二話07 真理はフアレス
暗い。静か。何もない。
そのはずなのに、仄かに珈琲の香りだけが漂っている。
「……フアレス、所用ができた。そっちはそっちで勝手にやってくれ」
目の前に浮かぶ魔導通信の球体から、男の声が響いた。
「カシミールさん、少々待ってください。こちらもですね――」
ブツッ。
切れた。
最後に気泡のような光が一つ浮かび、そのまま魔導球は沈黙。
「……おや。」
黒い法衣を纏った男は、暫く無言で球体を眺めていた。
華奢な身体に少々猫背。顔には仮面。
その下から覗く口元だけが、薄く笑っている。
「いつもながら投げっぱなしですね。……結構厄介なことになっているんですよ?」
返事はない。
当然である。
フアレスは掌で遊ばせていた小さな匙を、カチャリとカップへ戻した。
「まったく、どうしたものか。」
ずず…。
珈琲を一口。
「……うん、美味しい。」
誰もいない。
ぽと。
ぽと。
ぽと。
何処かで水の落ちる音がする。
仄暗い洞の奥。
岩肌の隙間から赤い光が滲み、灰と焦げた臭いが辺りに籠っていた。
フアレスはもう一口珈琲を飲む。
「まあいいでしょう。あれはよくできた“囮”ですから。」
こと。
カップを置く。
「業が深いほど、動きやすくなるというもの。」
ズズズズ……。
足元が僅かに揺れた。
岩壁の亀裂から熱気が吹き出し、積もっていた灰がさらさらと落ちる。
フアレスは気にした様子もない。
傍らの魔導書を手に取り、一枚めくった。
ぱらり。
また一枚。
ぱらり。
細い指先が文字を追う。
「……なるほど。」
ズズン…。
今度は少し大きい。
それでもフアレスは本から目を離さなかった。
「空気が乾燥しているせいですかね。」
すん、と鼻を鳴らす。
「濃厚で香り高い。せっかくの珈琲なのに、皆さんと味わえないなんて、残念です。」
口元が僅かに吊り上がった。
とある街のギルド。
ざわざわと冒険者たちが出入りする掲示板の端。
風が吹くたび、一枚の古びた紙がぱたぱたと揺れていた。
誰も見ない。
紙は黄ばみ、端は破れ、文字も所々掠れている。
それでも辛うじて読めた。
『賞金首 フアレス=アウギュスタ=オデロット』
『通称:真理のフアレス』
『罪状:国家転覆罪』
そして一番下。
『DEAD or ALIVE 50000000ゴールド』
二十年以上前の手配書。
今では誰一人立ち止まることもない。
ぱた。
ぱたぱた。
古びた紙切れだけが、今日も風に揺れていた。




