女の意地を知って
藍子が公営体育館の道場に着いた頃には、志穂達は既に練習を始めていた。藍子の姿を見て大悟は驚く。
「遅れてごめん」
藍子はそう言って志穂にお詫びのゼスチャーをする。藍子は道着を取りに一度帰宅したので遅くなってしまったのだ。
「じゃあ私が志穂の受けをするね」
藍子は準備体操もそこそこ、審査の技表を見て、技の順番を確認する。
「えーとまず、正面打ち五種か」
藍子は手刀を志穂に向けて振りかざし、志穂が頷いたタイミングで打ち込んで行った。志穂は藍子の攻撃をかわし、藍子を投げ飛ばした。
藍子は清彦のライブに行かなかったのだ。清彦は四万六千日に藍子ではなく麗華を選んだ。そして自分はやけくそで駿と寝た。それが全てだ。藍子は女の意地を知った。今までのことを水に流して清彦と恋人になる?帳尻だけ合わせて満願成就したところで碌なことにはならない。観音寺の住職の言葉を借りれば「観音様は全てご覧になっている」のだ。藍子と清彦の間の溝は結局埋められなかったのだ。
「練習に来て良いのかよ?夜から用があるって言っていたじゃないか」
大悟は心配顔で聞いた。
「就職する前に少しでも練習時間を確保しておこうかなと。天水先生が帰国するその日まで天水道場の灯を消してはならぬ」
藍子が汗を拭いつつそう答えるも、大悟は
「天水先生は帰って来る気があるのかねぇ」
と懐疑的だ。
「ところで紗羅とは話せた?」
藍子が聞くと、大悟は目を反らせて、
「大した話はしてねぇよ」
と頬を染めながらもぶっきらぼうに言う。大悟は地黒の男だった。その黒い肌に紅が差すと赤紫のような変な色になる。
「顔が赤いわよ。気色の悪い」
藍子は思ったことを口に出した。
清彦は楽屋で人待ち顔だ。
「ねぇ、今日の客さんの入りすごかったじゃない。気は変わらないの?就職なんか断りなよ」
マリイは清彦の翻意を促す。
「いやいや、バンドがここまで来たのはマリイの力だよ。俺程度の実力じゃプロにはなれないって。マリイだったらこの先一人でもデビュー出来るから」
「清彦と私のツインボーカルだったからこそ受けたんじゃん。気分転換にサラリーマンをしてもいいけどさ、音楽を続けなって」
「そうだなぁ」
清彦からは良い答えが返って来ない。
マリイは話題を変えた。
「藍子、来なかったね」
清彦は返事をしなかった。
「藍子は健気だったよ。木刀を握り締めて、私が清彦さんを守ります、とか言っちゃってさ」
「まあな」
清彦は苦笑した。
「清彦が名古屋に引っ込んだ時も、あの手この手とあんたを励ましてさ」
ここで清彦は、なんでマリイがそんな事を知っているのかと不審な気持ちになる。
「清彦としては嬉しかったわけだ、藍子の気持ちが自分に戻って来てさ」
「そんなんじゃないよ」
「ま、種明かしすると、私の差し金なんだけど。藍子に言ったんだ、清彦を東京に連れもどせって」
マリイの暴露に、清彦は驚きで声が出ない。
「あんただって良かったじゃん。東京に戻って念願のフェスにも出れた、就職も出来たで」
マリイの言葉に清彦は不貞腐れる。藍子のあの手紙は彼女の本心ではなかったのか。藍子と互いに気持ちを寄せ合っていると信じていたのは自分だけだったのか。
「あの手の女は頑固だからね。一度気持ちが離れたらもう戻らないわよ。女の意地よ、女の意地」
「うるさい」
清彦はマリイに一喝する。
「おおこわ」
マリイは大げさに肩をすくめてみせた。そのやりとりをドラムの芸名ジョニーと元メンバーの駿は複雑な表情で見ている。
藍子との関係を考える上で避けて通れないのは麗華の事だ。そう言えばあの女は出産したのだろうか。清彦は幸せそうな顔で新生児を抱く麗華の姿を想像すると、憎しみを持って別れたとは言え、やはり気持ちは塞ぐのだった。
清彦はため息をついて長年の相棒だったサクスフォンをケースにしまった。




