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ONLOOKER  作者: 鳴瀬倉
14/31

擬似的な彼女~サトちゃん誘拐事件2~

 混乱する意識で、真琴は隣を見た。

 カスタードプリンのカラメルソースのような髪が、きょろきょろと動いている。

 観察するように辺りを見回している彼に、小声で話しかける。


「……あの、准乃介先輩」

「ん、なにー?」

「これってどういうことだと思います……?」

「どういうことって……やっぱ、こういうことだろうねぇ」

「やっぱり、そういうことでしょうか」


 こういうことだとかそういうことだとか、ひどく抽象的な会話に、もはや自分が何を言っているのかすらわからなくなりそうだった。けれど具体的には何とも言いづらくて、結局そんなふうに濁してしまう。

 しかし、もし真琴の言う“そういうこと”が准乃介の言う“こういうこと”ならば、この一連の出来事は一体、なんのためだったのか。

 もしかして、まったくなんにも意味のないことだったのではないか。

 隣で曖昧に首を傾げる彼を、とても心配していたあの人が、無鉄砲な行動を取らなければいいのだけど。

 夏生が彼女をビルの外に残したのは、きっと、そんな事態を避けるためだったのだ。


(それよりも、やっぱり彼女のあの取り乱しようを見ると、二人がそういう親しい関係にあると周りに思われたって仕方ないと、思うんだけど。)

 そう考えて真琴は、辺りを見回した。


 ◇


『おい……誰だ、お前たち!?』

『痛い目に遭わされたくないなら止まれ!』


 焦って喚く男たちから聞こえるのは、訛りもない流暢な英語だし、彼らはどう見ても中国人でも日系人でもない。情報を流す役まで周到に用意していたわりには見張りも少ないし、こんなところで詰めが甘すぎると思いながら、直姫は夏生のあとについて歩いていた。

 武器も持たずに脅しをかける男たちの言葉など、無視を決め込んで進む。


 ビルの外に残っていた五人は、事態の真相を知ると、すぐにあの汚れた扉を押し開けて、中へ入った。

 二人が通った道は、真琴からの報告で聞いて、きちんと覚えている。それほど広くないビルの中だ。人間二人を隠しておける場所なんてないだろう。

 そして、辿り着いた先には、“あの人”もいるはずだ。

 彼らの踏み出す足に、躊躇はなかった。


『おい、誰だと聞いているだろう! 答えろ!』


 男の一人が、夏生の肩に手をかけて強引に振り向かせる。氷のような視線に怯むこともなく、脅すように低く唸ったが、もう一人は慌ててそれを止めに入った。


『おい、やめろ! 彼らが誰か知らないのか!? 絶対に傷つけるなと、彼に言われているだろう!』


 二人の男は終始戸惑いっぱなしだった。ここまで車を持って来るよう指定したくせに、彼らが中まで入ってくることは予想していなかったのだろうか。

 男たちの会話を聞いて、恋宵が怪訝に眉を潜める。


「……どういうことにゃの、」


 その時だった。言いかけた恋宵が、不意にまったく別の方向を向く。

 彼女の人よりも優れた聴覚は、ある“音”を捉えていた。


「……?」

「恋宵? どうした」

「……声……が、する」


 そう言って恋宵は、ひときわ大きな、白い扉へと走り寄った。紅や聖も近寄って耳を当ててみるが、防音なのか、さっぱりなにも聞こえない。

 だが恋宵はもう一度、中の音に反応した。声がする、と再び呟く。

 その時、やけに頑丈そうなその向こうから、紅たちにも聞こえる声が、微かに、けれど確かに聞こえたのだ。


 ◇


 自分は今、人質なんだろうか、と、准乃介は考えていた。これでも人質と言っていいのだろうか、と。

 けれど、この状況で人質に取られているというのもなんだか、なんだ。いまいち気分も乗らない。

 普通は人質ってどんな感じだろう。そんなの、普通は人質になったりしないのだから、わかるはずもない。


 一人問答を頭の中で終えて、見ると、真琴が困った顔をしていた。心配性で気の弱いこの後輩は、大抵いつでも困った顔をしている。

 とりあえずは、今の自分の状況なんかよりも、切断された通話が気にかかっている。

 どうしているだろう。あの人がもし心配してくれていたら嬉しい、けれど、しっかりしているように見えて変なところで冷静さを失うから、焦って考えなしに行動したりしなければいいのだけれど。


 そう考えながら、目にかかった長い前髪を、縛られているわけでもない手で払った。

 その時、向かいに座る彼(──うん、彼)が、手にしたサクランボ柄のティーカップをテーブルに置いて、扉に目をやった。

 向こうがやけに騒がしい、という意味のことをとても上品な口調で言って、上品な表情で上品な仕草で、自分の背後に姿勢よく仁王立ちしている男に、見て来なさい、と命令を告げる。


 さすが、態度でけぇな、あー、髪切りたいな。

 取り留めも脈絡もなく考えながら、ふ、と溜め息を吐いて、機敏な動きで男が扉に近付くのを目で追っていた。真琴も同じようにしている。

 だが、男が手を伸ばしたとき、扉が、開いた。男は少しも触れていないのに、だ。

 扉の向こうに、五つの人影が見えた。

 そのうち三人が、准乃介たちを見て驚いた顔をしたけれど、きっとこちら側にいた人間も皆、同じくらい驚いていたに違いない。

 その人の真っ黒な眼の奥に見えるものが、驚愕と戸惑いと、そして安堵だと分かったとき、准乃介は、やはり嬉しく思った。


 ◇


「な、つみ……さま、」

「お前、縛られてるんじゃなかったの」


 問い詰めるわけでもなくそう尋ねる夏生には、なんの表情も浮かんでいなかった。無表情のまま、時折、つまらなそうにゆっくりと瞬きをする。

 相対する人物──里吉は、ちらりと目を合わせて、すぐに逸らした。息を呑んで、深く呼吸をする。

「あの、」となにか言おうとした里吉を遮ったのは、緊張感のないいつもの声だった。


「にゃあ、まこちゃんと准センパイ、無事だったにょろ~」


 誰と言わなくても明らかだが、恋宵は、にっこりと笑ってひらひらと手を振った。

 その視線の先にあるのは、小さな丸テーブルだ。上には湯気を立てる三人分のティーカップと、サンドイッチの乗った皿が置いてある。

 そして、呑気にカップに口をつけるのは、『人質』たちだった。

 紅が、声を上げる。


「准乃介、」

「だから言ったじゃないですか、先輩たちは大丈夫だって」

「紅、そんなに心配してたの?」


 准乃介は立ち上がりながら、小さく笑い声を上げた。「べ、別に」と言いながらも、紅の顔は安堵をあらわにしている。


「まじで嘘だったんだ……」

「サトちゃん……にゃんで?」


 聖は呆気に取られ、恋宵は怪訝な表情を浮かべていた。里吉は、罰が悪そうに顔を背けている。直姫はそんな彼に、言った。


「なんで……狂言誘拐なんか」


 直姫の口調には、不思議そうな色の中にも、わずかに非難の色が含まれている。さんざん振り回されたのだから、当たり前といえば当たり前だ。

 ただもとはといえば、抜け駆けデート計画を持ち出したのは直姫であって、里吉はそれに便乗しただけなのだ。

 自分のことを棚にあげるなと言われれば、それまででもある。


 一方の里吉は、今にも決壊しそうに目を潤ませていた。唇は、嗚咽を耐えるように噛み締められている。

 咎めるような目が一斉に自分に向いているこの状況で、普通の少女ならば思わず涙ぐんでしまっても仕方のないことだろう(とは思うけれど、しつこいようだが、里吉は普通の少女ではないのだ)。

 サトちゃん、と、恋宵が柔らかく促す。あんなに嫌がっていた呼び名を、さすがにこのときばかりは、素直に受け入れていた。そして、ぽつりと言う。


「だっ、だって……夏生さまが」

「……俺?」


 突然名前を出された夏生は、とても不本意そうに眉をひそめた。だが、口を挟むなと紅に視線で制され、仕方なく押し黙る。

 里吉は涙を浮かべたままで、続けた。


「夏生さまが……他の子と、あんな風に話すから……!」


 夏生は、その場の視線が全て自分に向いていることに気付いて、大きく舌打ちをした。ぱちぱちと瞬きをして、聖が「えっ、」と言う。


「やきもち?」

「ねぇ、これ、俺関係ないよね」

「夏生ぃ、駄目にょろよう、女の子泣かしちゃ」

「どこに女の子がいんの?」


 実に珍しいことに、盛大に顔を歪めて、夏生は苛立たしげな溜め息を吐いた。

 聖も恋宵も、もうすっかり面白がる方向にシフトチェンジしてしまっている。この場に、表立って夏生に同情するような者は、ただの一人もいないのだった。



 ◇◇◇


 八人の周囲では、里吉の協力者、誘拐犯グループ役だった男たちが、忙しなく動いていた。

 “誘拐犯のアジトセット”を、せっせと解体しているのだ。ヘレンドのティーカップは、スポンジの詰め込まれたケースに丁寧に仕舞われていた。まるで引っ越し業者のようだ。

 ちなみにサンドイッチは里吉たちの分しか作っていなかったようなので、作業の合間に、准乃介たちが運び込んだ弁当を夕食として食べてもらった。流暢なイギリス英語で礼を言われた真琴が、ものすごく困った顔をしていたのが、強く印象に残っている。

 様々な噂が横行しているために正確なことはなんとも言えないが、アダムスがマフィアと繋がりがあるというのは、里吉の考えた作り話だったらしい。

 アダムス社にしてみれば、とんだ濡れ衣を着せられたものだ。一歩間違えば名誉毀損で訴えられてもおかしくなかったが、里吉は、こんな眉唾を広めてしまうような野暮な方は悠綺の生徒会にはいないと思って、なんてけろりとしていた。


 狂言誘拐事件の動機は、可愛らしいといえば可愛らしい、と思えなくもない、かもしれない、そんな理由で。

 確かに三年前のバースデーパーティーの時と今とでは、夏生の里吉への態度には、雲泥の差があるだろう。あの頃は父親の古い知人の息子、今はただの、女装趣味のわがまま留学生なのだから、当然である。

 しかもさらに悪いことに、その無愛想さは生徒会役員を別にしては里吉に対してだけであり、普段は放課後の彼が別人に思えるほどの人当たりの良さなのだ。なんで自分だけ、と里吉が思ってしまっても、無理はなかった。


「つまり、夏生先輩の気を引きたかった、てことでしょうか?」

「なにそれ……ベタなうえにはた迷惑な」

「ちょ、直姫、」


 はっきりと誰のせいだとも断定できない状況である。

 とはいえ、今回の事の発端と言っても過言ではない直姫が、そこまで里吉を責めてもいいものだろうか。案の定里吉は、柳眉を逆立て食ってかかる。


「なんですって……そもそもあなたなんかが夏生さまのおそばに居られること自体が気に食わないのよ!」

「変な言い方しないでほしいな……別に好きで生徒会にいるわけじゃないよ」

「なんて贅沢なんですの……!? 誰もが羨む立場にいながら!」

「よかったら譲るから、特待試験受けてきなよ」

「ほんっとに生意気ですわね……だいたいあなた、夏生さまに対しても私に対しても昔からそんな態度じゃない! 男性に興味ないんですの!?」

「サトちゃんほどはないけど?」

「な、なんですのその言い方! 私は別にそんな性癖ありませんわ! 失礼な……!」


 燃え盛る炎のような里吉の勢いに煽られて、直姫までいくぶん温度が上がってきているようである。

 珍しいこともあるものだと眺めていた彼らだったが、ふと紅が、首を傾げて言った。


「……昔、から?」


 それは瞬間的なことだっただろうか。それとも、数分にも及んだのだろうか。

 果たしてそれは定かでないが、しかし、その声が騒然としたその場になぜかはっきりと響いたこと、そして少しの沈黙が訪れたことは、確かだった。


「え、直姫、『昔から』って?」

「え?」


 里吉にその言葉を浴びせられた本人もまた、疑問符を投げた。

 里吉と直姫が家族ぐるみで昔馴染であることは、つい先日判明したばかりである。そして、夏生と里吉もそういった間柄だということも、同じように。

 しかし、今の里吉の言葉では、まるで。


「えぇっと……直ちゃんと夏生も、幼馴染み、にょろ?」

「ん?」

「え?」


 今度は二人分。

 疑問符に疑問符で返す張本人らに、揃って首を傾げてばかりだ。


「……覚えてませんの? お二人とも」


 里吉までが呆れたような、信じられないというような複雑な表情で言った。


「え、ちょっと待って、うそ」

「嘘じゃありませんわ、なに言ってるんです」

「え? あれ?」

「まだ小学校にも上がる前のことですけれど、あなたのお父様と夏生さまのお父様を一緒にお招きしたことが、何度もありましたわ」


 父親に連れられて志都美家へ来た二人がちょうど同じ年頃だからと、親同士の用事が終わるまで三人で遊んでいたことが、時々あったという。

 ちゃんと写真も残ってますわよ、と里吉が言う。夏生も直姫も、なんとか思い出そうとするが、その努力は失敗に終わった。


「え、全然覚えてない」

「俺は志都美家に行ったこと自体、あんまり」

「まぁ、酷いですわ二人して!」


 頬を膨らませて怒った素振りを見せる里吉。

 だが次の瞬間、再三の爆弾発言によって、また空気が凍ることになるのである。


「私はあの頃から夏生さまをお慕いしておりましたのに。あなたが直姫さんとばかり遊んでいらっしゃったから、私、女の子になることを決意しましたのよ」


 意味もなく「……う、うん」と頷いた聖は、意味もなく夏生に小突かれていた。


 ◇


 口外するな、という脅迫状のお陰でまったくことを荒立てずに進めていたため、後始末らしい後始末も必要なかったものの。

 疲れきった顔の彼らといたたまれない表情の里吉が揃って石蕗邸に帰宅すると、待ち構えていたのは、落ち着かない様子の榑松と、展開について行きそびれた六人の大男たちだった。


「……あちゃあー……」

「忘れてましたね、完全に」


 そういえば、遊園地に向かう時、ボディーガードたちを騙して石蕗邸を抜け出していたのだった。里吉が消えて一度戻ってきた時も屋敷にいなかったせいで、すっかり失念してしまっていた。

 めんどくさい、と口の動きだけで夏生に言うと、もうやだ俺、と返ってくる。

 榑松は、里吉の姿を確認するなり走り寄って来た。


「お嬢さん! 皆さんも、ご無事でやんすね!?」

「榑松さん……、ご心配おかけしました、ボディーガードの方たちも」

「お嬢さんから聞いてやす。なにも大変なことはなかったんすよね? あの人らにも、全部説明しときやしたんで」


 そう言って、黒いスーツの集団を振り返る。揃って怖面の彼らだが、サングラスの奥にも、安堵の表情が窺えた。

 夏生以外の六人で里吉が屋敷を抜け出す計画を立てていたことも、里吉の狂言誘拐事件のことも、紅から連絡を受けた榑松がすべて話しておいてくれたらしい。

 どうやらこれで一件落着、と思いきや、そうではなかった。榑松が、にやりと口の端だけ上げる。


「あの人らからも、みなさん方にお話があるそうですよ」

「え?」



 それから聞いた話は、なんとも間抜けで、ややこしくて、実に“らしい”事実だった。

 なんと、六人のボディーガードたちは、紀村悠子の派遣した偽物だったというのだ。


 里吉が彼女の紹介で留学することになった時に、どうせなら二週間思いきり世話になって来ればいいと、今回の“いたずら”を提案された。それで、理事長からの手紙には、くれぐれも里吉をよろしくと、ずいぶん大袈裟に書かれていたわけだ。

 ここまでは里吉も関知していたことだったが、ボディーガードの存在は、里吉もこちらへ来てはじめて知ったことだった。生徒会役員たちも、理事長のいうことを疑いもしなかったため、てっきり彼女がボディーガードを付けてくれたのだと思っていた。

 だが、実は彼らは、日本にあるBTS本社の社員だったのだ。里吉の様子を見て、イギリスにいる父親に随時報告するのが、彼らの役目だった。

 ボディーガードでもなんでもない、ただのメッセンジャーだったわけだ。


「どうりで動き悪いと思ったよ……」

「てか普通に考えて六人もいらないしね」

「そこが理事長なりのジョークにゃのかと思ってたにょろ」


『あの理事長のことだからきっとなにかある』と、深読みさせることそのものが、その『なにか』だったのだ。

 里吉がさらなるいたずらを仕掛けることまで予測していたのかどうかはわからないが、なんだかすっかり、理事長の手のひらの上で転がされていたような気がする。

 すっかり疲れてしまった彼らに、榑松がからりと笑った。


「さ、夕食にしやしょう! せっかくだから皆さんも食べてっておくんなせ」


 食べ盛りがこんなにいちゃあ料理長も大変、と、八重歯を見せる。そんな榑松に、里吉は素直にはにかんだ。

 なんだかんだで、榑松や紅や恋宵には、この数日の間に心を開いて楽しくやっているようである。初対面のあの態度は、なんだったのだろうか。つんでれなんじゃないの、と、聖は言った。


「まーなにはともあれ、結果オーライ?」

「どこが?」


 唯一夏生だけが、相変わらずの仏頂面で言った。結局、今回もっとも割りを食ったようになってしまったのは彼である。

 留学生の女装っ子に懐かれたと思ったら、騙されてデートに連れ出されて、そこで突然姿が消えるというハプニングが起きて、けれどそれは狂言誘拐事件で。

 おまけになぜだか、里吉のぶっ飛んだところが、すべて自分のせいにされている。


「俺ばっか最低な奴みたいに言わないでよね」

「いやいや、十分ヒドイじゃん? ロリ直姫とうっかり気合っちゃってたのに、そのことすっかり忘れちゃってるし」

「そーよ、そのせいで女の子ににゃったら仲良くなれると思って、サトちゃんがああなっちゃったんでしょお?」

「覚えてないのは仕方ないでしょ」

「それについては自分もさっぱりですし」

「都合の良いことしか記憶しないのか、お前らは」


 そう言って紅が、呆れたように溜め息を吐く。

 都合の悪いことを忘れられるのなら、いっそこの人たちと初めて会った日から今日までのことを、全て忘れたいものだと、直姫はこっそり考えた。


「つーかさぁ」


 そんな時、聖が言った。なにか考えながら口を開いたのだが、ろくでもない予感しかしない。


「じゃあ、サトちゃんがそっちの道に目覚めちゃったのって、直姫にも原因があるわけじゃね?」

「は?」


 剣呑な声を上げると、直姫こわいこわい、と、真琴が小さく言う。

 どうしてこの人はいつもこう余計なことばかり言うんだろうか、と考えたことは、口にこそ出さなかったものの、その不機嫌な雰囲気から周囲には駄々漏れな彼女であった。



 ◇◇◇


「それではごきげんよう、皆様」


 やたらと大きなスカイブルーのトランクを隣に携えて、里吉が振り返った。

 たいした揉め事もなく過ごした残りの一週間で、紅や恋宵とはずいぶん親交を深めたようだ。帰国する日、空港まで見送りに行こうと言い出したのは、二人だった。

 なぜかやけに里吉を気に入っていた榑松は、どうしても仕事が休めないからと、石蕗邸ですでに惜しみながらの別れを済ませている。

 里吉の我が儘っぷりは、あの一件以来、すっかり鳴りを潜めていた。来日当初より少し大人びた気もする表情は、今、やけに晴れやかだ。

 そこで思い起こすのは、里吉がはるばる日本へやって来た動機である。


『夏生に会いに来た』


 もとはといえば、そう言って生徒会室に乗り込んで来たんだったのではないか。つまりは、その想いを遂げるのが目的だったはず。

 これだけの行動力があるならば、帰国までにまったくなんのアクションも起こさないなんてことはないだろう。里吉の性格を考慮しても、なにかしらのけじめをつけたと考えておかしくなかった。

 だがさすがにこんなタイミングで本人に確認するのも憚られるし、かといって夏生に聞いたところで詳しく教えてくれるとは到底思えない。

 だが、そんな時の適任者が、生徒会にはいた。


「ところでサトちゃん、夏生とはどうなったにょろ?」


 夏生が自販機を探しにその場を離れた瞬間に、恋宵が声を潜めて聞いたのだ。空気を読めないようで読んでいる、こんな役回りは、だいたいいつも彼女が引き受けている。

 里吉は戸惑ったように苦笑いした。


「どうって……別になにも、」

「うっそぉ、ちゃんと夏生に言ったんじゃないにょ?」

「え? やだ、どうして知ってるんですの」


 里吉は、驚きに目を丸くした。しかし別段頬を染めるわけでも言うのを躊躇うわけでもなく、単純に不思議そうな表情だ。

 直姫は、そういう類いの話にはあまり関心がないため、ぼんやりと窓から見える滑走路を眺めていた。一応話が聞こえる距離にいるのは、なんとなく、である。


「実はにゃー、昨日生徒会室に二人で入ってくとこ見ちゃった」

「ちょっと、覗き見なんて趣味が悪いですわ」

「だいじょーぶ、見ただけにゃよ」

「もう、本当ですわね?」


 今日は、初夏にしては蒸し暑い。

 人の多い屋内にいるせいもあるのだろうか。下はジーンズ、上はTシャツにパーカーを羽織っただけの肌は、すでにじとりと汗をかいているような気がする(学校関係者に見られることを気にしているわけではまったくないが、それを別にしたって、自分から女らしい服装をするような直姫ではなかった)。


「もちろんフラれましたわよ、きっぱりと」

「え」

「いいんですの、好きだったのなんて昔の話ですし」

「サトちゃん……」


 静かに目を伏せるその姿は、諦めたようにも、昔を懐かしんでいるようにも見えて、どちらにしろ彼女はただ、柔らかい微笑みを浮かべていた。



 不意に、大音量のアナウンスが響く。これから彼女が乗る予定の飛行機が、もうじき出発するようだ。

 恋宵が、少し淋しそうな顔をする。


「あ……、サトちゃん、時間」

「里吉、また日本に来る機会があれば、いつでも家に泊まるといい」

「嬉しいですわ。榑松さんにもよろしく伝えてくださいな。それでは」


 ちょうど夏生が数本の缶を手に戻って来た時、里吉は足を踏み出した。直姫のほうに向かって来る。そして、すれ違いざま、こう呟いたのだ。


「言っておくけど」


 声の高さも口振りも、さして変わったわけではない。

 声色が、纏う雰囲気が、直姫の知る“サトちゃん”のものではなかった、というだけだ。

 直姫は顔を上げて、通りすぎる横顔を目で追った。


「……サトちゃん?」

「私、オカマでもホモでもないから」

「え、?」


 その囁きは、直姫以外、誰の耳にも届かなかった。ただ直姫だけが、それを聞いたのだ。

 その意味を考える前に、里吉は直姫に後ろ姿を向けていた。

 そうしてそのまま、振り返らないままで、人波に消えて行ったのだった。

 いつの間にか隣に並んだ真琴が、浅く溜め息を吐く。


「なんか……、嵐が去ったみたいだね」

「うん……」

「直姫? どうしたの」

「うん? なんでもない」


 直姫がいつにも増してぼんやりと、里吉が去った方向を見つめているので、真琴はちらりとその顔を覗き込んだ。

 真琴がそばから離れたあとも、相変わらず立ち尽くす直姫だったが、不意にその後頭部に硬質な重みを感じて、視線だけで振り返る。


「……夏生先輩」

「なにアホみたいな顔してるの」

「してませんよ別に」


 頭にコーヒーの缶を乗せられたまま、斜め上からの声に答える。缶越しに乗った腕をふり払うように頭を振れば、重さはなくなった。

 あげる、と言われて、その缶を受け取る。夏生自らわざわざ自販機を探して全員の分を買って来るなんて、天地がひっくり返るほど珍しいことだ。それほどあの場にいづらかったのだろうか。


 ふたりで、話す話題なんかないのだけれど、そこに並んで立っていた。

 なんとなく、なんの気なしに、大きな窓から見える景色、ちょうど飛び立とうかという機体を視界に入れている。

 里吉があの飛行機に乗り込んだのはどうかは、さっぱりわからない。ここから見えるうちのどれかには乗っただろう。

 直姫は、コーヒーを三分の二ほども飲んでから、ようやく口を開いた。


「……サトちゃん、」

「ん?」

「ホモじゃないそうです」

「へえ」

「どういうことですかね?」

「さぁ」

「てゆうか、サトちゃん……キャラ違う」


 斜め後ろに立つ夏生からは、眉を顰めて考え込む直姫の、後頭部と旋毛しか見えない。難しそうな表情は、窓のガラスに写るだけだ。

 夏生は、里吉と交わした会話を思い出していた。

 昨日のことだ。放課後、まだ誰も来ない生徒会室に、里吉が訪ねて来たのは。

 彼も自分と同じ種類の人間だと、二週間前のあの日、同じ部屋に押し掛けて来た時から、夏生は気付いていた。もちろん女装癖の話などではなく、他人の目に映る自分を偽っている、ということだ。

 生徒会室に入った瞬間に、里吉の顔からは上品な微笑みが消えた。だが、今となってはあのつまらなそうな顔も、彼の本当の姿だったのかどうか。


『私、別にホモじゃないの。中身が女の子ってのもウソ。かわいい格好は好きだけど、正真正銘の男だし、女の子大好きだし……あなた以外は気付いてなかったみたいだけど』


 里吉はきっと、昨日自分に向かって言ったのと同じような言葉を、ついさっき直姫にも告げのだろう。ずいぶんと砕けた口調で。


『昔、……小さい頃ね。あなたのこと、女の子だと思ってた』

『……は?』


 それは単純明解で、夏生にとっては非常に不愉快な、真実だった。


 勘違いだったと気付いたのは、彼の父親の誕生パーティーに招かれた、三年前のあの日。

 昔、女の子同士で楽しそうに遊ぶ直姫と夏生を見て、自分も女だったならあの輪の中に入れるだろうに、と、幼心に嫉妬心を抱いていたというのだ。

 女の子だと思っていた夏生を好きだったのだから、恋愛対象はあくまで女性である、ということらしい。確かに、先日直姫と言い合いになっていた時も、そんな性癖はない、と口走っていたが。

 それならばなぜ、わざわざそんなふりまでして日本に来たのだろうか。その真相を知った時、すべては根本から覆されるのである。


『あなたを好きと言った方が、日本に来やすいと思ったの。私も、あの子と……おんなじだから。』


 おんなじ──とは。怪訝な顔をした夏生に、里吉は言った。


『わかるでしょ。“いない”ことになってんの、“さときち”は。趣味だけで女装(こんなカッコ)してるわけじゃないのよ』


 それに、直姫が自分のことをまったく覚えていないのも腹が立つ。

 おまけにその彼女は今、男として生活しているというではないか。自分の父ですら少女としての彼女を、覚えていなかったのだ。

 だが父の友人、紀村悠子に聞けば、一部の生徒は直姫の正体を知っているという。

 それならば、自分が女としての方が、こちらでは近付きやすいというもの。


 里吉の理屈は、夏生には到底理解できないものだった。それに、そういうことだとするなら、つまり。


『……ねぇ、それ、もしかして、』

『そうよ、私が好きだったのは』


 あなたじゃ、ない。


 ◇


 とんだ茶番劇に付き合わされたものだ。


 夏生を好きだと言って来日した少女は女装趣味の少年で、実は本当の初恋の相手は直姫で。

 狂言誘拐が夏生の気を引くためというのだって口実で、あれは単に、人の気も知らずに面白がって夏生とのお忍びデートを計画した直姫への、腹いせというか、なんというか。

 もっとも、幼心に抱いていた恋心はとっくに風化していたようだが、それでも頭にくるものは仕方がないのだそうだ。


 そんなの最初からはっきりせずにいた自分が悪いんじゃないの、という夏生の言葉にも、里吉はふてくされた表情を返しただけだった。

 人騒がせにもほどがある。あっけらかんと真相を告げる里吉に、夏生は腹が立つよりもむしろ、呆れ果てるしかなかったのだった。


「夏生先輩?」

「……なに」


 名前を呼ばれて、目の前にいる事の元凶(本人が知らなくてもそうにほかならない)を見た。

 低い位置にある頭。確か自分とは、15cm近い身長差があったはずだ。


「珍しいですね。先輩がぼーっとしてるなんて」

「うっさいよ、ちび」

「な、なんですか、いきなり」


 夏生の突然の悪態に、わずかに眉をひそめる。だがそれほど気にしていないのか、すぐに再び窓の外に目を移した。


「それにしても、サトちゃんまで猫被ってたとはなー……」


 そんなことにも気付かなかったのか。

 単に鈍いのではないだろう、こいつは。他人のことに興味がないのだ。


(……排他的なんだか、)


 いや──きっと、本当はそうでもない。

 良い意味で他人と距離を取る人間もいるが、彼女の場合は、良い意味で他人に無関心なのだ。いわゆる、来る者拒まず去る者追わず、というやつだ。

 自分はその、どちらでもない。


「あれですかね、類は友を呼ぶ。夏生先輩がそんなだから」


 悪い意味で排他的で、悪い意味で他人に関心などない。来る者には拒絶を向けるし、去る者には失望する。

 夏生は、あまり考えずに、答えた。


「……あんたもね。」


 ただ、そんな中にも捨て身で飛び込んで来る物好きも、ある程度はいるのだと、今は知っている。


「夏生ーぃ、帰るぞーぃ」

「直ちゃんもー、迷子になっちゃうにょろよー!」


 そう考えて彼は、人混みではた迷惑なほど自分たちを呼ぶ、物好きな金髪と変人たちを、一瞥した。

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