二十一 こんなときに
時間がある。そう思っていたのに。
目前にして時間がないことに気づく。嫌な予感。
冬休みに入り、熱を帯びた練習もいよいよ佳境だ。明日の発表会に向けて最後の練習に励むキト。
練習が後半に差し掛かった頃、響子先生が硬い表情で走り込んできた。こんな時に……予感通りだ。端的に父親が迎えにきたことを告げられたキトは顔を伏せてそそくさと荷物をまとめる。
「せ、先輩……」
一人サブトラを任されたミカが不安気に声をかけた。いつも通り、キトは優しい顔で笑う。
「大丈夫。明日は出るよ」
「でも、でも、先輩!」
すがりつくその瞳にキトは悟った。なんだみんな、知ってるんだ、と。 ならば隠す必要はない。
「僕は……大事なことを間違わないようにしたい。それが母さんの望みでもあるから。いつも通り、明日が来る。だったら、僕にできることは決まってるだろう?」
ルリが泣きそうな目で唇を噛んだ。キトは軽く頭を叩くと、柔らかな茶毛がふわりと弾む。
キトは西城に相棒を渡し、明日のページェントまで預かって欲しいと頼んだ。母からの贈り物だ。だが、おそらく今日は吹かない。キトはそう決めた。例え、母が最後に頼んだとしても……。
「じゃあ、明日。 あとは宜しく」
悲しみに満ちた微笑みを返して、挙げたその手は小さく震えていた。西城がキトの宝物を抱きしめながら指揮棒を掲げてキトを見送ったから、くしゃくしゃに崩れた顔を見せずに済んだ。
エントランスに横付けされた父の車に乗り込んだキトは、重厚で歪んだ響きのレクイエムを息を潜めて聴いた。揺れる吐息を、胎内で飲み込んだ嗚咽を、父に悟られたくなかったから。
「キト、キト! 音楽が遠くにいっちゃう。 帰るの? ねぇ、なんで?」
ポケットで寝入っていたエイラが不機嫌そうに顔を上げた。キトが帰るのに練習が続いていることが不満らしい。キトは運転する父親に聞こえないように、そっとエイラに耳打ちする。
「輪廻だよ。輪廻。迎えがきたんだ」
アクアブルーの瞳が一回り大きくなった。
「えぇ? えっ? 本当? あれ? でも 消えてない……」
細い手足を上げたり下げたり。忙しなく動かした妖精は、何が輪廻なのだと憤った。
「輪廻が来たのはエイラじゃないよ。でも、そんなに嫌なら戻ってもいい。西城と一緒に帰ってくれば、家まで送ってくれると思う」
「もう……。そんなこと言ったって、もう学校は見えないじゃない」
腕組みをしてバックミラーを見上げた二人は、確かにと頷き、ぶっと吹き出した。サイドボードに横たわってふて寝をするエイラに父も笑う。ラジオのチャンネルを音楽に合わせれば、眠りながらも薄羽根がリズムを刻んでいく。
こんな時に。不謹慎のような陽気に盛り上がる車内でキトは考えた。
奇跡ってなんだ?
母は言った。
「キトに会えたことが奇跡なの」
ファンタジーの妖精が、サイドボードでふて寝してるっていう状態は奇跡か? 違うのか?
先日の駅での出来事でも人々は言った。
「よく助けられたね。君もあの子も怪我がないなんて、本当に奇跡だ」
僕らは奇跡的な確率で受精し、奇跡的な確率で誕生に至る。
奇跡ってなんだ?
僕も、父も、ちっこい不思議な妖精だって、ルリだって西城だって……潤だって……。
みんなみんな、奇跡の産物だ。
堂々巡りの思考が終わらぬまま、キトたちは母の病室に着いた。
閉められたカーテン、いつもはしない機械音、伸びる管の影に忙しない人影を見る。
時刻は三時二十一分。




