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第十六話:咲かない場所

 その夜、ひなは眠れなかった。

 床へ敷かれた薄い布団の上で、天井を見つめる。

 知らない部屋。知らない人たちの寝息。

 時折、窓の外で風が鳴る。

 花の揺れる音も、ここには聞こえない。

 静かだった。まるで世界から音だけが切り取られたみたいに。

 ひなはそっと起き上がる。

 隣を見ると、旅人の姿がない。


「……旅人?」


 小さく呼ぶ。だが、返事はない。

 ひなは部屋を抜けて、廊下を出た。

 外気が冷たい。夜の匂いがした。

 階段を降りる。

 アパートの外、そこに旅人は立っていた。

 一人、月明りの下。

 ひなはそっと近づく。


「起きてたの?」


「ああ」


 短い返事。

 旅人は目の前を見たままだった。

 その視線の先、建物の裏側そのには。


「……っ」


 ひなは息を吞む。

 何もない。本当に、何もなかった。

 地面が剝き出しのまま広がっている。

 花が、一輪も咲いてない。

 この世界に来て初めてだった。

 花のない景色。

 花で埋め尽くされた世界の中で、ここだけが空白だった。


「すごい……」


 ひなは思わず呟く。

 風が吹く。

 土の匂いがした。

 湿った、冷たい土の匂い。


「ここだけ、どうして……?」


 旅人は静かに答えた。


「花が根づいてない」


「え?」


「昼に女から聞いた」


 ひなは足元を見る。

 黒い土。何もない地面。

 まるで命そのものが拒まれているみたいだった。


「花になった人も、ここには咲かない」


 旅人が言う。


「……」


「そして、咲かけなかった者はここへ集まる」


 胸がざわついた。

 ひなはその空白を見つめた。

 嫌なのに目が離せない。

 まるで、世界が隠していた傷跡みたいだった。


「……怖い」


 気がつけばそう言っていた。

 旅人がこちらを見る。


「何がだ」


「分からない……」


 本当に分からなかった。


「花がいっぱいあるのも怖かった。でも……何もないのも、もっと怖い」


 旅人は少し黙った。

 風が吹いて、髪が揺れる。


「空っぽだからだ」


「……空っぽ」


「ああ」


 旅人の声は静かだった。


「何もない場所は、人に何かを思い出させる」


 ひなはもう一度、その地面を見る。

 花のない場所。

 命の終わりでもなく。始まりでもない場所。

 ただ、ぽっかりと世界に空いた穴。

 その時、足元で小さな音がした。

 さかり。


「え?」


 ひなはしゃがみ込む。

 土の表面。

 月明りの下、そこに小さな芽が出ていた。


「……!」


 息が止まる。

 本当に小さな芽。今、生まれたみたいな感じだった。

 震えるような緑。


「旅人……!」


 旅人もそれを見る。

 黙ったままだった。

 風が吹く。芽が揺れる。

 消えてしまいそうなくらい、小さく。

 でも、確かにそこにあった。

 何も咲かないはずの場所に、初めての花の芽が。

 ひなはその芽を見つめた。

 胸の奥が、少しだけ熱かった。

 まるで、冷え切った夜に小さな火が灯ったみたいに。

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