十八 十八番
ブオーーーーン。ブファーン。
ドゥーーーー。
歪んだ音。ブレる音。突き刺す音に抜ける音。
キトはチューニングが好きだ。
どうしたってバラバラに感じる音たちが徐々に一点に集中していく。マウスピースに震える唇が調子を取り戻し、ハマる場所に到達すれば、次に出るのは澄んだ音。
さぁ始まる。
指揮の指先、視線。仲間の呼吸、鼓動。全てが練習通りに、いや、それ以上の高揚感を得て走り出す。
終業式の日は授業も早々に終わり、午後からは駅前のコンコースを想定して、学校のエントランスで練習をすることになった。
ページェントまであと僅か。キンと冷えた空気が楽器を冷却し、待ちの間にじわじわと指を凍みさせていく。
全体練習の後は、ルリの個別練習だ。ガチャガチャと片付けられる器具の音に混じり、キトはルリに付き合って響子先生のピアノ伴奏の音源を操作する。
ルリの十八番のクラリネットポルカ。軽快で明るい曲調はルリの性格そのもので、広い音域を美しく大胆に、駆け上がるようなアルペジオ(和音を一音ずつ奏でる) は、華やかで難解なのにサラリと見せるテクニックに唸らされる。
歌うような踊るような演奏と同調して宙を舞う妖精を見ながら、キトはふわりと笑みをこぼした。
「ご機嫌?」
パイプ椅子を片付けるキトを、ルリが立ち塞ぐ。
「何で?」
上目遣いな瞳は言葉とは反対に、不機嫌そうだ。
「キト、わたしの演奏中、笑ったでしょう? 確かに指が動き辛かったけど、そんなに変だった?」
ああ、そういうことか。胸ポケットから飛び出したアクアブルーの瞳がテヘと舌を出した。
「ごめん。笑ったつもりはなくて。まぁ、ちょっとご機嫌ではあったかも……。それより……」
頭を掻き、打ち合わせに話題をすり変えて誤魔化す。ルリは練習熱心で、いつも向上心をもっている。目前に迫ってきた本番に向けて、水を差すわけにいかないと考えたキトは、ルリの自尊心をくすぐるように幾度も褒め称えた。
「当日は今日よりも冷えそうだ。カイロ、忘れないようにしないとな」
何気なく包んだルリの指先は、驚くほど冷たくて、驚くほど華奢だった。
ドキリ。
「わ、わかってる。あんたもね!」
急に引っ込めた指。互いに視線を逸らす。
(僕、何やってんだよ。なんだって手を……)
ドギマギする脳裏に、母のしわくちゃになった黄土色の指が浮かんだ。
『ごめん、キト。最近うまく絞れなくて』
チューブ入りのハンドクリームを差し出した母は、ただ蓋を開けて手の平に塗り広げることさえも難しくなっていた。
「……悪い。最近、母さんの手にクリームを塗ってあげていたから、ついその流れで……」
小さく弁解をするキトに、ルリは短く柔らかな髪を耳にかけ、眉を小さく歪ませた。
「おばさん、悪い……?」
今まであえて聞かないでいてくれただろうルリに、キトは哀しげに笑って頭をポンと叩くと、数歩踏み出して背中を見せた。
「ーーんな顔、するな。 調子がよけりゃ、ルリのソロ、聴きに来るって。 まぁ…………、もう、腹、括ってっから……。僕のことは気にしなくていい」
ルリも小学校からの付き合いだから、おそらく母の状態はどこからか耳にしているだろう。キトは大袈裟に声を上げて言うと、わざとらしく振り返って笑顔を見せた。
じんと指を冷やす風が止み、代わりに白い硬い粒が音もなく降り落ちてきた。
「ーー雪だ」
「……ん」
背中を向け合った二人は、椅子と譜面立てに落ちて溶ける雪粒を、ただ見つめた。
エントランスと音楽室を往復する仲間が、白い息を弾ませて、二人の空間に割り入る。キトもルリも何事もなかったかのように動き出す。
雪は降った。夜に向けて降っては溶け、じゅわじゅわと地に染み込んでいく。硬い雪粒は、頬を撫で、髪を白く飾りーーーー
月明かりに照らされた白銀の粒は、肩を寄せ合うように手を繋ぎ、世界を凍てつかせるように全てを染め上げていった。




