一話02 3年前の安全ブーツ
「……んあ?」
馬車の荷台から何やら聞こえた気がして、サーラは首を傾げた。
微かに血の匂いもする。
「おい、ちょっと見せてもらうぜ。」
「ひぃっ!寄るな!寄るなと言っておるだろう!」
サーラが馬車に近づくと、ナイパチーノは鼻に押し当てたハンカチをさらに強く押しつけ、まるで疫病患者でも相手にするかのように後ずさった。
「お前に寄ってんじゃねえよ。自意識過剰か。」
「なっ!何という口の利き方だ!貴様、私を誰だと思って……おい!勝手に荷物を漁るな!」
「はいはい、ちょいと失礼。」
積み上げられた木箱の奥から汚れた布を引っ張り出すと、その下に小さな鉄格子の檻が現れた。
「……おいおい、マジかよ。」
中には銀白色の毛をした狼の仔が一匹。まだ目もろくに開いていない赤子である。細い前脚には縄が食い込み、腹や背中には幾つもの傷。時折ひゅうひゅうと苦しそうな息を漏らしていた。
しかもただの狼ではない。
「……フェンリルじゃねえか。」
サーラは檻の留め金を外し、赤子をそっと抱き上げた。仔は弱々しく鼻を鳴らし、サーラの腕に小さな顔を埋めた。
「き、貴様ァァ!!何をしておる!!」
ナイパチーノが顔を真っ赤にして叫んだ。
「勝手に私のものに触るな!この盗人め!今すぐ返せ!」
「……もの?」
サーラは赤子から目を離さずに聞き返した。
「当然だ!私が保護してやったのだぞ!これは立派な善行である!」
「へえ。」
サーラは仔の前脚に巻きついた縄を指で緩めた。食い込んだ部分は赤く腫れ、腹の傷には何か硬いもので擦ったような痕が残っている。
「ところでよ、この傷はどう見ても――」
ゴッッッッ!!
「…………。」
突如、サーラの側頭部へ凄まじい衝撃が走った。
頭蓋骨が横へずれたかと思うほどの一撃。首が不自然な角度に曲がり、視界がぐるんと回転する中、サーラの脳裏には三年前の光景が鮮明に蘇っていた。
あれはジオに付き合わされて武具屋へ行った日のこと。
『おいサーラ!見ろよこの安全ブーツ!鉛入りだとよ!』
『……何だそりゃ。クソ重てぇじゃねえか。』
『馬鹿野郎!蹴りの攻撃力アップ!足の防御力アップ!その上履いて歩くだけで筋力増強だぞ!?一足三鳥じゃねえか!ぎゃはははは!!』
そうか、あれからもう三年になるのか。
……三年!?
「――ッッッ!!」
ここまで僅か零コンマ一秒。
サーラの側頭部に直撃した物体。それは三年前からずっと、ジオの足を鍛え続けてきた鉛入り安全ブーツであった。
「ふんぐぼぉッ!?」
無論痛いのだが、それどころではない。
臭い。
何だこれは。
鼻腔から直接脳を殴られている。
「お……おごごごご……!」
サーラは赤子を抱えたまま膝をつき、口から妙な音を漏らした。おまけに鼻の奥へこびりついた三年熟成の何かが、呼吸をするたびに新鮮な絶望を運んでくる。
その頃、少し離れた街道では。
「てめぇ今蹴ったろうが!!」
「蹴ったよ!何だよ!」
どうやらサイコウの蹴りでジオの安全ブーツがすっぽ抜けたらしいが、当人たちは既に次の殴り合いに移っており、そんなことは全く覚えていない。
「今だ!取り返せ!早くしろ!」
ナイパチーノの命令で護衛の冒険者が駆け寄り、動けないサーラの腕からフェンリルの赤子を奪い取った。
「……あ、おい……てめ……。」
「ふん!冒険者風情が!身の程を知るがいい!二度と私の前に姿を見せるな!」
ナイパチーノは赤子を檻に押し込み、冒険者たちを馬車へ乗せると、御者に怒鳴って一目散に逃走した。
「ハシバ!追うぞ!」
サーラはふらつきながら駆け出し、ハシバがその後に続く。
結局、魔の森の入り組んだ街道で馬車を見失った。
「……ったくよ。」
サーラが振り返ると、ジオが片足裸足で立っていた。
「……ジオ。」
「ああ?俺じゃねえ。サイコウが蹴った。」
「お前のブーツだろうが!!」
なお、ナイパチーノへの怒りに加え、三年熟成の猛烈な臭気を浴びせられたサーラ。まずは元凶であるジオの後頭部を鷲掴みにすると、件の安全ブーツを鼻先へ問答無用で押しつけた。
「んぐッ!?おまっ、何しやが……ぐぼぼぼぼッ!!」
あまりの臭気に、ジオの両目がスロットのリールよろしく縦回転。白目と黒目を忙しなく入れ替えた末、ガクンと膝から崩れ落ちた。
「……ったく、ジオも災難だったな。」
隣で他人事のように眺めていたサイコウだったが、無論こちらも同罪である。
「お前もだよ。」
「えっ、俺も!?ちょっ、待っ――んごふッ!!」
本日二度目の強制テイスティング。サイコウもあえなく撃沈し、二人仲良く街道に転がることとなった。
ちなみにハシバは最初から風上に陣取り、最後まで決して近づいて来なかった。




