歌う少女と事件
目を向けたのは、その声一つから曲が始まる構成が、アップテンポなロックには珍しいと思ったからだ。
アカペラだからといって、静かに語るように歌声の美しさを強調するわけではなく、張り上げ、がなる女声が気を引いた。そしてずらした視線の先でテレビ画面に移っているのが、生徒会室で見慣れたあの人だと気付いたのだ。
最近、有線放送やテレビコマーシャルで耳にすることの多いその曲が、まさか自分のよく知る人物が歌っているものだとは、思ってもみなかった。
『今週のオリコンチャート第1位は、ロングヒット、5週連続トップ10入りのInoで……』
Ino──イノ、というのが彼女、伊王恋宵の芸名らしい。直姫はそれすらも、この間初めて知ったばかりだった──としての彼女は、一言で言えば“格好良い”。
耳に心地好い、それでいて刺激的で斬新で、完成度の高いメロディーに、低めの声で繰り出す抜群の歌唱が重なる。マイクを前にすると、普段話す時は聞いたこともないような声で歌うのだ。直姫には、それが不思議で仕方がなかった。
演奏技術も高く、また表現力も驚くほど豊かで、とても女子高生のものとは思えないその音楽センスに、巷では年齢詐称説やゴーストライターの噂まで飛び交うほどだそうだ。メディアへの露出が極端に少ないことも、その原因の一つだろう。それは単純に、喋ると“バレる”から事務所からOKが出ないというだけのことらしい。
そのせいか、プロモーションビデオや雑誌で見る姿に限って言っても、その顔は圧倒的に無表情が多い。音楽スタイルとのギャップを埋めるためか、できる限りクールに振る舞うように言われているらしい。なにか変化を付けたとしても笑顔はかなり控えめで、挑むような表情が多く、やけにストイックな印象を受ける。
“Ino”もしくは“伊王恋宵”に関する直姫の認識と世間の見方とで共通しているのは、歌うのが好きであるという点だけだった。なにが楽しいのか、いつもにこにこと笑みを浮かべているいつもの恋宵と、画面の中でギターを掻き鳴らすInoとは、どうしても重ならないのだ。
「恋宵先輩……喋らなければやっぱ普通なのに……」
あからさまに残念そうな含みがある直姫の物言いに、失礼だろうと突っ込みを入れる人は、今この場にはいない。
◇◇◇
愛は絶えませんが見えません
貴方の意識は目に見えて
わたしの瞳にあるというのに
とても不思議でなりません
会いにきて 会いにきて
夕陽が赤く見えない日には
すべてが確かな気がするのです
◇◇◇
アコースティックギターと、声。たったそれだけで奏でる音楽が聞こえたのは、直姫がいつものように精一杯急いだ(当然廊下は走らなかった)結果、いつものように少しだけ時間に遅れてしまった、ある日の放課後だった。入学したばかりの頃は、防音効果の高い分厚い生徒会室の扉を開けるたび、中の騒ぎに多少顔をしかめたりもしていたものだ。だが最近では、扉を開けたらライブハウス、なんて状況にも、すっかり慣れている。
歌っているのはいつも、恋宵だ。時にはビビッドカラーのエレキギターを抱え、時には古びたアコースティックギターを爪弾いて、時には休憩室のピアノの調律ついでに、時にはタンバリン一つで。実に楽しそうに歌ううえに、歌唱力は文句なし。それに人気歌手の生の歌声をBGMになんてなんだか得な気がして、いくら騒がしかろうと、この時ばかりは紅も注意することはない。じゃあん、と最後のストロークが完全に掻き消えたとき、拍手を送るのはいつも決まって真琴と聖の二人だけだ。だがあとの四人だって彼女の歌に耳を傾け、多少なりとも癒しのような感覚を見出だしていることは、確かだった。
「恋宵先輩、それ新曲ですか?」
「そーよー。あ、ひじぃは聴いたことあるけろ。覚えてる?」
「懐かしい、昔路上ライブでやってたよね?」
「路上ライブやってたんですか?」
「そー、あたしがね、初めて作った曲にゃのよ。中学一年生の時かにゃ」
音楽に詳しくない直姫が彼女に話題を振ったことはないが、その話をしている時の恋宵が一番生き生きしていると、直姫は思っている。大好きなしりとりをしている時より、山積みのお菓子を目の前にした時より、誰と一緒にいる時より、だ。
「そうなんですか……でもどうしてその曲を、今になって?」
「もうすぐデビュー1周年にゃのよー」
「あ、そうなんですか、おめでとうございます」
「まだ早いにょろよー」
にこにこと、嬉しそうに苦笑を浮かべる恋宵が、やけに印象的だった。そして、ことが始まったのは、その、次の日。
◇◇◇
扉を開くと、とても騒がしいという点では、昨日と変わりなかった。違ったのは、その内容だ。
「なによ! 私が盗んだって言いたいんですの!?」
「ちが、そういうことじゃ」
「じゃあどういうことなの!」
「ちょ……山崎さん落ち着いて」
「柏木くんは黙ってて!」
その日生徒会室で起きていた出来事は、直姫の目をわずかに見開かせる程度には、驚くべき事態だった。
いつもはのらりくらりとしている恋宵は、意外にも、激情に弱い。自分が怒ったり感情を昂らせたりするのもどうやら苦手なようだし、きっと人の怒りなどにあまり接することなく生きてきたのだろう。
そんな彼女は今、怒り狂った少女を目の前に、困惑しきっていた。ちらちらと聖や紅に視線を送るが、答えは一つも返ってこない。どうしたらいいかわからずにおろおろしているのは、恋宵だけではなく、夏生を除いたその場の全員だったからだ。だが彼もさすがに生徒会室での騒ぎを完全無視というわけにはいかないようで、毛ほども興味なし、我関せずといったいつもの態度は、影を潜めている。話を真剣に聞いているような顔をしているが、さっきから少女は中身のあることは特に話していないので、まず間違いなく耳を素通りしているだけだろう。直姫はそのままこっそりと、テーブルに腰でよりかかる准乃介の隣に寄って行って、尋ねた。
「……どうしたんですか? ていうか、どちらさま」
「なんていうか……同業者、だねぇ。恋宵の」
「恋宵の新曲、あるでしょ。昨日ここで歌ってた」
応接スペースに一番近い、真琴の定位置に腰かけた夏生が、小声で言う。
「はい……?」
「あれを、盗作だって言い出したんだよ」
「え?」
今度は盗作かよ、と、直姫はため息を吐いた。つくづく厄介事を呼び込む集団だと、思ってしまうのは、お門違いだろうか。本人に自覚があってもなくても、直姫だってその一人だ。
◇
「えーと……シンガーソングライターのノエル、本名は山崎乃恵(のえ)ちゃん、ね」
それが、膨れっ面の少女の名前だった。終始恋宵を睨み付けている視線を除けば、恵まれた容姿をしていると言っていいだろう。恋宵が猫に似ているとしたら、彼女を例えるものは、花だ。清楚や可憐という言葉がぴったりと当てはまるような、そんな少女だと、直姫でさえ感じた。
ノエルといえば、最近の新人歌手の中では恋宵と人気を二分していると言っても過言ではない、そんな存在だ。恋宵が少し斜に構えた正統派パンクロックなら、ノエルはメッセージ性に富み、耳馴染みが良く爽やかな、ポップス路線。年齢も学校もおまけにクラスまで同じで、デビューも同時期、しかも素性をあまり明かさずメディア露出が多くないなど、共通点もありながら正反対な二人だ。比較するには一番分かりやすく簡単で、世間にライバル扱いされるのには、それほど時間はかからなかった。
恋宵としてはそんな意識は少しも持っていなかったため、今までも他のクラスメイトと同じ接し方をしてきたし、これからもそうするつもりだった。ライバルだとか、対抗心だとか、そんなことで成長したり上を目指したりなんて、マイペースな彼女は考えたこともないのだろう。
ではそんなノエルが、なぜ生徒会室に乗り込んできたのか。それが、非常に大きな問題だったのだ。
「で……、乃恵さんの主張は?」
乃恵がいる手前、恋宵と同様夏生も“クラスメイトとしての接し方”をしている。だが内心明らかに面倒くさがっているのだろうと、表情や声色から読み取ろうとしなくても、容易に想像できた。なぜなら、それは直姫も他の四人も、同じだからだ。
「私、二週間後……今月の十五日に新曲を出しますの。もう曲も出来上がって、これからプロモーションしようというところなんです。それなのに、Inoがその曲を自分のものとして十二日に出そうとしていると、さっきマネージャーに知らされたんです」
「待ってください、どうして恋宵先輩が」
「真琴」
今は黙っていろ、と。そんな含みをもって呼ばれた名前に真琴は従うしかなく、眉尻を下げて夏生をちらりと見た。“生徒会長”としての彼の表情は、今度こそ読み取れない。
乃恵の話をまとめると、こうだった。
今回出すノエルの新曲は、曲にするまでに二年を費やしたもので、彼女のこれまでのイメージにはなかった新境地だそうだ。だから本人も周囲のスタッフも、今までになく気合いを込めて制作に励んでいた。そんな渾身の一曲ができあがり、そろそろ発表になるという今日、つい先ほどのことだ。
マネージャーが急に、学校までやって来た。手には一枚のディスク。ライバルであるInoの新曲が少し気になるから、プロモーションビデオを見て欲しいと言うのだ。
そして乃恵は、驚いた。歌詞の内容、曲調、特徴的なメロディーの運び方、間奏部分の楽器の音に至るまで、ほとんど自分の新曲と類似していたのだ。歌詞の細かい言い回しや、プロモーションビデオは違うにしても、だ。同じデモテープを元にして作ったって、ここまで同じ曲を作り上げることはできないだろう。この曲にはこれしかないと言われたアレンジの方向性や、プロデューサーに指示された独特のスキャットまで、そっくりだったのだ。ここまで似ていてはもはや、どちらかが悪意を持って相手の真似をしたとしか考えられなかった。
乃恵の方には、自分が作品を盗んだという認識はもちろんないし、だいいちその曲は二年も前から制作が進められていたと聞いている。当然Inoサイドが盗作をしたのだと思って、怒りのあまりこうして乗り込んできた、というわけだ。
「ちょっと待ってよ。この曲は恋宵ちゃんが中学生の時にはじめて作った曲で」
「そんな証拠がどこにありますの? 彼女がそう言ってるだけじゃない」
「でも、俺が中学三年の秋に路上ライブで聴いたのは、確かにこの曲だったよ」
「あなたみたいな熱狂的ファンの証言なんて、信じられるわけないでしょ? 口裏合わせかもしれないじゃありませんか」
「そんな、」
乃恵の話には矛盾もないし、悪質な嘘を言っているようにも、どうしても見えない。彼らは、問題の曲が確かに二年半前には完成していたものであると知っているが、それを証明する術はなかった。
「私が目障りだからって、こんなのあんまりですわ……! Inoさん、あなたを見損ないました」
「え、乃恵ちゃ……」
「失礼しますっ!」
ライバルなんて言われているとはいえ、恋宵のことを評価し、尊敬の念も抱いたうえで、良き競争相手として見ていたのだろう。出ていく間際の乃恵は、泣きそうな表情をしていたように見えた。
そして取り残された恋宵の背中も、また。細い肩が震えるのを、誰もが見ないふりをした。
◇
「聖が聴いた路上ライブ、二年前のいつだったか、正確に思い出せる?」
「や、ちょっとそこまでは……受験間近だったから、十月くらいだってことは覚えてるけど」
頬を掻くのは、分かりやすく困っている時の聖の癖だ。対して夏生は右手のシャープペンを絶えず動かしていて、これは彼が分かりやすく苛立った時の癖である。
「でも、向こうも二年前から制作にかかってたって主張してるんですよね? だったら、恋宵先輩が五年前から作ってて、二年前には完成させてたっていう証拠を出しちゃえばいいじゃないですか?」
「恋宵、デモテープかなにか、録ってないのか?」
「一応MDに録ってあったけど……でも、いつ録音したかって証明できないんじゃないかにゃあ……」
「他に誰かに聞かせたりとかはしてないんですか?」
「んーん、路上ライブでもひじぃが聴いた一回しかやってにゃいの」
一方は二年前に完成させた曲だと言い、一方は二年前から作りはじめていた曲だと言う。それを証明する手立てがないのは、どちらも同じだ。こうなるともはや、どちらが先に発表するか、どちらが先に訴え出るかの勝負になるかもしれない。
「山崎さん……嘘を言ってるようには見えませんでしたけど」
「二年かけて作った“らしい”って言ってたし、自分では制作に加わってないんじゃない?」
歯痒い。歯痒さについ思い切り顔を顰めてから、直姫はちらりと他に目をやった。それぞれがそれぞれに思案顔で、自分の方を見てはいなかったことに、多少ほっとする。直姫が感情をあらわにし慣れていない以上に、直姫が感情をあらわにしたところを、誰も見慣れてはいないのだ。
そんな中、いつも猫のようにくるくると動く目が、ぼんやりと机の上を眺めたままなことに気付いて、直姫は口を開いた。
「恋宵先輩、山崎さんとは……仲、良いんですか」
口を開いてから、それが思わずだったことに気付いて、少しだけ後悔する。最近こんなふうに“思わず”や“つい”が増えてきた気がして、今度は誰にも分からない程度に眉を動かした。
「仲、は……良くも悪くもないけろ、なんか、前から避けられてる感じはしてたかにゃ……」
「あぁ……俺らから見ても、けっこー対抗意識剥き出しだったよな」
十数分前のやりとりで誰もが感付いてはいたが、やはり一方的なライバル視は目立っていたようだ。恋宵としてはまったくそういうふうには思っていないようだが、それがさらに乃恵の対抗心を燃え上がらせているらしい。
先の見えない話し合いは、ただ相手側──主にノエルのバックの、恋宵に対する明らかな悪意を嫌というほど分からせただけで、解決策の見出だせないまま、その日はお開きとなった。
◇
「恋宵先輩、大丈夫かな」
「どうかな」
「僕、山崎さんも嫌な人には思えないんだよね」
「そうだね」
「……直姫、話聞いてないでしょ?」
「聞いてるよ」
「うそ、だってさっきからずっとケータイ弄ってるじゃない」
「聞いてるって」
「えびせんはやっぱり五枚一気にかじるよね」
「そうだね」
「直姫この前えびせん嫌いって言ってたじゃん」
もうやっぱり聞いてない、と恒例になった呟きを右側に受けながら、直姫の目線はやはり携帯電話に向いたままだ。校内での携帯電話の使用は一応禁止とされているものの、律儀に守る生徒はほとんどいない。それは、社会的立場の強い人間を親に持つ生徒が多いこの学校内での、暗黙の妥協のようなものが教師間に蔓延っているからだった。
「さっきからなに、メール? 駄目だよ校則破っちゃ」
「……恋宵先輩、やっぱ最近元気ないね」
「……もう、聞いた時に答えてよ」
「なんか聖先輩もテンション低いよね。聖先輩なのに」
「あ、そうだよね……こういう時こそ恋宵先輩を元気付けようとして張り切ったりしそうなのに、意外だなーって思った。一緒にはいるみたいだけどね」
「うん、まぁ……なんとかなるでしょ」
「真面目に聞いてってば……」
真琴の下がった眉尻を見るといつも、彼は優しすぎると、直姫は思う。他人のことをここまで気にかけて、真に心を痛められるというのは、ある種の才能だとさえ思えるのだ。
そう考えていたら、真琴も言った。
「直姫のその、聞いてないのに微妙に噛み合う相槌打てるところってさ。ある種の才能だと思うよ」
そんな呆れ顔も、もう恒例だ。
◇◇◇
視界の隅に常に入る跳ねた焦げ茶髪を今日も認めて、恋宵は少し顔を上げた。ここ最近、いつもより頬にかかることが多い気がするのは、俯くことが増えたからだろうか。
そして、視界の中心に常に入れていたい金茶色の頭を今日も認めて、恋宵の表情は少し緩んだ。驚いたあとの苦笑いが優しいから、走り寄って飛びつこうか。振り向いた流し目がお気に入りだから、名前を呼んで手を振ろうか。
逡巡して前者に決めた時、タイミングが良いのか悪いのか、その人は立ち止まって、後ろを向いた。びっくりさせることには失敗したけれど、目が合ってどちらともなくこぼれた笑みが、なんとなくいい。
「恋宵ちゃん。おはよ」
「おはよー、ひじりん」
結局小走りで駆け寄って、流し目でも苦笑でもなく真正面から微笑みを見る。嬉しくなったが同時に、ここ数日見ていない無邪気な馬鹿笑いは、自分に気を遣っているからだと思い出して、悲しくもなった。
「今日の定期発表会ってさー、演劇部の女子組だよね。あの宝塚みたいなのまたやんのかな? すごいよね、羽ばっさばさ」
「ひじぃ、」
「……ん?」
名前を呼ぶと、必ず顔を覗き込んで、視線を合わせてくれる。視線が合うと、いつも少しだけ、目許が笑う。なにも言わずにいると、小首を傾げて、色の抜けた髪がさらさらと揺れる。
「ひじぃ」
「なに?」
「笑って?」
「え、」
「笑ってて」
そして、やっぱり。こんなに優しい苦笑い、他にない。
そう思って、恋宵も、泣き出しそうに苦笑いを浮かべた。
◇◇◇
それがたった一人から向けられたものでも、とある敵意を一心に身に受けるというのは、とても精神を消耗することだ。いや、自分しかこの敵意を相手に与えられないという必死さと、一種の使命感のようななにかが、むしろ脇目も振らない、ある意味で一途な憎しみを産み出しているのかもしれない。それにより、抱く側も抱かれる側も同じように、気力と体力を削られていた。
具体的にいうなら、ことあるごとに後頭部や横顔を刺す鋭い視線や、わざと聞こえるように言っている気がしてならない辛辣な嫌味や、かたくなに接触を拒む姿勢や、時折あからさまに目を逸らしては見せる、今にも泣き出しそうな顔など。そんな小さな塵が積もり積もって、山のような重さと存在感をもって、恋宵一人の細い肩にのし掛かっているのだ。
「恋宵? 顔色、すごいよ」
「わあ、夏生に心配されちゃった。超レア」
「ふざけてる場合じゃないでしょ」
「へーきよぉ。みんないるもん」
広くて浅いようで狭くて深い、意外にも強固な交遊関係を持つ彼女が、夏生に向かって「みんな」という言い方をするのは、決まって生徒会役員のことを話す時だった。平気と言いながらも、姿の見えないもう一人を探して扉を見つめ続ける横顔に、夏生は溜め息を吐く。気が乗らないのは、面倒だからだけではない。
「恋宵」
「なーに?」
「……山崎が、放課後マネージャーと一緒に生徒会室に来るって」
笑顔を凍らせたまま、声にせずに「え」と言ったその表情を見て、ほんの少しの後悔が芽生える。話があるのにも関わらず恋宵と接することを極力、しかもあからさまに避ける乃恵とのパイプ役は、やはり夏生か聖しかいなかった。こんな役目、正直言ってうんざりだ。
今の恋宵にとって、彼女との話し合いは追い討ちのようなものだろう。夏生だって、いつものように底抜けに明るくない彼女の笑顔は、もう見飽きていた。
「嫌なら、俺と紅先輩で話聞いとくけど」
「なんで……だいじょぶにょろよ。だってこれ、あたしの問題じゃにゃい」
「……なら、いいけど」
「ありがと。夏生」
そう、本当に嬉しそうに微笑んだ彼女に、夏生は少し目を細めただけだった。
◇
その日の放課後は、ちょっとした事件だった。
山崎乃恵とそのマネージャーが生徒会室に乗り込んで来るということは、生徒会役員全員にあらかじめ伝えられていた。大人しく見えて、意外に感情の振り幅の広い彼女のことだ。きっとまた泣いて抗議するか、恨みのこもった目で恋宵を見つめながら、こちらの話を聞こうともしないだろう。話し合いとは名ばかりと、誰もが思っていたのだ。
しかし、全ての授業が終わったあと、ややあってノッカーを打った乃恵の表情は、拗ねたような、けれど少し困ったようなものだった。そして彼女のそんな様子を訝しんだその直後に、声を上げたのは、紅だった。視線は乃恵から半歩下がって立つ、聞いた話では彼女のマネージャーに、向いている。
「く、榑松!?」
猫に似た特徴的なつり目と、いつでも口角の上がった口。体格の違いはあるが、見るからに活発そうな顔立ちは、どう見ても石蕗家の使用人の一人、榑松である。榑松を周知である彼ら七人も、思わずまじまじのその顔に見入ってしまった。視線が集まっていることを確認したその人(体格や服装を見るに、彼と言った方が正しそうだ)は、あの快活な笑い方で、言う。ちなみにこの時ばかりは、夏生でさえ言葉を失ったのは、仕方のないことだろう。
「あぁ、どうも、落葉松です。ノエルのマネージャーで、榑松の兄です」
榑松は、太陽のように、ではなく、太陽光線のように笑う女性だ。突き刺さるほどに、底抜けに明るい。それに比べると落葉松(からまつ)の笑顔はいくらか大人しく大人っぽく、ああ、兄なのだな、と感じさせた。
「それにしても……驚いたよ」
「私も驚きましたよ」
彼らの母が石蕗家で料理人をしている関係で、榑松や落葉松たちと紅は、小さい頃からの顔馴染みだそうだ。兄弟が多いらしく、上に一人、落葉松と榑松の間に一人、そして高校生の末っ子と、十代後半から二十代半ばにかけてほとんど間を空けずに五人。その中で榑松は紅一点だと聞いて、なんとなくあの潜在能力の引き出され方に納得がいった直姫だった。
落葉松は数年前に家を出て、アルバイトを転々としていたらしい。紅も会うのは四年ぶりだと言う。
「久し振りに見知った顔に会ったというのに……まさかこんなことになってるなんてね。びっくりですよ」
「そう……そうだよな。なんと言ったらいいか」
「面倒クサイですよねー」
「か、落葉松さん、面倒ってなんですの……!?」
「はい、乃恵さんはちょっと黙っててね」
「な、」
大人っぽいとはいえ、やはりあの妹にしてこの兄あり、というべきか。他人を振り回す度合いにそれほど落ち着きはないようで、融通の利かない真面目な箱入りお嬢様代表のような乃恵を、マネージャーの立場からしっかり圧している。
「紅お嬢さんのご友人の話は、榑松からよく聞いてましたけど……思ってた百倍くらい、厄介事を引き摺り込むタイプが揃ってるみたいですよねー」
「か、落葉松……? なんだかしばらく会わないうちに……その、変わったな」
「そうですか?」
「なんというか……刺々しくないか、ちょっと」
「そりゃそうでしょう」
それまでにこにこと食えない笑顔を浮かべていた顔から、すっと表情が消えた。けれどそれも一瞬のことで、すぐに猫のような目を細めて、苦笑いを見せる。しかし、それが本心からのものではないことなど、彼らの目から見て一目瞭然だった。落葉松は古い知人に会いに来たわけではなく、ノエルのマネージャーとして、仕事をしにここへ来たのだ。
「私はあくまで事務所の人間なんでね、音楽のことはよくわかりませんが……こちらとしても対策をとらなきゃいけなくなりまして」
「対策、とは」
「上のほうの人によると、この際、発表の早い者勝ちなんてセコイことしないで、思いきっちゃうのがいいらしいですよー」
「訴訟ですか。勝算があると?」
おどけたようにも聞こえる口調でぺらぺらと話す落葉松とは対照的に、夏生は普段通りの対外用、にこやかで落ち着いた態度だ。
恋宵には、専属のマネージャーが付いていない。それは恋宵自身が望んだからにほかならないのだが、今回のような場合に、すぐ親身になってくれる大人が傍にいないということだ。
その恋宵は、乃恵と落葉松、紅と夏生が対峙する応接スペースのソファーではなく、いつもの机の端に腰かけて、ただ押し黙っていた。そんな彼女を一瞥した落葉松は、苦笑を強くして言う。
「まさかまさか、いきなりそこまでしませんよ。……つまりね、」
一度言葉を切り、柔らかいとも言えるその物腰で、さらりと重い鉄球でも叩き込むかのようだった。
「そちらの出方次第、ということになりますよ、ってことです」
◇
「……疲れた。」
ぶっきらぼうな夏生の言い方は、本心からのようだった。
榑松の兄ということで、身内のような錯覚を一瞬でも抱いてしまったのかもしれない。しかし落葉松は、人当たりのいい態度とは裏腹に言葉の選び方も仕草も慎重で、あれは自分の態度が相手に与える印象や影響を熟知している人間の振る舞いだと感じた。声色だけなら和やかに進んでいるような話し合いだったが、会話の内容や視線の応酬には緊張感が張りつめていて、直接落葉松と言葉を交わさなかった聖や真琴でさえ、二人が帰った瞬間に大きく溜め息を吐いた。
「脅迫じゃんあんなの。ちくしょー録音しとけばよかった」
「でも直接脅しかけてきたわけじゃないからねぇ。発表したら訴えるなんて一言も言ってない、って屁理屈捏ねられるんじゃない?」
「あんだけ言ってれば十分でしょう。屁理屈ならうちの顧問弁護士だって負けねーし」
「夏生、荒れてんな……」
聖が、少し驚いたように小さく呟いた。よほどやりにくい相手だったのだろうか、夏生は表情だけならいつもと変わらないが、纏う空気は分かりやすく剣呑なものだった。普段から不機嫌無愛想無関心の三冠王である夏生だが、こうもあからさまに荒れているのは、かなり珍しい。言葉使いもそうだ。中身には存分に毒が込められているものの、やはり育ちがいいのか、乱暴な物言いはほとんどしないのだ。さりげない脅迫や嫌味なんかは立場上慣れていると言ってもいいはずだろうに、今回の件はやけに夏生を苛立たせていた。




