第二十一話:ほどける名前
蕾は、月明りの中で微かに震えていた。
まるで息をしているみたいに。
白く、小さく、今にも開いてしまいそうなほどやわらかな蕾。
ひなはそれを見つめたまま、息を呑んだ。
「……咲こうとしてる」
思わず漏れた声に、誰も返事をしない。
静かな夜だった。
聞こえるのは風の音と、女の子の震える呼吸だけ。
「……陽菜」
旅人がもう一度、その名を呼ぶ。今度は確認すように。
祈るように。
女の子の肩がピクリと揺れた。
「……知らない」
絞り出すような声だった。
「知らない……わからない」
両手で胸を押さえながら、女の子は苦しそうにうずくまる。
涙がぽろぽろと土へ落ちていく。
「苦しい……」
「大丈夫、大丈夫だから」
ひなは慌てて背中をさする。
けれど、女の子の震えは止まらない。
「頭が……いたい……」
旅人が一歩近づく。
その足音に、ひなは顔を上げた。
月明りの下の旅人は、ひどく青ざめていた。
まるで自分も同じ痛みを感じてるみたいに。
「……旅人?」
ひなが呼ぶが、旅人は答えない。
女の子だけを見ていた。
「……あの時も、同じだった」
ぽとり、と旅人が呟く。
「え……?」
旅人の目が遠くを見る。
夜より深い場所。
もっと昔……。
「白い花が、あたり一面に咲いていた」
ひなは息を止める。
「泣いている声がして……誰かが、俺を呼んでいた」
かすれた声。
「でも顔が思い出せない」
女の子がゆっくり顔を上げる。
涙で濡れた目が旅人を見る。
「……おとう、さん……?」
旅人の瞳が揺れた。
何かが触れそうで、触れられない。
指先から零れ落ちていくみたいに。
次の瞬間、ふわりと“希望”の蕾から、花弁が一枚ひらいた。
白い花。
月光を溶かしたような色。
静かに、静かに咲いていく。
「……っ」
女の子が目を見開く。
旅人も動かない。
花はゆっくり開ききると中心に小さな金色を灯した。
やさしい光だった。
あたたかくて、涙が出そうになるくらい。
そしてその光の中に、一瞬だけ人影が見えた気がした。
長い髪の笑ってる、女の人の姿。
「……陽菜?」
誰が言ったのか、自分でも分からなかった。
風が吹いて花が揺れた。
次の瞬間には、もうそこには誰もいなかった。
ただ白い花だけが、月の下でいていた。
その香りの中で、女の子が震える声で呟く。
「……思い出しそうなの」
ひなは女の子の手を握る。
その手は驚くほど冷たかった。
「何を?」
女の子は泣きながら、ゆっくり唇を開いた。
「わたしの……ほんとうの名前――」
その言葉と同時に旅人の表情が、凍りついた。




