十九 日常
「キト! 遅刻だ」
がしりと肩を掴んだ父の手が、重力を操るかのようにキトの意識を急浮上させた。
寒さに震えて身体を起こすキトを放り出した父は、一気に階段を降り、ゴミの袋を担いで慌ただしく家を飛び出す。
テーブルには乱雑に放り置かれたパンとコーヒー。干しかけのシワだらけの洗濯物が窓際にぶら下げられていた。抜け殻になった父親のパジャマを拾ったキトは、十九日から冬休みになったと告げ忘れたことを思い出し、ふふと失笑する。
「寒いー」
エイラを探し、プッとテレビをつけてコーヒーを手に取る。温かい。
既に切られたエアコンを付け直し、半纏を羽織る。
無意味に流れる映像と音声。いつもより明るい空は周囲の雪を反射させて輝いている。
不思議だ。
積もった雪は空気も周囲も一気に凍てつかせて気温を下げるのに、曇った空であっても陽が差すだけで暖かな優しさを感じてしまう。普段だったら白くけぶる息に肩をすぼめるのに、ただ数センチの積雪があるだけで、キンと張り詰めた外の空気を吸いたくなる。
「エイラー? 大好きな雪だぞー」
いつもならキトの側を泳ぎ飛ぶエイラが今日はいない。父に紹介して以来、家の中を自由に飛び回っているエイラが。
ーーーーまさか?!
不意に思い出した母との会話。消える時は消えるというくだり。そんな急に? いや、片鱗は……。
あ、った。
出会ったときと比べて、ぐんと増えた睡眠時間。前はラーメンでさえ食べたのに、最近は冷たい空気や雪を好んでいた。白銀の髪に白い顔。その白さが増していなかったか? そうだ、昨日はぴゅうと吹き荒ぶ風に飛ばされそうになって……羽ごと掴んで……。
押し寄せてくる不安。二階のベッドの布団をはたき、カバンをまさぐり、閉められたカーテンを勢いよく開ける。
重灰色の雲から顔を出した朝陽が、湿った部屋を白黄に染めていく。足元に転がった空のペットボトルに反射した光は白い壁に小さな虹を映した。
いない、何でだ?! 何で、今……。
ドクンドクンと大きく脈打つ鼓動に我慢できず、もつれる手でトランペットケースを開ける。妙に冷たいマウスピースをはめ、カサついた唇を舐める。
いつもなら、ペットの気配で飛びつくのに。ベルに潜り込んでいないか確かめ、はやる気持ちそのままに、吸った息を深く吐き出す。
エイラ! エイラ、エイラ、エイラ、エイラ!
硬いピストンとぎこちないスライド。かじかむ手で吹くくだらないファンファーレに苛立つ。布団の上に相棒を投げ出したキトは、いつかのように壁に背を押し付けて膝を抱えた。
コーヒーの湯気に顔を日照らした雪の妖精。甲高いさえずるような笑い声。遠くに響くのは幻聴だ。ぐずぐずと腹の底から湧き上がる嗚咽に歯を食い縛った。
何気ない会話も、ポケットで休ませたことも、急な反応に怯えることも……。たった数週間、一緒にいただけの妖精が、ただの少年の日常に溶けきっていたことを知り、キトは自問を繰り返す。
妖精なんて、初めからいなかったんだ。全部全部、気のせいだった。だから……なんてことない。エイラなんて……エイラなんていなかった。大丈夫。こんなこと、なんともないんだ。
溶けた雪の上に湿気った牡丹雪が音もなく降り落ちる。徐々に昇りゆく陽の光は、泣き虫な少年の心をスパと切り裂いていった。




