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第三十二話 最後の花

最初に変化へ気付いたのは、ひなだった。

 風だった。

 ずっと世界を満たしていた花の囁きが、ふっと遠ざかる。

 苦しみも。

 悲しみも。

 寂しさも。

 まるで長い夢から覚めていくように。


「……あ」


 声が漏れた。

 胸の奥で脈打つ光が、花の根を伝って広がっている。

 世界中へ。

 どこまでも。

 どこまでも。

 そして。

 花が光になった。

 一輪。

 また一輪。

 白い花弁がほどけるように崩れ、その中から淡い光が立ち上る。

 人の形をしていた。

 老人。

 子供。

 女。

 男。

 花となっていた人々だった。


『ありがとう』


 誰かが言った。


『ありがとう』


 また誰かが言う。

 それは感謝だった。

 解放された者たちの声。

 ひなの目から涙が零れる。

 何も返せなかった。

 ただ見上げることしかできなかった。

 けれど光たちは笑っていた。

 穏やかに。

 安らかに。

 帰る場所を見つけた人の顔で。

 その光景を見ながら、春人は静かに呟いた。


「……終わるんだな」


 ひなは振り向く。

 春人は空を見上げていた。

 何百年も旅を続けた男。

 何百年も終われなかった男。

 その横顔は、どこか拍子抜けするほど穏やかだった。


「春人」


「ああ」


 返事は短い。

 けれど声が優しい。


「俺な」


 少しだけ笑う。


「終わったら、何を言おうか考えてたんだ」


 ひなは黙って聞いた。


「陽菜に会ったら謝ろうとか」


「世界を元に戻したら何しようとか」


 春人は肩を竦める。


「でも実際その時になると、何も出てこねぇな」


 その言葉に、ひなは思わず泣き笑いを浮かべた。


「なにそれ」


「俺もそう思う」


 春人は笑う。

 本当に。

 本当に久しぶりに。

 心から笑った。

 その時だった。


『おとうさん』


 声が響く。

 春人の身体が止まった。

 巨大な白い花の前。

 そこに陽菜が立っていた。

 七歳のまま。

 あの日のまま。

 春人は動けない。

 何百年も探し続けた娘が目の前にいるのに。

 近づくことすらできない。

 陽菜は笑った。

 写真の中と同じ笑顔で。


『迎えに来たよ』


 春人の喉が震える。


「……陽菜」


 それしか言えなかった。

 陽菜が手を伸ばす。

 小さな手だった。

 春人は震える指でその手を取る。

 触れた瞬間。

 光が弾けた。

 世界中の花が一斉に揺れる。

 春人の身体から青黒い花弁が舞った。


「やっと……」


 春人が笑う。

 涙を流しながら。


「やっと会えたな」


『うん』


「待たせた」


『ううん』


 陽菜は首を振る。


『待っててくれてありがとう』


 春人の瞳から涙が溢れた。

 何百年も止まっていた時間が、そこでようやく動き出した。

 そして終わる。


『帰ろう』


 陽菜が言う。

 春人は頷いた。

 迷いなく。


「ああ」


 親子は手を繋ぐ。

 その身体が光に変わっていく。

 ひなは思わず叫んだ。


「春人!」


 春人が振り返る。

 最後に。

 本当に最後に。

 優しく笑った。


「ひな」


 風が吹く。

 青黒い花弁が舞う。


「ありがとう」


 その言葉を残して。

 春人と陽菜は光になった。

 二つの光は寄り添うように空へ昇っていく。

 離れないように。

 もう二度と離れないように。

 ひなは泣きながら見上げた。

 空の向こうへ消えていく二つの光を。

 そして気付く。

 世界中の花は消えているのに。

 自分の胸の奥だけが、まだ脈打っていることに。

 どくん。

 どくん。

 どくん。

 白い光が静かに広がる。

 まるで、これから咲く花を待つように。

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