第二十七話:陽菜の声
春人の指先が、白い花へ触れる。
その瞬間だった。ぶわり、と花の海全体が揺れた。
まるで、吹雪だった。
「——っ!」
眩しいくて、暖かい。どこか懐かしい、花の香りが世界を満たしていく。
『おとうさん』
もう一度。
『おとうさん』
少女の声が響いた。今度ははっきりと。
春人の肩が震える。
「……陽菜」
掠れた声だった。
何百年も呼び続けた名前。
何百年も帰ってこなかった名前。
白い花が静かに揺れる。
『おとうさん』
「陽菜……!」
春人が花へ手を伸ばす。けれど、届かない。
あと少しなのに。
触れられない。
花はそこにあるのに。
娘はそこにいるのに。
その距離だけが埋まらない。
ひなは初めて見た。
春人がなく姿を。
涙が一滴、頬を伝う。
春人自身も気づいていない。
『泣かないで』
優しい声で。子供の声で春人に言う。
けれど、不思議なほど穏やかな声だった。
春人は唇を嚙む。
「ごめん……」
その一言だった。
「ごめんな……陽菜」
花の海が揺れる。
春人の声は震えていた。
「守れなかった……。助けられなかった……。約束も……守れなかった……」
ひなは黙って聞いていた。
ずっと、胸の奥に抱えていた言葉なのだと分かった。
何百年も。
誰にも言えなかった言葉。
「遊園地も海も花火も全部……」
春人は笑った。
泣きそうな顔で。
「全部連れていってやるつもりだったんだけどな……」
白い花が揺れる。
かぜが吹く。そして。
『おとうさん』
陽菜の声が、静かに響いた。
『ありがとう……』
春人の息が止まる。
『わたしずっと、しあわせだったよ』
陽菜の胸が苦しくなる。
花の声が聞こえるから分かった。
噓じゃない。本心だ。
本当にそう思っている。
陽菜は春人を恨んでなかった。
責めてもいない。
『だから』
白い光が強くなる。
『もう、自分を責めないで……』
春人の瞳から涙がこぼれ落ちていく。
何百年も止まっていた時間が、少しだけ動き出した。
しかし——その時だった。
どくん。巨大な鼓動。
さっきより強い。
花の中心が赤く脈打つ。
どくん。どくん。どくん。
ひなの顔から血の気が引いていく。
「……なに?」
花が揺れている。いや、世界が揺れていた。
地面から巨大な何かが脈打っている。
春人も気づいた。顔色がみるみる変わる。
「まずい……」
低い声。
「春人……?」
「陽菜が起きたんじゃない」
ひなの背筋が凍る。
春人は白い花を見上げる。
その顔は青ざめていた。
「根だ」
「え?」
「世界中へ伸びた根が動き始めてる」
どくん。どくん。どくん。
鼓動が強くなる。
遠くの花々が一斉に揺れた。
まるで呼応するように。
そしてひなの耳へ、無数の声が流れ込んできた。
『さみしい』
『かえりたい』
『たすけて』
『いたい』
『おわりたい』
『いきたい』
頭が割れそうになる。
「っ……!」
ひなが膝をつく。
あまりにも多い。世界の花の声だ。
春人が咄嗟に支える。
「ひな!」
その時白い花の中心から、陽菜の声が響いた。
今まで一番はっきりと。
『おとうさん、もう時間がないの……』
風が止まる。
花の海が静まり返る。
そして陽菜は言った。
『全部話すね……。“この世界の始まりを”』
花が生まれた理由を。
そして、ひなが咲かなかった本当の意味を。
白い光が、ゆっくりと世界を包み込み始めた。




