擬似的な彼女~留学生は男の娘~3
里吉がひたすらに奔放だったり直姫が人の話を聞いていないことを露呈したり、その後また全員でやった人生ゲームが実に混沌に満ちていたりした、結果。
翌日の紅は、より疲労困憊していた。
何日も厄介になっては悪いから自宅に帰ると言った恋宵の肩を掴んで、紅がなんとも悲しげな目を向けたので、またもう数泊することになったらしい。どうやら、一人では里吉の相手をしきれないから、ということのようだった。
だが、着替えを取りに家に帰った恋宵は、なにを思ったかアコースティックギターとキーボードを抱えて石蕗邸に戻ってきた。そして里吉の前で突然弾き語りゲリラライブなんて始めたものだから、昨晩の石蕗家の離れはちょっと、宴会でもやってるんですか、というような騒ぎだったそうだ。恋宵を引き留めたことが果たして紅にとって正解だったのか、彼女の様子を見ると、なんとも言えない。
そんな紅の気分転換のためか、黒塗りメルセデスでの送迎はなしになった、その日の朝。里吉は、いつにも増して不機嫌だった。
「なんですの、これは」
眉を吊り上げて苛々と言う里吉に、准乃介がゆるく笑う。
バス通学の彼もいつもならば悠綺高校前まで乗るのだが、石蕗邸より前のバス停で降りて、ちょうど彼女らが家を出る時刻に合わせて歩いてきたのだ。護衛の役目を果たすならば、一人でも人数が多いほうがいい、というつもりだったが、合流した時点で、それは杞憂だったと知った。
「あんな車で送迎なんて、いかにもVIPって感じで嫌だって、君も言ってたでしょー」
「言いましたわ、言いましたけど! それとこれとがどう違うっていうんです……!?」
「運転手のぶん、三人少ない……かな?」
「わたくしがそんなことを言っているとでも?」
怒りに声を震わせる里吉に、准乃介も苦笑いを返すしかない。
周囲を見たって、別に緑豊かな景色を眺めながら歩けるわけではない。なにしろ、里吉よりも頭一つ分はゆうに長身な准乃介よりも、さらに縦にも横にも大柄なスーツの男たちが、ぞろぞろと六人も彼らの周りを取り囲んでいるのだ。
大袈裟で物々しい、というよりも、なんというか。
「なんなんですのこれは! こんな……バカみたいなっ」
「バカは言い過ぎにょろよう」
「まあ、だいぶ異様……ちょっと近づきたくなかったもん俺ー。他人のふりができたらどんなにいいかと」
あはは、と笑う准乃介の毒も、やたらと鋭い目付きで辺りに気を配る彼らには、ちっとも効いていない。恋宵までもをげんなりとさせる強者たちなのだ、その真顔が崩れるなんて、もともと期待していなかったが。紅なんかはもう諦めの境地に至っているようで、なにも言わずに颯爽と先頭を歩いている。
その後ろで、里吉だけはいまだにぶつぶつと不満を漏らしていた。
「だいたい、わたくしはボディガードなんて頼んでませんのに……ちゃんと信用できる人たちなんでしょうね!?」
「理事長がつけてくれたんだって。なーんか怪しげだけど、大丈夫なはずだよ?」
「だからって……今時コメディ映画でも見ませんわ、こんなの」
確かに大袈裟すぎるとは思うし、胡散臭さも笑うしかないレベルだ。だが、マフィアと繋がりのあるライバル会社に狙われていると言っていたのは、里吉本人である。そこまで怒ることないんじゃ、と、准乃介は一人首を傾げた。
そんな、ただでさえ目を引く四人に加えごつい大男が六人も、という、やけに悪目立ちする集団が、悠綺高校の門を潜った。
それとほとんど時を同じくして、よく見知った車が、静かにロータリーに滑り込む。余計な音も振動も立てずに停車するとすぐに、初老の運転手が降りて、後部座席のドアを開け、恭しく頭を下げた。
よく磨かれた革靴が、地面に足を下ろす。気付けば周囲の生徒たちが、決して近付きはせず、だがその車をじっと見つめていた。
まるで大物芸能人や政治家のような登場の仕方をしたその人物は、一分の隙もない優雅な所作で、車を降りる。その瞬間、待ちわびたように黄色い歓声が飛んだ。
「東雲さま! おはようございます!」
「ごきげんよう東雲さま!」
よく聞けばそう言っているのが確かにわかるが、ほとんど悲鳴のようなそれは、よくアイドルのコンサートなんかで飛び交う類いのものである。
その中心で爽やかに美しい微笑みを浮かべて、東雲夏生は口を開いた。
「おはよう」
その瞬間、金切り声が土砂降りのように一帯を覆う。
誰が呼び出したのか、“悠綺の王子様”なんて呼び名もあるくらいだ。人前では絶対に裏を見せない、麗しく美しいその姿は、そんなネーミングセンスのない名前にさえ、ぴたりと似合っていた。
南校舎のアーチを潜ろうとする後ろ姿に、紅が声をかける。
「夏生、おはよう」
「あ、おはようございます。みなさん……お揃いで」
「おはにょろ~。朝からすっごいにゃあ」
黒スーツに険しい目付きといういかにもな男たちを引き連れているのが、自分の友人たちだと気付いて、さすがの夏生も一瞬視線がフリーズした。表情には少しの乱れもないが、「そっちもね」と目が言っている。
だがすぐに、柔らかい笑みと丁寧な物腰で、挨拶を寄越した。
「准乃介先輩、今日ちょっと遅めなんですね。歩きですか」
「途中からね」
准乃介たちからすればそんな振る舞いは今さら不気味としか思えないのだが、ここは生徒会室ではないのだ。明らかに異質な集団を前にしてもそのスタンスが崩れないあたりは、さすがと言える。
「夏生様っ、おはようございます!」
「あぁ、志都美さん。おはよう」
そんな夏生に、里吉は花のような笑顔を送った。さっきまでのあからさまに不機嫌な態度はどこへ行ったのだろうか。
言葉こそ誰に対しても丁寧だが、里吉がこんな笑顔を見せているのは、今のところ夏生に対してだけである。
「嫌ですわ、志都美さん、なんて。名前で呼んでくださればよろしいのに……」
里吉は頬を両手で覆って、照れたように小首を傾げながら言った。可愛らしい仕草ではあるが、中身は今年で十六歳になる男性である。顔には絶対に出さないものの夏生が全身全霊でドン引きしているのが、准乃介たちには空気と、さりげなく完璧に作られた微笑みで読み取れた。
それにしても、名前で呼んでくれ、と来るとは。否定する理由も見つからないし、素直にそうするにしても、なんと呼べばいいのか迷う。
一体どう返す、と固唾を呑んで見守っていた彼らは、直後夏生の口から出た言葉に、思わず目を剥いた。
「あぁ、そうだよね……サトちゃん」
里吉も本当は、言ってみただけだったのだろう。そうだよね、と言われた瞬間の意外そうな顔から、引きつった頬へと表情が変わる。
夏生はにっこりと作り笑顔を浮かべたまま、「じゃあ、またあとでね」と手を上げる。その背後では紅が呆れ、恋宵と准乃介は襲いかかる爆笑の波と、必死に戦っていた。
◇
「おはようございます、志都美さん」
「志都美さん、おはよう」
幾つもの声がざわめき合う教室に入った里吉に、クラスメイトたちが次々と声をかける。
「おはよう、みなさん。ごめんなさい、通してくださるかしら?」
人の波を避けて、彼女が真っ先に歩いてきたのは、ある二人の元だった。一番窓際、最後尾と、その前の席。辿り着いた里吉は、いかにも作ったような笑みを浮かべている。
「西林寺くん、佐野くん、おはようございます」
「あぁ……おはようサトキチくん」
「ちょっ、だめだよ直姫」
「あ、そーか。サトちゃんだ」
前の席の主はとろんと眠そうな目を里吉に向けて、ゆるりと声を出した。里吉が来た日と同じように、思考のほとんどが目覚めていない状態らしい。
そんな直姫に、里吉は低い声で言った。
「やっぱりあなたたちですの、私に変なあだ名を付けたのは……」
「え?」
「あっ」
俯いた里吉の顔を見れば、いつのまにか作り笑顔は消えている。上がった口角はひくりと引きつっているし、目尻は吊り上がって、今にも眉間に青筋の立ちそうな表情をしていた。それを見て顔を見合わせた直姫と真琴は、白々しいとは思いながらも、小さく笑ってみせた。
眉尻の下がった、いつもの“困り笑顔”を浮かべて、真琴が言う。
「し、志都美さん? どーしたの」
「夏生のせいだよ」
「わっ」
突然聞き慣れた声が登場して、体ごと黒板のほうを向いていた真琴は、驚いて振り向いた。
直姫は気付いていたようで、真琴の頭越しに、ぱちりと目を瞬かせて彼を見る。
「准乃介先輩、」
どうしてここに、と呟いた真琴に、准乃介は苦笑を見せた。
南校舎のアーチのところで東校舎へ向かう二年と別れた後、そのまま北校舎へ直進せず、東校舎へ入る里吉の後ろについて来たらしい。正確に言えば、引き摺って連れて来られた、というほうが正しいのだが。隣には、呆れたように溜め息を吐く紅もいる。
他の学年が一階を通りすぎたり、特定の部屋に用事があって出入りすることはあっても、二階より上にある教室まで来ることというのは、ほとんどない。
そのうえそれが、全校生徒の憧れの対象である三年生の二人なんて、生徒たちにしてみればちょっとした事件だ。にわかに辺りがどよめいていたのだが、直姫も真琴も、全く気づいていなかった。
どこか眩しがるようにも感じられるクラスメイトたちの視線の先、つまり自分の目の前にいる先輩二人を一瞥して、直姫は溜め息を吐いた。そして、会話を再開させる。
「……で、夏生先輩のせいって?」
「名前で呼んでくれとあいつに言ったら、それはもういい笑顔で、『サトちゃん』と……」
「え、それは……面白いな。ムービー撮ってないんですか」
「撮るわけないだろう。なんだその夏生みたいな思考は」
直姫の隠れサド発言に突っ込む紅、を気にせず、真琴は言う。
「『りよちゃん』って呼んでほしいって言えばいいじゃないですか。周りに人がいたら断れないんじゃ……」
「言いましたわ。でも……、」
彼の言葉を遮るように、里吉は言う。だが憮然とした表情で口を閉ざしてしまったので、准乃介が手を伸ばした。
長い指が、隣にいた紅の顎を掬う。指先が、擽るようにするりと動いた。きゅっと肩を竦めた彼女の耳元に、顔を寄せる。
そして、言った。
「なんで? そっちの方がかわいい」
囁くような声色と、目を伏せた微笑み。ゆるりと視線を合わせて、すぐに逸らす。
「……だってさ」と、笑いながら准乃介が言って、周囲で黄色い悲鳴が上がる中、すっと離れる――前に、紅が動いていた。
「いたっ、いたいいたいいたいいたい」
「こっ、紅先輩!? 落ち着いてください!」
長い腕を背中に捻り上げられた准乃介が、涙目で「ギブギブ! ごめんって!」と叫んでいる。だがそう言いながらも爆笑しているので、紅はますます細腕に力を込めるのだ。真琴が慌てて止めに入るが、准乃介がなんとなく楽しそうなので、直姫はただ黙ってそれを見ていた。
やっと准乃介を解放した紅が、真っ赤な顔でぎろりと睨み上げて、怒鳴りつける。
「私はもう行くからな! お前が変なあだ名をつけるから悪いんだっ」
「や、つけたの恋宵だし」
肩を擦りながら弛んだ口許で言うが、紅は無視してさっさと教室を出て行ってしまった。直姫は、呆れた声で言う。
「いちゃつきに来たんですか?」
「んなワケないでしょー。サトちゃんが」
「その名前で呼ばないでくださいます!?」
「失礼しました。……りよが」
えっ、呼び捨てなんですね、と真琴が呟くが、准乃介は気にせず続ける。また里吉の「気安く呼ぶのもやめなさい!」という怒声が飛ぶかと思ったが、変なあだ名で呼ばれるよりはましなようで、膨れっ面ながらも口を挟むことはなかった。
「金輪際その名前で呼ぶなって」
「それだけのために、准乃介先輩まで?」
「いやあ、ふざけて呼んだら怒る怒る」
本名があまり好きではないのか、わざわざ偽名まで名乗っているのだ。あえて本名をもじったあだ名で呼んでは、怒るのも当然だろう。
里吉に怒られている理由といい、肩を痛めたことといい、だいたいのことが准乃介の自業自得に他ならないような気がする。
「とにかく! 夏生様があんなふうに言ってくださったんですから、今後一切、彼以外がそう呼ぶことを禁じますわ!」
彼だけの特別な呼び方、なんて少女趣味なことをしたいのか、本当は嫌だけど彼にああ言われては断れないからなのか、定かではない。
どちらにせよ、直姫にはあまり興味のないことだった。
◇
昼休み、クラスメイトに囲まれて話す里吉に話しかけながら、皆この人が男だって知らないんだよなぁ、なんてことを直姫は考えていた。
「サトちゃん、昼は食堂?」
「だから、その呼び方はやめてくれます!?」
「ええ……呼びやすいのに……かわいーし……」
「それは夏生様だけの特別な呼び方にすると決めましたのっ」
直姫が『サトちゃん』と話しかけるたびに、里吉はそんな調子で眉を吊り上げている。そのあだ名は別に夏生がかわいらしいからと呼びはじめたわけではなく、恋宵の実に適当な思い付きから誕生した、という真実は少しも知らないようだ。里吉が怒るのを面白がって、直姫がわざとその名前で呼んでいるということは、気付いているだろうか。
しかし、そんなさりげなくサド思考の直姫に、自業自得とも言える思いがけない災いが起きた。
「本当にあなた、いい加減にしてくださる!? 気分を害しましたわ、なにかお詫びして!」
一日中、ことあるごとに『サトちゃん』と呼び続けた結果が、これだ。
直姫は眉をしかめた。怒らせたのは自分なのだから、逆ギレにも近い。
つんと顎を上げて見せる里吉に、なにをしたらいいの、と聞いてみれば。
「私、観光をしてみたいんですの。どこでもいいわ、連れて行ってくださいな」
「は……なに言ってんの、マフィアに狙われてるとか言ってるくせにそんな」
「いいんですの? あなたの秘密、バラしますわよ?」
ぐっと耳元に寄って小声で囁く声に、直姫はほんのわずか、目を見開いた。ぱっと離れた横顔を睨み付ける。
「きったな、」
「取り引きに汚ないもなにもございませんわ」
ふんと勝ち誇った笑みを浮かべる里吉を、直姫は憮然として見やった。
しかし、ふとあることを思い付いて、隣りにいる真琴に目で合図を送る。それを受けた真琴もくるりと背中を向け、里吉には聞こえないように、コソコソと話しはじめた。そうして再び振り返った彼らの、特に直姫の妙な微笑みに、里吉は怪訝な表情を浮かべた。
「……なんですの? 二人して」
「サトちゃんさ、夏生先輩とデートしたくない?」
「え? それは……も、もちろんですわ」
「でも怖いボディガードの人たちがぞろぞろ付いてきちゃ、邪魔でしょうがないよね」
「ええ、まあ……」
「かといって二人だけで外出なんて危ないこと、させてくれるわけないし」
「そ、そうですわね……?」
「それで考えたんだけど」
にやりと目を細めて笑った直姫と真琴は、面白い悪戯でも思い付いた、子供のような顔をしていた。
◇
マナーモードにした携帯電話が、わりと耳障りな音と振動で、着信を知らせる。
じゃらじゃら付いたストラップの主張が激しすぎて、ストラップが本体で携帯電話が付属品なのか、というような、いかにも女子高生らしいものだ。開いた画面には、『新着メール1件』の文字。
「……? まこちゃんからにょろ」
そこに届いたメールの内容に、恋宵は素早く目を通す。そして、それを読み終えたその目許は、なにか新しい玩具を見つけた子供のように、楽しそうに緩んでいた。
「夏生には秘密、ね……りょーかいりょーかい」
素早く返信画面に切り換えると、短い返事とそれよりも長い顔文字を打って、送信ボタンを押す。
「よし、と。放課後が楽しみにょろねぇ……」
恋宵がしゃら、とストラップを揺らしたのと時を同じくして、教室の別の隅では聖もまた、送信完了の画面を見て、目許だけで微かに笑っていた。
◇
そして、夕方。
ここ数日ですっかり恒例になってしまった、放課後に集まる石蕗邸の離れ。彼らは例の和室で、生徒会活動とは名ばかりの、ただ居心地の良いお屋敷でだらだら過ごす集会を開いていた。
もちろん付近には、黒スーツに強面の男が六人、待機中だ。和室の隅に二人、部屋の外、襖の前に一人、そして庭を三人がうろついている。そのいかにもボディーガードな見た目や、一人一人の体積がいちいち大きいこと、一部屋に合わせて十人という人口密度などのせいで、だだっ広いはずの部屋なのに、いやに圧迫感に包まれていた。
襖に視線を固定したり部屋の外に耳を済ませていたりする彼らを見、次いで夏生をちらりと横目で一瞥して、聖は口を開く。
「おら、次なっちゃん」
「ちょっと、喋んないで聖、吹き出すでしょ」
「え? なんで喋っただけで笑われんの俺?」
「死ぬほど真顔でなにゆってんのにゃ」
彼らが囲むテーブルには、所々に穴の開いた、安定感のない積み木の塔が立っていた。またしても、大人数で遊ぶにはもってこいの、至ってポピュラーなゲームである。ちなみにこれについても、例の人生ゲームの五人組が特注して作ったものがあったらしいが、貸し出しの申し出は聖が丁重に断ったようだ。
積み木の塔はずいぶん高くなって、どこも隙間だらけになり、もういつ崩れてもおかしくはない状態になっていた。崩した人には罰ゲームで、その前に積んだ人の言う事を一回聞かなければいけない、という条件がついている。
そして賑やかで、かすかに緊迫した雰囲気の中、夏生が一つの積み木に手をかけたときだった。
すぱぁ、ん――という、あまりに良い音を立てて襖が勢いよく開き、停滞していた空間に、新しい空気が流れ込んだ。
つむじ風のような威勢の次は、いっそ暴力的なまでの活気と元気。
「失礼いたしやッす! お嬢さん、ただいま帰りやした!」
大きな声で空気を震わせながら現れたのは、Tシャツとサブリナパンツという軽装にシンプルなエプロンをした、いやに快活な女性だった。
里吉は、ここ数日でもう見慣れたその人に、声をかける。
「……あら、榑松さん」
「お前な……襖が外れるから少し力を加減しろと、何度も言ってるだろう?」
「すいやせん、次から気を付けやす! あ、皆さんお久し振りッす、昨日は顔出せなくて、どうもすいやせん」
活発そうなショートヘアの彼女は、榑松(くれまつ)、石蕗家の使用人の一人だ。主に紅付きで身の回りの世話を担っているのだが、紅が極力人の手を借りずに自分でなんでもやってしまうほうなので、もっぱら話し相手、というところである。
ちなみにこの離れの和室に里吉と恋宵が泊まるにあたって、紅と一緒に同じ部屋に泊まり込んでいるのが、この榑松だ。
紅が崩していた足を正して、手のひらを上に向けて示す。
「直姫と真琴は初対面か……使用人の榑松だ。榑松、こちら、生徒会の後輩の」
「あ、佐野真琴です」
「西林寺直姫です」
「お初にお目にかかりやす、ゆっくりしてっておくんなせ!」
忙しかったのか、「ただいまお茶のおかわりお持ちしやすね!」と告げると、すぐに走り去ってしまった。嵐のように来たかと思えば、去る時もまるで嵐のようだ。
彼女の勢いに唖然としていた直姫は、ふとテーブルを見た。そこにあったのは、積み木の塔、だったもの。
「あ」
「わーい夏生の負けにゃー!」
「俺の言うこと一個聞くんだからなー!」
「はぁ? あの人のせいじゃん」
眉をわずかに動かして、榑松が去った襖を指差す夏生。彼にも意外に子供っぽいところがあるようで、自分の負け方が気に食わないらしかった。
「くれちゃんはそれがお仕事なのー。人のせいにしちゃ駄目にょろよ!」
「どんな仕事なの。破壊?」
「だいじょぶだいじょぶ、大したことじゃねーから、な!」
やたらと大袈裟な笑顔の聖に、夏生は訝しげな表情を向ける。詳しいことはあとで、と、歯を見せて口許だけで笑った聖が、するりと目を逸らした、ちょうどそのときだった。
「私、ちょっと失礼致しますわ」
図ったようなタイミングで、里吉が立ち上がる。咄嗟に動こうとしたスーツの男たちに眉を潜めて、非難がましく言った。
「レディーのプライベートなことですの。少しは気を使って下さらない?」
夏生がぼそりと呟いた「レディーじゃないじゃん」という言葉も一切すっぱりと無視した里吉は、それなら、と言って、恋宵に向き直る。
「どうしても誰かついて来るというのなら、恋宵さん、お願いできるかしら」
「いいにょろよー?」
里吉の物言いから推測するに、行き先はお手洗いだろうに、二つ返事で付いて行くというのもどうなのだろう。
もっとも、ボディーガードの彼らはこの少女を護衛しろと言われただけで、里吉の素性も本当は少女ではないことも、全く知らされていないらしい。そのため、夏生の小さなつっこみにも、二人が連れ立って出て行ったあとの腑に落ちない空気にも、不思議そうな顔をしていた。
そして、数分後。
部屋に戻ってきたのは、里吉一人だった。直方体の積み木を積み直す聖の背後を、首を傾げて髪を触りながら、なにも言わずに通りすぎる。
礼儀だけは丁寧すぎるほどしっかりしている里吉が、なんの言葉もなく、無言で戻ってきたこと。恋宵がいないのに、なにより先にその説明がなかったこと。背筋をしゃんと伸ばすいつもの歩き方ではなく、妙に肩や首をふらふらと揺らしていたこと。後から思えばその時、誰も指摘せずつっこみも入れなかったことに、違和感を抱くべきだったのだ。
「恋宵はどうしたんだ?」
一人だけで戻ってきた里吉に、紅が尋ねる。ふっと顔を上げて、口を開く前に、准乃介が口を挟んできた。
「お菓子でも持ってくんじゃないー? 夏生、手伝いに行ってあげたら」
「えー……はい」
やる気のない声をあげつつも、夏生は渋々立ち上がる。すると、隣に座っていた聖も、胡座の姿勢から膝を立てた。
「あ、俺も行くよ」
古そうな板張りの渡り廊下を進んで、母屋へと入った時だった。
聖が、ガラス張りの窓からちらりと庭を見てから、夏生を振り返る。そして、おもむろに左手の障子に手をかけた。和室の中に向かって、小声で言う。
「おっけーおっけー、もういいよ」
「……聖? なに……」
友人の奇行に、夏生は眉を潜めた。
だが、彼の呼び掛けのあと、軽い足音と共に姿を現したのは、さっき離れの部屋に戻ったはずの、里吉だったのだ。
「ふふ、驚きました?」
「は……?」
「ドッキリ第一弾、せーいこーう! さっき部屋に帰って来たのは、サトちゃんのふりした恋宵ちゃんでしたー!」
「ふり? って、なんで」
「さあさ、なっちゃん? さっきの約束覚えてるよな? 俺の言うこと、なんでも一つ聞くって」
「……お前、まさか」
はた、と。夏生は、聖を睨みつける。
ずっとそわそわしていて、どこか様子がおかしい、なにか企んでいるとは思っていた。最初から、夏生に対して仕組まれたことだったのだ。榑松が乱入する勢いで積み木の塔が倒れるところまで計算づくで、ちょうど夏生の順番で入ってくる手筈になっていた。
ようやくそう気付くが、時すでに遅し、というやつだ。
「今からサトちゃんと二人だけでデートしてきてくださーい」
「はぁ? 冗談でしょ。あんなボディーガードまで付けられてるやつがなに言ってんの」
「冗談と書いてマジと読む! お前に拒否権はなーい!」
「なんで俺が」
「聞きたい?」
にんまり、という表現がこれ以上ないほど似合う笑い方をした聖に、夏生は大きく溜め息を吐いた。どんな答えが返ってくるか、あまりに容易に想像がついたのだ。
「面白いから」
きっと間髪入れずに、そう言うに違いない。夏生が聖の立場なら、間違いなくそう言う。
石蕗邸の門を潜ったところに、タクシーが止まっていた。聖は夏生をそれに押し込むと、運転手に行き先を告げ、「いってらっしゃーい」と手を振った。夏生は、小さく舌打ちをする。
かくして、帽子と眼鏡なんてベタな変装、上機嫌の里吉と、極めてご機嫌斜めな仏頂面の夏生の、お忍びデート大作戦は決行されたのだった。




