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第十九話:思い出せない名前

 希望、と名前をつけてから。

 その花の芽は少しずつ育っていた。

 昨日より今日。今日より明日。

 ほんの少しずつ。

 それでも確かに、大きくなっている。

 朝の光の中で揺れる葉を見るたび、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 まるで、この場所にも季節が戻ってきたみたいだった。

 その日の午後。ひなは部屋の隅で、女の子と向かい合って座っていた。

 窓から柔らかな光が入っている。

 女の子は相変わらず、ぬいぐるみを抱えていた。


「ねえ」


「うん?」


 ひなが呼ぶと、女の子は顔を上げた。


「まだ名前、思い出せない?」


 そう聞くと、女の子は少しだけ考えた。

 それから首を横に振る。


「……わかんない」


「そっか」


 無理もない。

 ここにいる人たちは、みんな少しずつ何かを失っている。

 感情だったり、記憶だったり、言葉だったり。

 それが“咲けなかった”代わりに抜け落ちたものなのかもしれない。

 ひなは女の子の髪をそっと撫でた。

 さらりと柔らかい。


「じゃあさ」


「?」


「思い出せるまで、仮の名前つける?」


 女の子は目をぱちぱちさせた。


「かり?」


「うん。呼ぶための名前」


 少し黙る。

 ぬいぐるみを抱く腕に力が入る。


「……いいの?」


「もちろん」


 女の子は少しだけ考え込んだ。

 でも困ったように眉を寄せる。


「じぶんで、わかんない」


「じゃあ一緒に考えようか」


 その時だった。


「陽」


 後ろから声がした。

 振り返る。

 旅人だった。

 窓辺に立ってこちらを見ている。


「え?」


 旅人は静かな顔のまま続ける。


「陽だまりの陽」


 ひなは瞬きをした。


「陽……」


 女の子がその言葉を口の中で転がす。


「ひなたの、ひ?」


「うん」


 旅人はそれだけ言った。

 ひなは少し驚いていた。

 旅人から名前の提案が出るなんて珍しい。

 女の子は何度か小さく繰り返した。


「よう……ひ……ひなた……」


 その瞬間。

 女の子の手がぴたりと止まった。

 ぬいぐるみを抱えたまま固まる。


「……?」


 ひなはそっと顔を覗く。

 女の子の瞳が揺れていた。

 何かを見つけたみたいに。

 遠い記憶を掴みかけたみたいに。


「どうしたの?」


 女の子はゆっくり私を見る。

 唇が震えていた。


「……な」


「うん?」


「な、って……」


 小さな声。


「呼ばれてた、気がする」


 ひなは息を止める。

 旅人も黙ったまま女の子を見ていた。


「“な”?」


 女の子は胸元をぎゅっと掴む。


「……思い出せそうなのに」


 苦しそうに眉を寄せる。


「あと、ちょっとなのに……」


 その瞳に涙が滲んでいた。

 ひなはそっとその手を包む。


「大丈夫」


 女の子は顔を上げる。


「急がなくていいよ」


「……」


「名前って、きっと逃げないから」


 女の子はしばらくひなを見つめていた。

 それから、小さく頷く。

 窓の外で風が吹く。

 カーテンが揺れた。

 その向こう。

 花のない土の上で。

 “希望”の芽が静かに揺れていた。

 まるで。誰かの記憶が、土の中でゆっくり目を覚ましていくみたいに。

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