一話03 フェンリルに手を出すな
「……ナイパチーノ、ですか。」
冒険者ギルドの酒場。護衛狩り狩りの報告を受けていた受付嬢が、サーラの口にした名前を聞くなり露骨に顔を顰めた。
「知ってんのか?」
「ええ。王都貴族のご子息です。悪い意味で有名な生体標本蒐集家でして……。」
「生体標本?」
「噂では、珍しい魔獣や希少動物、亜人まで生きたまま捕獲して、収集するんです。」
「うっわ、気色悪ぃ。」
「しかも収集に使うお金は、お父上が領民から徴収した税金です。それを冒険者や傭兵にばら撒いて、何度も魔の森へ送り込んでいるんですよ。ほかにも黒い噂は山ほどありますが、相手が相手ですから……。」
「なるほどねえ。叩けば埃どころか何が飛び出すか分かったもんじゃねえな。」
サーラは椅子に深く腰掛け、腕を組んだ。思い出すのは血塗れの小さなフェンリル。傷口に食い込んでいた縄と、あのデカパンツの『私のもの』という言葉。
「狙いは最初から魔の森のフェンリルだったってわけか。……許せねえな。」
「ただ、そのフェンリルについて、少々厄介なことになっていまして……。」
受付嬢が声を潜めた。
「ここ数日、街の郊外に若いフェンリルが夜な夜な現れるんです。馬車を襲ったり、建物を壊したり、住民を威嚇したり。幸い今のところ死者は出ていませんが、とうとう本日、ギルドで緊急討伐が決議されました。」
「……何だと?」
フェンリル。その名を知らぬ冒険者など、まずいない。
体長三メートルを超える白銀の巨狼。月光を浴びた毛並みは息を呑むほど美しいが、間近で拝もうなどと考える馬鹿は滅多にいない。一振りの爪牙で肉を切り刻み、吐き出す炎で一帯を焼き尽くす。空を裂いて落ちる黒雷からは、逃げることすら許されない。並の魔獣が束になろうと相手にならず、その強大無比な魔力と残虐非道な気性から、魔獣の頂点に君臨する王と恐れられていた。
それが人里へ下りてきたのである。
酒場の奥では既に討伐隊の募集が始まっていた。剣の手入れをする者、魔法薬を買い込む者、報酬の取り分で揉める者。もっとも、声の大きさに反して、誰も彼も顔色はよろしくない。
「……仔を探してんだろうな。」
サーラが呟くと、受付嬢も困ったように頷いた。
「恐らくは。ですが、このままでは街に被害が……。」
ガタンッ!
突然ジオが立ち上がった。
「おい、てめぇら。」
酒場の冒険者たちが振り返る。
「フェンリルには手ぇ出すな。」
「……ああ?」
「聞こえねえのか?あの狼に指一本触れてみろ。俺がてめぇら全員ぶっ飛ばしてやる。」
「何だとコラァ!?」
「こっちは街を守るために動いてんだぞ!」
「知るかボケ!仔を攫われて探し回ってんだろうが!邪魔すんじゃねえ!」
「だからって人間を襲っていいわけねえだろ!」
「んなもん狼に直接言えや!!」
「言えるか馬鹿野郎!!」
「じゃあ黙ってろクソッタレ!!」
「……ったくよ、やれやれだぜ。」
サーラが額を押さえた。どうしてこの男は毎度毎度、わざわざ争いごとを作る方向へ話を持っていくのか。
「おう、表出ろや!まとめて相手してやんよ!」
「上等だこの野郎!」
「ジオ、俺も混ぜろよ。」
隣でサイコウが嬉しそうに腕を回し始める。ハシバは一人、黙々と肉を食っていた。
「……お前ら、頼むから一回くらい普通に話し合ってくれ。」
無論、誰も聞いていない。
その時だった。
ドッゴォォォン!!
ギルドの大扉が内側へ吹き飛び、木片と蝶番が酒場を横断した。
「うおっ!?」
「な、何だ!?」
舞い上がる粉塵。倒れる卓。割れた酒瓶の音。
そして、入口を塞ぐ巨大な白銀の影。
「…………。」
誰かが息を呑んだ。
三メートルを超える巨躯。美しい銀毛の下には凄まじい筋肉が隆起し、床板を踏みしめる四肢の先には、剣のような爪が並んでいる。
若いフェンリルだった。
ただし、銀毛の美しさなど、今は誰の目にも入らない。
血走った真っ赤な双眸が、酒場の人間たちを無表情に見下ろしていた。
怒りも憎悪も読み取れない。牙を剥いて威嚇することすらない。ただそこに立ち、人間を見ている。
「……ひっ。」
討伐隊に名乗りを上げていた冒険者が、腰を抜かした。
誰も剣を抜けない。魔法使いは詠唱を忘れ、受付嬢はカウンターの内側で硬直した。たった今まで威勢よく吠えていた男たちも、口を半開きにしたまま動かない。
逃げようにも足が動かず、戦おうにも腕が上がらない。
魔獣の王と出会ってしまった。
その事実だけで、酒場は墓場のように静まり返っていた。
フェンリルはゆっくりと鼻を動かし、やがてサーラへ視線を向けた。
彼の鎧に残る、赤子の血の匂いだ。




