第二十二話:名を呼ぶ花
月明かりがその横顔を白く照らしている
女の子の震える声だけが、に残っていた。
「わたしの……ほんとうの名前――」
その続きを言おうとして、女の子は苦しそうに息を吞んだ。
「っ……」
身体が大きく揺れる。
ひなはとっさに抱きとめた。
「大丈夫!?しっかりして!」
けれど、女の子の瞳はひなを見ていなかった。
焦点が合っていない。
まるで、ここではないどこかを見ているみたいだった。
「……花が……」
かすれた声。
「いっぱい……」
旅人が息を止めたのが分かった。
女の子は震える指を伸ばした。
“希望”の花へ向けて。
「しろい花……ずっと、向こうまで……」
涙が頬を伝って落ちていく。
「風が吹いて……あの人が笑って……」
旅人が一歩、近づく。
その足元で、白い花びらがひらりと舞った。
「……誰だ」
低い声だった。
問いかけるというより、願いに近い。
「その人は……誰だ」
女の子の唇が震える。
言葉がこぼれそうで、こぼれない。
ひなは固唾をのんで見守った。
「……おかあ、さん……」
その声に、風がやんだ気がした。
旅人の目が揺れる。
女の子は泣いていた。
記憶の痛みに耐えきれないようだ。
「笑ってた……白い服で……花の中にいて……」
そして小さな唇が、もうひとつ名前を紡ぐ。
「……陽菜」
旅人が息を吞む。
その瞬間、“希望”の花が強く光った。
眩しいほどの白い光が、溢れ出す。
「――っ!」
ひなは思わず目を閉じた。
風が渦を巻く。
花の香りが濃くなる。
胸がいっぱいになるほど。
ゆっくり目を開けると花の中心に、人影が立っていた。
長い髪。やわらかな微笑み。透けるような白い姿。
涙のまま、その名を呼ぶ。
「……おかあさん」
光の中の人影は、何も言わない。
ただ静かに微笑んでいた。
そしてその視線が向く。
旅人の肩が大きく揺れた。
「……まさか」
かすれた声。
信じたくないものを見るような顔だった。
「……お前……」
人影は、ゆっくりと旅人へ手を伸ばす。
触れられそうで、届かない距離。
その指先から花びらがこぼれ落ちていく。
旅人はその場に立ち尽くしていた。
握った拳が震えている。
「……どうして」
奥から絞り出すような声。
「どうして、今……」
その時光の中の彼女の唇が、微かに動いた。
声は聞こえない。
けれど、届いたようだった。
旅人の目が大きく見開かれる。
何かを思い出しかけたよだ。
ずっと忘れていた、自分の名前さえ揺らぐほどに深い記憶を。
次の瞬間光がふっとほどけた。
花びらが夜空へ舞い上がる。
人影は消えた。
あと残ったのは月の下に咲く、一輪の白い花だけ。
静寂の中で旅人がかすれた声で呟いた。
「……思い出した」
ひなは息を止める。
見つめたまま、震える唇で続けた。
「俺の名前は――」




