美紀の就職活動
天水道場は解散した。ここからの話は道場を取り巻く人々の後日譚である。
天水出国。誰も見送りには来ず、文字通り単身での出発だった。
道場の門下生達はそれぞれ己の進路に進んだが、彼らの指導者たる美紀は就職活動真っ只中だ。美紀は天水美紀から神崎美紀に戻った。
離婚を機に正規雇用としての口を探すも、四十前の年齢が障害となりいつまでたっても非正規職から転職出来なかった。
考えてみると、美紀には社会人として大したキャリアはない。やって来た事と言えば派遣社員としての事務職と合気道師範だけ。面接では彼女の履歴書を見て面接官が黙ってしまう事も度々だった。
美紀は午後の早い時間に面接を終え、埼玉県内の繁華街にいた。一瞬錆びた鉄のような嫌な臭いを嗅ぎ、辺りを見渡した。血の臭いに似ていると思った。しかし美紀の目に映ったのは春の日差しの中、のんびりと買い物を楽しむ女性や、飲み物を片手に笑いさざめいている高校生グループ、子どもを連れた若い母親の姿など、静かな平日そのものだった。気のせいか。美紀は首を捻るもそのまま駅に向かう。
ギャーと言う性別不明の悲鳴が聞こえ、美紀は振り返った。スーツ姿の男性がうずくまり、女子高生が腹を抱えて横になっている。
「通り魔だ!通り魔!」
通行人が叫ぶ。小太りの男が人混みの間を駆け抜けた。男の進路に沿って人々が倒れて行く。
男はベビーカーを押す母親の脇腹を刺した。母親は腹を押さえて座り込む。通り魔の次の定めはベビーカーの中の幼子だ。男はベビーカーを覗き込み、刃物を高く振り上げた。
「やめてー!」
アスファルトに膝をついた母親が叫んだ。しかし負傷した母親は男の凶行を止める力は残されていなかった。
男が刃物を振り下ろしたその時、美紀はベビーカーを蹴って遠くに転がした。目的を見失った通り魔は一瞬面食らう。男の前に立ち塞がるのは美紀だ。背が高いとは言え所詮女である。男は美紀の顔を払い切りするようにナイフを横に走らせた。美紀は男の脇の下に潜り込み、ナイフを持った腕を抑えつつ、男をアスファルトに伏せ倒し、同時に血でヌルヌルになったナイフを取り上げた。男の衣服に着いていた返り血が美紀のストッキングについてしまう。美紀は男を抑え込みながら、顔面蒼白の通行人達に、
「救急車を呼んでください。それから警察も!」
と叫んだ。
白昼の通り魔事件では十数人の負傷者が出たが、幸い誰も命を落とさなかった。美紀の元に警察から協力者として表彰したいとの電話がかかってきた。
「そんな表彰だなんて・・・・たまたまそこの居合わせただけなのに」
そう言って美紀は断ったが、教え子の励みになればと考え直し、顔と名前を公表しない事を条件に表彰を受けることにした。
表彰の日、美紀は在職中の会社に半休を取り、スーツ姿で県警に赴いた。応接室には地方紙の記者と地方ケーブルテレビのカメラマンまで待ち構えており、美紀は恥ずかしくってならない。美紀が恭しく感謝状を受け取る場面では彼女の背後から絶え間なくフラッシュが焚かれ、赤面する事しきりである。
昼前には表彰の儀式は終わり、美紀は警察から文字通り釈放される。会社へと急いでいると、県警のロビーで初老の男が美紀を待っていた。
「通り魔を取り押さえた人ですよね」
美紀は加害者からの報復を恐れて返事をしなかった。男は慌てて、
「怪しい者じゃありませんのでどうぞご安心を。私、こう言う者でして」
男は名刺を差し出した。そこには警備会社の社名と、代表取締役 田所正也と書かれていた。
「お時間は取らせませんので、向こうで話しませんか」
田所はロビーのソファーに美紀を誘った。悪い話ではなさそうなので美紀は彼の隣に座った。
「あなたの事を小耳に挟みましてね、何か武道でもやられていたんですか?」
美紀は微かに頷いた。
「失礼ですけれど、お仕事は?」
「都内で事務職についております」
「就職活動中にあの事件の現場に居合わせたと聞きましたが」
田所は美紀のことを知っていた。美紀は再び警戒する。
「私も以前は警察におりまして。退官後警備会社を興したもので、多少の情報は入るんですよ」
田所は説明し、
「弊社で働いてみませんか?勿論社員として」
と切り出した。警備会社。そう聞いて美紀は即決できない。今の美紀には充分務まりそうだが、十年後二十年後も体力仕事を続けられるだろうか。田所は美紀の不安を払拭するかのように、
「弊社は女性の夜勤は御座いません。主な業務は議会中の県会議員の護衛です。県会議員を議会に送迎したり、身の回りのお世話をしたり、まあいわば秘書代行ですな。議会のない時は要人の警護に当たります。あなた、普通免許はお持ちですか?」
持っていると美紀は答えた。向いていそうな仕事だ、美紀は思う。
「お名前を頂戴しても良いでしょうか?」
田所は聞いた。美紀は
「神崎美紀と申します。合気道の師範免状を持っております」
と姿勢を正して自分を売り込んだ。




