擬似的な彼女~サトちゃん誘拐事件~
「『口外ムヨウ』、かー……厄介だねえ。」
本当にそう思っているのか、いつもと変わらない間延びした口調で、准乃介が言った。
長い指には、直姫がうさぎの着ぐるみに渡された、あの手紙が挟まれている。
「『口外』ね……『外』、の定義とは」
「さあねぇ。ボディガードさんたちはどうにゃろねえ? てゆうか帰ってくるの遅くにゃい?」
「あの人たちはなあ……ちょっと胡散臭いし、あんまり派手に動かれたら困りますよね」
「ううん……こういう場合、とりあえずあの場にいた人間以外には話すな、てことじゃないスか?」
動揺を見せずにいつも通りの様子なのは、無意識にか、それとも少しでも緊張を和らげるためだろうか。こんな状況で交わされるには、あまりにふさわしくないトーンの会話であった。
だが、視線は絶えずお互いの間を行き交っているし、手元にも落ち着きはない。
指を組んだりほどいたりを繰り返す聖が、夏生の肩越しに、パソコンの画面を覗き込む。
あれから数十分。七人は、六時の閉館のアナウンスに追われるようにして遊園地を出て、また石蕗邸の離れに戻って来ていた。
「どう?」
「アダムス社……これか」
しばらく無言でキーボードを叩いていた夏生が、ぼそりと呟いた。
適当な単語を入力し、検索結果に上がったページを無造作に選んで開く。非公式のインターネットサイトなどならば、公にはしていない情報も得ることができるかと検討をつけたのたが、そう上手くもいかないようだった。
「たった一代で国を代表するほどまでに伸し上がった、イギリスの文房具メーカー。社長の名前はウイリー・ミハエル・アダムス……サイドビジネスとして雑貨輸入、食料品、衣料品など……」
表示されたページを読み上げる口を止めて、夏生は言った。
「……たいした噂はないですね」
「やっぱりそうか……」
根拠もわからないような噂話や、下らないスキャンダルの類いなら、いくらでも溢れている。だが「中国」「マフィア」「BTS」などといった単語で探しても、彼らの望むような情報は、一つも見つからなかった。
「そもそもサトちゃんの話の信憑性も疑わしいじゃないですか」
「だよねぇ、本人が言ってるだけでは決めつけらんないな」
「でも実際に失踪してはいるんですよ? サトちゃんの言ってたのが嘘なら、一体なにがあったっていうんでしょうか」
真琴は一人だけ狼狽もあらわに、情けなく眉を下げている。他の誰も慌てないせいで、全員分の動揺を彼が一手に引き受けてしまっているみたいだ。
「どうしましょう? サトちゃんに何かあったら、」
「真琴」
紅が、泣きそうな顔の真琴を呼んだ。張りのあって通りのいい、大声を出し慣れた声。いつもは竹刀を振るいながら檄を飛ばしたり、気合いの叫びを上げたりするその声が、静かに真琴の名前を呼ぶ。
真琴は顔を上げて、彼女を見た。
力のある視線が、真っ直ぐに交わる。
どうするもなにも、助ける以外の選択肢はない。
その目がそう言っているように思ったのは、真琴だけではなかった。里吉の危機を知っているのは、自分たち七人しかいないのだ。里吉を助けられるのも、自分たちしかいない。選ぶ余地も迷う余地もない。
紅が、重く口を開いた。
「……やるしか、ないだろう」
◇◇◇
誘拐犯からの接触は今のところ、遊園地で受け取った脅迫状、ただそれだけだ。連絡を待て、と書いてあるのだから、これからなんらかの方法で何らかの接触があるはずだが、とりあえずこれまでに連絡はない。
里吉の携帯電話のGPSも追えるようにしてあったが、遊園地を出た直後に電源を切られたようで、使い物にならなかった。
どんな方法で接触してくるのかは、さっぱりわからない。
今は待つしかないのだ。
それまではどうすることもできない。
できないことはわかっているのに、だからといって他のことをする気なんて起きるはずもなく、ただただ無言でいる時間が、数十分ほど過ぎた。
外はほんの少し、暗くなりはじめている。カラスの鳴き声が、ずいぶん増えてきていた。石蕗邸の裏の山に、群れで住み着いているのだろう。
なんとなくその声に気を取られていた直姫は、不意に聞こえた電子音に、首を巡らせた。さっき夏生がアダムス社について調べるのに使っていた、紅のパソコンからだ。
ぴこん、という軽快な音と共に、メールの受信を知らせるポップアップが表示されていた。
紅が、マウスに手を伸ばす。彼女が訝しげに眉をひそめたのを、誰もあまり気に留めていなかった。夏生が使っている最中にも、メールマガジンや迷惑メールを、何通か受信していたからだ。
紅自身そうだったようで、なんの躊躇も躊躇いもなくマウスを動かしていたのだが、ふと、その手が止まった。
夏生がその顔に目をやって、直姫が名前を呼ぶ。
「紅先輩?」
一度目は、反応がなかった。様子のおかしいことに気付いて、もう一度声をかける。
すると彼女は、ブリキ人形のようなぎこちない動きで、直姫に振り返った。
「どうしたんですか?」
「……直姫、」
「え?」
またゆっくりと自分から移って行った視線を、直姫は追う。向かった先は、パソコンの画面だった。
目に痛いくらいに、真っ白に明るく光っている。サイズのそれほど大きくない文字が並ぶ、メールの文面。
座ったまま手を付いて紅のほうへ寄って、目を細めた。光に慣れた目が、件名の文字を認識する。
そして、喉から、声が出た。
「……あ、え?」
勢いよく夏生に振り返った。切れ長の目が、少し見開かれる。直姫の顔が、体調でも悪いのかと疑うほどに真っ青だったからだ。眉を寄せ、彼女の一連の不可解な言動の意味を、たった一言に集約して、夏生は問う。
「直姫?」
言葉の足りない先輩に、直姫も、言葉足らずに答える。真っ黒な瞳には、困惑が乗っていた。
「メール」
「メールがなに?」
「犯人からです!」
「は?」
「はんに、……犯人からの、メールです……!」
◇
「四人乗りの車一台、食糧と……現金五千万円、か……」
目線をずらせば、宙にモニターの斑な残像が見えるんじゃないかというほどに、読み返した。
件名はあまりにも簡潔に、『要求』とだけ書かれている。本文も箇条書きに近く、単語だけ並べて作ったような印象で、文章からなにか判断することもできない。送信元はもちろん不明だ。
ある意味で、一番予想外な連絡手段だったかもしれない。最初の脅迫状が、手紙を手渡しなんてアナログなものだったせいだろうか。
そのために、困惑と動揺を隠すことができずにいた。真琴はきょろきょろと先輩たちの顔を見回しているし、聖は立ち上がって、常に体のどこかを動かしている。
ち、と誰かの舌打ちが聞こえた。
「アドレス、暗号化してるみたいだねえ……こんなんじゃ警察でもない限り、誰がどこから送ってんのかわかんないかな」
画面に視線を固定したまま、准乃介が呟く。どうやらさっきの舌打ちも、彼がしたらしい。あまりそういう――負の感情を表すところを見たことがなかったので、直姫は多少驚いた。
聖はうろうろと檻の中のトラのように歩き回っていたが、立ち止まって言う。
「え、アドレスからそんなことわかるんすか?」
「合法じゃない方法でなら、わかんないことなんかないよ」
「えっ」
「これだって、紅名義だってわかってて、アドレス調べられたんじゃない? サトちゃんにはパソコンのアドレスは教えてないでしょ」
「あっ、ああ、うん」
「じゃあ……俺たちのこともバレてるってことっすか?」
「それがわかんないんだよねぇ」
准乃介が、難しげに眉を寄せる。
はじめからBTS子息の誘拐を目的としていたのなら、身代金の要求は当然、父親のもとに行くはずだ。慣れない日本の学校で面倒を見る一介の高校生たちに要求するなんて、どう考えてもおかしい。
そうするのは、どこか――例えば徒歩だった学校の行き帰りで、例えばあの遊園地で、紅たちが里吉と一緒にいるのを目撃されていたからに違いない。
紅や夏生たちの素性を知ったうえでの、この要求であるはずだ。そうでなければ、ただの高校生に身代金が用意できるなんて、普通は考えないからだ。
だが、もしそうだとすると、要求額が安すぎる。
石蕗や東雲に他人の子の身代金を払う義理なんてないのは当然だが、要求がその娘や息子に行く場合なら、話は変わってくる。
「友達を助けるのに、五千万しか用意できないと思われてんのかね、東雲の跡取りは」
聖の言葉に、夏生は肩を竦めた。
「人質としての価値がない人相手に身代金なんて要求するはずもないから……甘く見られているんだろうな、これは」
「む、バカにしてるにょろ」
「イギリスにいるお父さんにも別に要求してるのかもしれません」
「それにしても、でしょ。せっかく誘拐したんだから、取れるだけ取ればいいのに」
「金が目的じゃないってことか……」
身代金に欲を出さないならば、他に考えられるのはそれしかなかった。金を取るためではなく、他の要求があって、誘拐したのだ。だが今のところ彼らのもとには、車と食料と金の要求しかされていない。
「だとしたら、なに……?」
「サトちゃん本人? 人身売買とか」
「こんな足の付きやすい人狙うわけないですよ」
「サトちゃん個人への恨み……だったら、誘拐じゃないか」
「今日なら狙撃でもなんでもするチャンス、いくらでもありましたよね」
「五千万円で帰してくれるとも限らないんじゃありませんか? これから先もまだ身代金の要求があるのかもしれません」
「それはないって……もしそうなら、最初は金と食料だけにしとくっしょ。まだ直接接触する時期じゃなくない?」
「直接受け取る気がないんじゃないか?」
「あ、よくドラマで見るにゃ! 橋の下に落とせってやつ?」
「それは無理です、車は人間がいなきゃ受け取れないから、どうしてもすれ違わなきゃいけません」
「うううううにゃあ……」
恋宵が、頭をがしがしと掻き回して、唸った。
すっかり行き詰まってしまって、考えすぎで熱でも出そうだ。しかも七人とも、考えることにいまいち集中できないでいる。
それは、メールに添付された画像のせいだった。
携帯電話のカメラで撮影したような画質の粗い写真。写っているのは里吉の学生証と、固そうなロープで縛られ、痛々しく赤い痣がついた手首だった。
真っ白で華奢な腕は、か弱く可憐な少女かと見紛うほど。しかし意外に(当然といえば当然なのだが)骨張った手の甲、親指の付け根辺りの見覚えのある黒子が、それが少女の姿をしたあの少年であることを証明している。
恐らく、犯行の信憑性を示す目的で送りつけてきたものなのだろう。尋常でないその画像が、視覚的な動揺を誘ってくるのだ。
違和感だらけの誘拐事件。
だがその正体がいまだ掴めずに、頭を悩ませることしかできなくて、それがもどかしくて、悔しい。自分まで頭を掻きむしりたい気分になってきて、直姫は額に手を当てた。
息を深く吐き出して、ゆっくり二、三度瞬きをして、ふと直姫の目についたのは、白だった。
紅のパソコンの画面は、メールを表示したままになっている。それが、視線を移した一瞬だけ、人工的な純白に見えて、眼球の奥が痛んだ。目を細める。
犯人からのメール。パソコンのメールアドレスを割り出す方法は、五万とあるらしい。
意味不明な取引条件。高校生に対して、車と食料と、五千万円の要求。
メール以外に犯人の手掛かりは、里吉が夏生とのお忍びデートで行きたいと言った遊園地で直姫と恋宵が渡された、他言無用の意を示した手紙が一枚だけ。
直姫は、声を出した。
「あれ?」
ずっと燻るように感じていた違和感が、不意に、とんでもなく大きくなった。炎を上げているのに熱くないような、そんなもどかしさがあって、落ち着け、と自分に言い聞かせる。
一度目を閉じて、開いた時にはもう、氷解していた。
それがにわかには信じられなくて、でもそうとしか考えられなくて、視線がうろつく。
それが出会ったのは、すべてを見透かしているような、ふてぶてしい冷たい目だった。いつもならば、しらけた色を携帯電話や聖に向けているか、アイマスクの下に隠しているか、もしくは、爽やかにわざとらしい笑みを浮かべているか、の。
あ ん た も ?
二人以外、ああだこうだと言い合っていた彼らには、きっと聞こえはしなかった。空気と一緒に直姫にだけ届くよう、吐き出された言葉は。
その言葉の諸々を直姫が理解するのと、それによってその表情にわずかに、ほんの微かに驚きの色が混じるのと、そんな直姫にしては珍しい変化を起こさせた本人が突然立ち上がったのとは、ほぼ同時だった。
「え、……夏生?」
一体急にどうしたんだ、という意味を込めて、聖が声を上げる。夏生はそれに対しては何も答えずに、ただ壁に掛けられた時計に目を向けた。
時刻は六時三十二分。犯人が指定してきた時刻まで、残り一時間を切っている。
それを確認したように、夏生はようやくまともに口を開いた。
「車の手配、間に合わなくなりますよ。行きましょうか」
「は……?」
誰かが戸惑ったように言う。恋宵は口を開けていたし、真琴は先輩たちの顔を見比べて、困ったように眉尻を下げていた。
耳を疑うのも、当然のことだ。なにしろ、細心の注意を払って慎重に扱わなければならないはずの問題がまだ、何一つ解決していない。
「え、なに言ってんの……?」
「レンタカーにする? たぶん無傷で返せると思うけど」
「おい、夏生?」
「准乃介先輩の名前で借りてください、この中で免許持ってるの先輩だけなんで。あ、身代金は保留で」
誰の疑問もまったく解消せずに、夏生は一人話し続けていた。しばらく呆気にとられていたが、ようやく我に返って、聖の声も徐々に低くなっていく。
「お前、わかってんのかよ、人の命が賭かってんだぞ」
「うっさいな、わかってるよ」
「わかってねぇだろ! ちゃんと真面目に考えてんのかよ、保留ってなんだよ!?」
「五千万なんて、高校生が簡単に用意できる額じゃない。向こうはそう思ってるはずでしょ」
「そんなの……だから、向こうは知ってるかもしれねぇんだろ、俺らのこと」
「そんなのありえない」
そう言い切って、夏生は続けた。
「柏木記念総合病院、石蕗流、東雲財閥、佐野化工。この名前を知ってて要求金額がたったの五千万円なら、ただの馬鹿かガキでしょ。ほぼ間違いなく、知らずにやってるか、もしくは」
「だからって!」
「俺が何も考えてないとでも思ってんの?」
限りなく冷めた、常に余裕と色気を仄めかす、切れ長の目。いつもとほとんど変わりなく見える。真正面から対峙した聖の勢いが、するすると熱を下げていく。
二人の様子をはらはらしながら見ていた彼らの脳裏には、シンプルな疑問符が浮かんでいた。
「……どういうことか説明してくれ、夏生」
紅が、困ったような訝しげな表情を浮かべて、尋ねる。
だが不敵な彼は、口許だけで小さく笑って、答えた。
「あとで。確証ないし、まだ教えません」
そう言ったきり、口を閉ざしてしまったのだった。
◇
静寂に包まれる。そんな気がしているのは彼らだけで、きっと今日だっていつもと何ら変わりのない生活をしている人々にとっては、普段通りの自然な騒音に満ちているのだろう。
だが、そんな錯覚をするほど、彼らは緊張していた。
紅のパソコンに送られてきたメールには、他言無用の文字と要求の他には、『1930、○○ビル』とだけ書かれていた。七時半にその場所に来い、ということなのだろう。
レンタカーを借りて向かってみると、そこは、小さな廃ビルだった。過去には何に使われていたのか、寂れた裏通りの隅に、肩身が狭そうに建っている。
通りを歩く者は一人も、猫やカラスさえも見当たらない。
よくこんな場所を見つけたものだと感心したが、人目につきたくないのは、無駄に目立つ人相ばかり揃っているこちらだって同じである。
「どうすんの、とりあえず弁当と車だけ持ってきたけど……」
「夏生先輩、一体どういうつもりなんですか?」
落ち着きのない聖と真琴の焦りも、夏生は一瞥しただけで無視した。
車は最低四人乗り、という指定があったので、レンタカーショップにあった普通車の中で一番大きな車種を選んだ。七人がまとめて行動するためでもあるが、車高が高いため、通行人が中を覗きにくいという利点もある。また、唯一自動車免許を持っている准乃介が、大きい車のほうが運転し慣れている、ということもあった。
七時半まで、あと六分。
今は、ビルから少し離れたところに停めた車の中で、建物の様子を窺っているところだ。
「……おい、夏生」
なにも答えようとしない友人に苛立って、聖が眉を寄せる。だが不意に、それまでほとんどなにも言わなかった夏生が、口を開いた。
「真琴、……准乃介先輩」
「……なに。」
予想以上に静かで冷静な声に、面食らう。
真琴は目を丸くしただけだったが、准乃介は、いつもの柔らかい声色で、返事を返した。
助手席に座った夏生は、運転席へと視線を移す。
「先に、中に入ってくれませんか」
「え、」
困惑した声をあげたのは、真琴でも准乃介でもなく、ただ黙って夏生の後ろ姿を推し測るように眺めていた、紅だった。
「どうして」
「とりあえず食料を運んでください。時間稼ぎ、おねがいします」
「だから、どうして真琴と准乃介なんだ」
「いざという時のために、それなりに動ける人のほうがいいかと」
「それなら……、私だっていいだろう」
「さすがにこんなこと頼めませんよ」
「そこらの男に私が負けると思ってるのか」
途端、紅の顔つきが変わる。明らかに怒りを含んだ表情で、身を乗り出した。
「そんなわけないでしょう」
「だったら私が行く」
「それはだめです」
「だからどうして!」
「予定が狂うんですよ」
「予定!? なんの話なんだ!」
「紅先輩のことでは」
遮るように紡いだ言葉からは、もう何を言われても曲げるつもりはないことが、明らかだった。
その固さに一瞬怯んだ紅は、怒り顔もそのままに、夏生が言うのを待つしかなかった。
「確かめたいことがあるんです」
◇
きしりと音を立てて、扉が軋む。砂や排気ガスで曇ったガラスを誰も掃除しないために、中も薄ぼんやりとしか見えない。
開けると、あまりに綿埃がもうもうと舞い上がったので、もしかして誘拐犯たちはここにはいないのか、と思ってしまった。
だが真っ白になったリノリウムの廊下に、確かに真新しい足跡がついている。何度も出入りしているようで、何人の足跡かはわからない。
通話状態にした携帯電話は、とりあえずの外との通信手段だ。これが切れたら“合図”と取る。
それをポケットに入れて、二人は帽子を深く被った。
真琴と准乃介、紅は、誘拐犯とは一切接触していないし、すれ違ったりもしていないはずだ。
だがそれに関係なく、今顔を見られてしまえば、真琴と准乃介の正体は簡単にバレてしまう。もしかしたら数人がかりで取り押さえられて、人質が増えるなんてことにもなりかねない。
紅は明らかにそれを懸念していたが、夏生はまったく気にしていないようだった。
ざ、ざざ、と、ノイズ。小さなスピーカーから聞こえるのは、くぐもった音と、聞き取り辛い囁く声だ。
「どう?」
『入ってすぐの階段脇に一人……あとは一階にはいないと思います。顔はわかりません』
弁当や水のペットボトルが入った段ボール箱を開けて中を見せると、案外簡単に通してもらえたようだ。
しばらくは一言も発しなかったが、先導する犯人と距離が開いたのか、中の様子を報告する声が聞こえてきた。ワイヤレスの小さなイヤホンを髪で隠して、服の中を通して襟元に着けた小さなマイクに向かって話しているのだ。
それから少しの間、二人が通った道順、見張りの位置や人数を報告する小声と、断続的なノイズが続いた。
「結構人数少ないみたいだな……まさか、本当に四人しかいないなんてことはないだろうな」
「サトちゃんどうしてんのかな……」
「サトちゃんがいるところまでは通してもらえないかもにょろ」
「せめて……、顔を見られなければいいんだが」
なにか口に出さずにはいられない不安の中、夏生はただ黙っていた。直姫もなんとなく、声を出すタイミングを見つけられないでいる。それよりも気になっていることがあって、ずっと気を散らされているのだ。
声でしか入ってこない情報に、できる限り意識を集中させていたが、不意に、電話口からの音が騒がしくなった。息が詰まるような緊張感が走る。
「……な、なに、?」
「これ……、犯人たちの声、ですか?」
「早口で聞き取りづらいな」
その時だった。
ざわざわと聞こえる騒音の中、微かに届いた声は、覚えのあるものだった。甲高く響くことも、地を這うように唸りもしない、不思議と澄んだ中性的な声。
『……、……のく、』
『え……!? な……んで』
固唾を呑んで聞き入った、その次の瞬間には、ぶつりと音を立てて通信は途絶えていた。
「え……今の声……」
「最後のは、まこちゃん、だよねぇ……?」
聞き間違いではなかったようだ。
恐らく、誰もが耳にしていた。真琴の、戸惑ったような、驚いたような声。そしてその直前に、彼の名前を呼んだのは。
「あれって……」
色白の肌が透明になってしまいそうなほど蒼白して、紅が呟く。思考だけでなく、血の巡りまで止まってしまいそうなくらい、戸惑っている。
直姫はその時、自分の思い付きが間違っていなかったことに、確信を持った。自分と、そして、彼の。
『あんたも?』
あの言葉の意味はやはり、直姫も気付いたか、という、確認だったのだ。そう考えれば、その後の勝手な言動も辻褄が合う。
そして、それは、もしそうだとすると。
「夏生!? どういうことなんだ、二人は」
もし、そうだとすると。
「あいつらは……!?」
「紅せんぱ、」
「紅ちゃん落ち着いて!」
あの、二人は。
「夏生っ!!」
きっと、
「……大丈夫」
取り乱した紅もその腕を引き止めていた恋宵も、どうすればいいかもわからずただ狼狽えていた聖も、その言葉に、動きを止めた。
「な……にが、」
「大丈夫ですよ。あの二人は」
古くて汚い扉を真っ直ぐに見つめたまま、妙に確信のこもった口調で、彼は言う。その言葉にはどこか、根拠もわからないのに人をやけに落ち着かせる、よくわからない力があった。
「なぜ……そう言える、そんな保証がどこに」
「大丈夫、向こうには、俺たちに危害を加えちゃいけない理由がある」
「は……?」
訝しげに眉を寄せる。
確かに、なんの罪もない日本の学生を傷つけて、相手の立場が不利になるのは当然のことだ。だがそれを、夏生たちの素性も知らないようなチャイニーズマフィアや、犯罪組織と繋がりのあるイギリスの実業家などが、考えるだろうか。
「時間稼ぎだったんですよ。俺たちのじゃなく、向こうの」
「え?」
「紅先輩でも、他の誰でもだめだったんです。向こうが本気で抑えに来れて、それなりに抵抗できて、でも大人に数人がかりで来られたら勝てないぐらいが丁度よかった。だからあの二人だったんですよ」
「夏生……? お前、なに言ってんの、」
「直姫。あんたも、わかってんだろ?」
ふいに、曲がることを知らないその視線が、こちらを向く。さっきまで、彼には不似合いすぎる薄汚れた扉に向けられていた視線だ。
かけられたのは、さっきと同じ問いだった。足りなかった部分を、少し補正してはいるが。
「まあ、はい」
「気付くの遅いよ。あのメールの時でしょ」
「しょうがないじゃないですか、混乱してたし……」
急に自分に話が振られたことに驚く様子もないどころか、言い争いにまで発展しそうな彼らに、置き去りにされた三人は顔を見合わせるばかりだ。
「そもそも先輩、気付いてたならなんでもっと早く」
「ちょっ! ちょっと待て直姫、」
「……なんですか?」
「さっきから、気付いてたとかなんとかって、何の話?」
無理矢理に遮って説明を求めた聖に、今度は直姫が訝しげな視線を向ける番だった。それからすぐに、「なんだ、分かってなかったんですか」と小さく呟く。彼女がここまで内心をあらわにするのは、とても珍しいことだ。
「おかしいと思いませんか」
「え。なにが」
「全部です。最初から」
「最初……?」
「サトちゃんが、マフィアに狙われる危険も省みずに夏生先輩とデートしたいって言い出したことも、そのせいで誘拐されたこともです。計画的すぎる」
女の子ならば(彼女、いや彼は女の子ではないのだが。全くややこしい)想い人と親しくなりたいと思うのは当然で、それならば二人きりでのデートがいいというのも、また当然のことだ。しかしそれは、その“女の子”が一般人だった場合に限る。
「でも……サトちゃんは夏生が好きで、二人でデートがしたくて、遊園地にも行ったことがないから行ってみたくて」
「それですよ」
「んにゃ?」
情報を脳内で整理整頓するようにぶつぶつと呟く恋宵に、直姫は言った。一番肝心な前提が、すっぽりと抜けているのだ。
「デートを極秘で計画して、行き先を遊園地に決めたのは、つい四、五時間前なんですよ。マフィアだかなんだか知りませんけど、いくらなんでもそんなこと、知るわけないじゃないですか。サトちゃんがデートで行ってみたい場所なんて、そんなの」
直姫は、いつもよりずいぶん饒舌になっていた。あまり長く話すことには慣れていないので、舌が回らなくなりそうだ。
「え、あ、確かに……」
「もしずっと監視してたとしても、ヒントになるような行動も会話も、ほとんどなかったはずです。だって、隠してたんだから。夏生先輩にバレないようにするの、大変だったじゃないですか。だからあの遊園地に手を回すのなんか、絶対に不可能なんです」
「それはつまり……誰かが、事前に情報を回さないと……?」
「え……ちょっと待ってよそれって、」
「それがさっき紅先輩に言った、確かめたかったこと。これですよ」
そう言って夏生が開いたノートパソコンの画面には、石蕗邸を出る前に転送した、紅の自宅のパソコンに送られたメールが表示されていた。もう何度も何度も、文面も内容も改行の位置すら暗記するほどに読み返している。
恋宵が、訝しさもあらわに首を傾げた。
「このメールがなんにゃの?」
「准乃介先輩が言ってたでしょ。名義人がわかれば、アドレスを割り出す方法があるって」
「うん……?」
「……あ、」
しばらくじっと白い液晶を見つめていた紅が、声を漏らした。おかしいのだ。どう考えてもおかしい。そうとしか、説明のつけようがない。
ここ最近、放課後は必ず皆で紅の家に集まっていたこと、離れで過ごしていたこと。
あの部屋にパソコンが置いてあること、そのパソコンが、紅の物であること。
自動車免許を持っている者が、生徒会にいること。
そしてボディーガードどころか、夏生にすら秘密で進行していたあの計画のことを、知っている。
その条件に、当て嵌まる人物は。
「え……でも、どうして……?」
「どしたの」と声をかけられて、紅は恋宵のほうを見た。
「犯人は……誘拐犯に、情報を流せたのは、」
その、迷いながらの口調が、曇った表情が、示すのは。
「……私たちの中にしか、いない……」




