。
「ずるいことを言うな、お前は」
「ほんじゃま、行ってきマッチョ!」
「あ、行ってらっしゃい!」
柔らかな笑顔で送り出した真琴も、ひらひらと手を振ってみせた聖も、全くあいつは、と苦笑いでぼやいた紅も、ティーカップを片手にほとんど顔も上げずにパソコンに向かっていた直姫も、この時は思ってもみなかったし、気付くよしもない。
十五分ほどして戻ってきた恋宵の顔は蒼白で、けれどへらりと笑みを浮かべていて、やっぱお仕事入っちゃった、今日はもう帰るかにゃーと足早に生徒会室を後にした彼女に、なにかあったのかと声をかける隙を見つけられた者は、いなかった。




