始まりの日
藍子は暫く成田空港第二ターミナル駅で大悟を待っていたが、間もなく上り列車の発車時刻になってしまった。藍子はやむなく一人で出発した。今夜はビュレットナイトの解散ライブだ。時間に猶予はない。
藍子は発車した電車の中で財布からチケットを取り出し、日時と場所を確認する。途中で一度離れたがビュレットナイトとは四年間を共に過ごした。最後に藍子なりにさようならを言うつもりだった。清彦とはこれで本当の別れなのか。藍子は清彦の気持ちが分からない。言葉も交わさぬ前に一度だけ事故のように抱きしめて貰えたが、その後はそんな奇跡は起こらなかった。
卒業式の日、清彦は藍子に向かって両手を広げた。それは藍子を待っていると言う意思表示に他ならない。藍子は再び思いを巡らせる。私は彼の胸に飛び込んで良いのだろうか?最後に彼は私を選んだと言う事か?今日は清彦さんとのおしまいの日?それとも始まりの日。藍子はそっと胸にチケットを押し当てた。電車の窓の外は春の夕暮れだ。藍子の指はまだ清彦と指を絡めた刹那の温もりを覚えていて、我知らず清彦を求めてしまうのだ。
そんな時、藍子の携帯はメールを受信する。発信者は志穂だ。
「藍子は今日の自主稽古に来るの?来るならば借りっぱなしだった合気道のDVDを返していい?」
志穂は六月に昇段審査を控えている。今までの稽古の成果が試される大切な時だ。彼女は有志で集まって自宅近くの公営体育館内の道場で自主稽古をしていた。藍子は就職して忙しくなる前に志穂の練習に付き合ってあげたいのだが、いかんせん今夜は清彦の最後のライブがある。
「ごめんね。先約があって今日は行けない。大悟は練習に行くよ 藍子」
藍子はそう返事を打つ。送信ボタンを押そうとするも、藍子の指は止まってしまうのだった。
ビュレットナイトのライブには解散を惜しむ観客が詰めかけ、立ち見が出る盛況ぶりだった。マリイはソロシンガーとしてデビュー秒読みだ。彼女を好意的に見る音楽評論家は多く、複数の音楽業界人がライブにやって来た。
ライブは終盤に差し掛かっている。
「私について来いって言ってんのに、こいつらみーんな脱音楽してサラリーマンになるって言うんだよ。普通逆じゃね?メジャーデビューを目指して脱サラする話はよく聞くけどさ。みんなどう思う?」
ステージ上でマリイはメンバー全員を指差して愚痴まじりに言う。客席から笑いが起きる。マリイは続ける。
「とは言え、ビュレットナイトがみんなに来てもらえるほどのバンドに成長したのはメンバーのおかげ。それはメンバーみんなには感謝している。ツインボーカルでやって来た清彦が、一度ぐらいは一人で歌わせろって言うんだけど、みんな、聴いてくれるかな?」
マリイの問いかけに、主に女性の声で、「聴きたーい」と言う声が起こる。スポットライトが清彦に当たった。
「今晩はー、清彦です」
清彦はマイク越しに挨拶した。客席から歓声が上がった。
「この度一身上の都合でバンドを抜けますが、生きている限り音楽は続けるし、こうやってまたみんなの前に姿を見せる日が来ることを願っています」
客席から拍手が起こる。「また戻って来てー」との声が聞こえて来た。
「陰に日向に僕を支えてくれた人への感謝の気持ちと・・・・・」
ここで清彦は言葉を区切り、客席を見渡す。
「感謝の気持ちと、自分の想いはいつまでも変わらないと言う誓いの気持ちでこの歌を歌います。Don't say so long 」
ギターの伴奏合わせて清彦は歌った。
「君が僕の元に舞い降りて、あの日から世界が変わった。
君の瞳に僕はどう映ったのか、君の気持ちを僕は知りたい
Don't say so long
Don't say so long
これは君との始まりの日
僕は君を捕まえる
君とまた走り出す
同じ景色を見るために」
これは藍子に捧げる歌だ。清彦はステージの上から藍子を探した。もう一度藍子を抱き締め、二度と離さないつもりだった。客席のどの顔も惜別の表情で清彦の歌声に聞き入っている。直接藍子に伝えたい。君と始まっているのだと。
清彦は藍子を見つける事は出来なかった。




