デリーの黄色い空
天水はデリーに赴任した。空は黄色がかった色をしている。乾いた風に細かい粉塵が舞い、常に視界が悪い。天水は幼い頃に患った気管支喘息をぶり返すようになった。
本社からやって来た上司とはいえ、インド人は天水の言うことなど聞きはしない。百人のインド人スタッフを数人の日本人が管理できるわけはなかった。稀に優秀で上司に忠実なインド人エンジニアはいたが、いつの間にか他社に引き抜かれ、天水の会社は常に人手不足だ。納期に間に合わせる為天水達少数の日本人監督者が現場に入り作業をする有様だった。天水が希望した、会社勤務の傍らチベット医学を学ぶ事などとてもできなかった。
プラカーシュという古参の社員は狡猾だった。大した技能などないくせに社歴の長さとカーストの高さでインド人エンジニアの中で幅を利かせていた。プラカーシュを嫌って会社を離れるエンジニアも多かった。しかし人材不足で悩んでいる会社は彼を解雇にできない。それが分かっていてプラカーシュはやりたい放題だ。彼の勤務態度が目に余り、天水は一度プラカーシュを会議室に呼んで叱責したことがあった。社内の公用語は英語だ。プラカーシュの返答は
「じゃあ労働組合を結成しますよ」
だった。
「いや、会社は労働者の権利を侵害していない。最低賃金だって守っている。私が言いたいのは労使関係ではなく、君が欠勤をしたりとか・・・・」
二人の言い争いは外に漏れ聞こえたらしい。日本人社員が会議室に入って来て、
「プラカーシュ、君にも言い分があろう。この件は本社でも検討するから今は持ち場に戻りなさい」
と天水とプラカーシュを引き離した。プラカーシュは不愉快そうに鼻を鳴らし、会議室から出て自分のデスクに着く。会議室の開け放たれたドアから、彼が隣席のスタッフにヒンディー語で何かを言い、笑い声をあげている様子が見えた。大方天水を嘲っているのだろう。
「天水さん、ちょっと」
同僚は会議室のドアを閉めた。
「あいつに何か言うだけ無駄ですよ。二言目には争議権だストライキだ、ですから。この国で労働組合なんて作られてみなさい。大変なことになりますからね」
「大変な事って何ですか?」
天水はまだ怒りが収まらず、腹立たしい気持ちで尋ねた。
「労使間にマフィアみたいな交渉人が入って来て、会社側に有利な協議にしたいのならばリベートを寄越せって話になりますよ」
天水は黙った。
「僕だって頭にくる事は沢山あります。でもいちいち怒っていたら身が持ちませんよ。この国にはこの国のやり方があるんだから、ここは一つ文化の違いだと諦めて、日本に帰任する日を指折り待ちましょうよ天水は大きなため息をつく。その途端、彼は咳き込んでしまった。同僚は同情のこもったまなざしで天水を見、
「ここのところデリーのPM二・五は北京越えですからね。私もこっちに来てから体の具合が悪いんですよ。鼻炎にアトピー。目は常に痒い。妻と子どもは帰国させました」
天水がチベット亡命政府の地、ダラムサラに向かったのは、彼がインドに来て半年が経過していた頃だった。ダラムサラ行き夜行バスはデリー郊外のバスターミナルから出ていた。夕刻天水はチケット売り場でダラムサラまでのチケットを買い、チケットに手書きされた出発ゲートを探した。バスターミナルは広く、そして薄暗かった。
「ミスター、何かお困りか?」
制服を着たインド人の男が声をかけて来た。天水はチケットを見せると、男は言う。
「ダラムサラは今大洪水でバスは途中の村でストップしている。貴重な休みを何にもない農村で過ごして良いのかい?私がカシミール行きのツアーを組んであげるから、事務所に来なさい」
天水は男の言葉を信じなかった。
「カシミールは紛争中じゃないか。本当に行けるのか?」
「勿論だ。カシミールのレイクサイドに良いホテルがあるんだ。そこを拠点に観光をしろ」
「いや、私はカシミールじゃなくってダラムサラに行きたいんだ」
「ダラムサラは大洪水だ。私を信じろ」
「大体お前は何者だ?」
「私か?私はバスターミナルの責任者だ。私のIDカードだ。見ろ」
しかし天水は気づいた。彼が単なる旅行代理店の経営者だと言うことを。天水は男を振り切ったが、男は尚も天水を追いかけて来て、
「ダラムサラは洪水だぞ。帰り道が分断される。お前はデリーまで戻って来られなくなるんだ」
と不吉な予言を囁いた。天水は男にまとわれつかれながらもダラムサラ行きの古いバスを発見する。天水が乗り込む刹那、男は
「そのバスはダラムサラには辿り着けないぞ」
と捨て台詞のように叫ぶ。
「このバスはダラムサラに行きますか?」
天水は運転手に尋ねた。運転手は頷いた。天水はバスの車内を見渡した。乗客は皆天水と同じような東洋人の顔をしている。このバスは既にチベット世界への入り口だ。天水は同じ質問を乗客のチベット人に投げかけた。チベット人からの答えはイエスだった。
「ダラムサラは洪水ですか?」
天水はチベット人に聞いた。
「ノー」
天水は空いている席に座り、荷物を網棚に乗せ、キーチェーンで固定した。自分と似た顔立ちの人々に囲まれているだけでこんなに安らかな気持ちになるのか。天水はすぐに眠りに落ちて行った。




