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二十  愛しい



「もう! 何度も呼んだのに!」

「知らねーって。ウザイ! 本来、怒んのって僕じゃねぇ?」


 普段より遅い電車。自販機で甘いコーヒーを買い、プルタブを引いたキトは不躾にエイラの前に突きつけた。溢れ出たコーヒーをうっとり飲み干したエイラは、いつも通りキトの胸ポケットに潜り込む。


 姿を隠したエイラに絶望しつつ、家を出る時間になったキトは、重い身体を引きずって玄関扉を開けた。そこに飛び込むように体当たりをしてきたエイラ。


 どうやら、慌てて飛び出した父親について外に出てしまったらしい。外は一面の銀世界。嬉々として遊び歩いた彼女だが、家に戻ろうとした時には、窓も扉も閉められていて入れない。

 

 彼女曰くーーーーガラスが割れそうなほど叩いてキトを呼んだーーらしいが、柔い妖精の細腕が音を出すほどに叩けたかというと疑問である。


 一度失ったと思ったものが舞い戻ってきた。湧き上がる喜びに頬が緩む。だが、エイラを日常にしてはいけないと思い直す。


 ーーーー奇跡は起きない。


 いつか母から聞いた言葉が蘇る。


 奇跡なんて信じちゃいない。起きればいい……とは思うけれど、それがキトの母に、とは思わない。奇跡って……なんだ?




 

「きゃっ」


 悲鳴にも似た叫び声。目を向ければ幼子がフォームでよろける。横にいる身重の母親の手を離れ、ころころに着込んだコートがボールのようで。


 スローモーションとはよく言ったのだ。


 時間にすれば零コンマの世界。だが、キトには全てが見えていて、驚くほどに冷静で、細く長く吐き切った息のように柔らかく滑らかに身体が動いた。


 持っていた相棒(トランペット)をホームに置き滑らせ、母親にぶつからない後方に、幼子の頭ごと抱き抱えて、列車に向かって背を向ける。






 ーーーー キキキュイーーーーン!






 


 減速する鉄塊が後頭部を掠め取ろうと強風を当て、恐音を増幅させて止まった。真っ白な世界に、ざわざわと喧騒が戻ってくる。電車に切り裂かれそうになった髪がばらつき、冷たいコンクリートが頬を擦った。


 まんまるな瞳と目が合ったキトは、茶色く膨らんだ縫いぐるみのような幼児を抱えたまま、ゆっくりと身体を起こす。黄色い点字ブロックについた腕がガクガクと震え、吐く息が不自然に揺れ広がった。


「……痛くない?」

 幼子を立たせたキトは、優しくコートをはたき、どこも破れていないことを確認する。そして自身もよっと立ち上がり、腕や足を動かしてみせた。

 ーーーー恥ずかしい。


 そう思った瞬間、幼児はキトの手を振り解き、しゃがみ込んで震える母親の下に走る。抱き合う二人の姿を見届け、転がった相棒を拾った。

 ーーーー良かった。

 安堵の顔を上げると、二人は群がる人らの姿でかき消された。


 愛しい。


 抱き合う親子も、縫いぐるみみたいな柔い幼児も。そして頬の傷にキスをする薄ブルーのエイラも。


 柔らかく微笑んだキトの心情を察した人はいたのだろうか?


 キトは駆けつけた駅員と何度も頭を下げる母と、無意味に鼓舞するオーディエンスらに囲まれた。二十分が過ぎ、やっと解放されたキトは、ポケットですうすうと寝息を立てるエイラを確認して学校に向かう。


 降り積もった雪は、柔らかな日差しを浴びてすっかり溶けていた。



 

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