第二十三話:旅人の名前
旅人の声が、夜の静けさに溶けた。
その続きを、ひなは息を止めて待っていた。
月の光が白い花を照らしている。
さっきまでそこにいたはずの面影はもう消えて、残されたのは風に揺れる花びらだけだった。
旅人は花を見つめたまま、震える唇を開いた。
「……春人」
掠れた声だった。
けれど、はっきりと言った。
「……春人……?」
ひなが小さく繰り返す。
旅人――春人は、ゆっくり頷いた。
「ああ」
まるで、何十年も忘れていたものをようや拾い上げたみたいに。
「そう呼ばれていた」
女の子が、涙で濡れた目を上げる。
春人を見つめたまま、声を震わせた。
「……はる、と……」
春人の瞳が揺れた。
その呼び方、その声。
遠い昔に聞いた記憶が、胸の奥を強く叩く。
「……陽菜」
呼ぶと、女の子の肩が小さく震えた。
「……ごめんなさい」
女の子が呟く。
「わからないの……ちゃんと、思い出せない……」
ぽろぽろと涙が零れる。
「でも……あたたかいの」
胸を押さえながら、言う。
「その名前を聞くと……ここが、あったかい」
春人は何も言わなかった。
伸ばしかけた手が、空中で止まる。
触れたいのに、触れてしまえば壊れてしまいそうで。
ひなはその二人を見ていた。
月の下で白い花に囲まれて。
まるで時間だけが取り残されてみたいだった。
花がざわりと揺れた。
風ではなかった。
庭に咲く花々が、一斉に同じ方向を向いたのだ。
まるで何かを迎えるように。
「……なに」
ひなは辺見回す。
春人も顔を上げた。
そして気づく。庭の土のあちこちから、小さな芽が顔を出していることに。
「……増えてる」
白い花、細い芽。
まだ咲いてない小さな命。
それが“希望”を囲むように次々と姿を現していた。
春人は顔色を変える。
「……まずい」
「え?」
「花が、呼ばれてる」
低い声だった。
春人は庭の芽を見つめながら、はっきりと言った。
「陽菜が目覚めかけてる」
女の子が息を吞む。
春人はひなを見る。
「それって……」
「最初に咲いた花が目覚めれば、眠っていた花も応える」
夜の空気がぴんと張り詰める。
ざわり、とまた花が揺れた。
世界のどこかで、何かが動き出した。
春人は女の子――陽菜の前に膝をついた。
そして、震える手でそっと陽菜の頬に触れる。
「陽菜」
やさしく願うように。
「もう少しだけ……思い出してくれ」
陽菜の瞳から、また涙がこぼれた。
その涙が土に落ちた瞬間。
“希望”の花が、ひときわ大きく白く輝いた。




