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藍子の武者修行  作者: 山口 にま
第十章
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さようならを言う前に

卒業式翌日は天水克通最後の稽古だ。道場の門下生は揃って稽古に参加する。美紀は当然のように姿を現さなかった。

「大悟君、前へ」

天水は大悟を呼んで、自分の模範演武の受けを取らせる。天水の技は大きく、大悟は道場の際まで投げ飛ばされる。我が師、我がスーパースター。天水の合気道は今日で見納めになる。目に焼き付けておこう、藍子は天水を凝視する。いや、先生の指導はこの身に染み込ませるのだ。自分は天水克通の弟子だと自信を持って名乗れるように今後も研鑽を積もう。


練習の後は場所を変えて天水の送別会兼壮行会となった。天水夫妻の道場立ち上げから在籍しているのは、藍子と大悟と紗羅の三人だけだ。テーブルの上に音声文字変換アプリを起動させた携帯電話を置き、天水の言葉を画面に表示させた。

「この道場から師範を出したかったけれど、時間切れだな。それが心残りだ」

天水は酔いで頬を染め、門下生達を見回す。

「アイアイは東京に残るんだろう?アイアイが師範候補だな。大悟君も県警で合気道を採用しているかも知れないし、紗羅さんも流派は違えど、カナダで合気道の道場はあるだろうから、みんなできる範囲で合気道を続けてくれ。勿論聾唖学校組のみんなも」

天水の言葉に門下生達は頷いた。

「先生がインドに行かれるのは、やっぱり夢の為ですか?」

大悟は聞いた。

「そうだ」

と天水。

「インドと言えばIT先進国ですし」

大悟はそう相槌を打って天水の盃に日本酒を満たす。

「そうでもないんだよね。ITの世界でも先進国はアメリカと日本だ。勿論ITの仕事でインドに行くんだが」

「赴任地はバンガロールですか?ほら、インドのシリコンバレーと呼ばれている」

紗羅は聞いた。

「いやデリーだ。僕からデリー赴任を希望した」

「どうしてですか?」

紗羅の問いに、

「デリーはダラムサラって言うチベット亡命政府の拠点が近いんだよ。近いと言っても夜行バスで十時間ぐらいだけどね。会社勤務の傍ら少しチベット医学を学びたいと思って」

「はあ・・・・」

門下生達は天水の話の飛躍についていけない。

「あの、そもそも論なんですけれど、だったら最初からチベットに行けばいいんじゃないんですか」

と大悟は至極まともな疑問を口にした。天水は身を乗り出し、

「うむ、良い質問だ。今やチベットと言う国は消滅し、あるのは中華人民共和国内のチベット自治区だけ。そんなところで自由な研究や学問が出来るとはとても思えないし、自治区内での外国人の移動は制限されている。それに僧侶もチベット医学研究者もインドに亡命している。だからインド国内の亡命チベット人からチベット医学を学べばいい。会社からインド赴任の打診があったしこれも何かの縁だ。僕は行ってくる。あーあ、人生が二度あればなぁ」

これが四十になろうともしている男の抱く夢か。就職活動や会社就労を通じてすっかり世間を知った門下生達は呆れるばかりだ。そしてこんな人と十年以上も婚姻関係にあった美紀師範に対し、労いの気持ちが生じるのだった。

藍子は不安を覚えて、天水に聞いた。

「先生は日本に帰って来ますよね?」

「ああ、会社からインド赴任の任を解かれたら帰国するしかない」

その答えで、弟子たちは天水の中に一分の勤め人としての自覚が残っていたことを知る。

「君たちは随分頑張っていたけれど、君たちの夢は何なの?」

天水は聾唖学校組に日本酒を注いで、聞いた。三人は暫くもじもじしていたが、それぞれの携帯電話に文字を打ち込んで天水に見せた。

龍二とかのんは「強くなりたい」、志穂は「ろうあ者の為の指導者になりたい」だった。

「熊倉さんが?そうか、指導者になりたいか!」

天水は思わず大きな声を出す。志穂は恥ずかしそうにしていたが、その決心は固かった。

「今後君たちはどうするんだ?」

聾唖学校組は再び各々自分の携帯電話に答えを打ち込んだ。

「家の近くの道場で合気道を続けます」

志穂は自分の携帯電話を天水に見せた。

「美紀先生に指導して貰えるんだろう?」

天水の言葉はすぐさま音声変換アプリにより携帯画面に表記された。美紀の名前が出て門下生達は緊張する。元夫婦の間でどんな話し合いがあったかは知る由もないが、藍子は黙っている訳にもいかず、

「美紀先生が落ち着いたら・・・・」

と言葉少なに答えた。天水は

「それが良い。君たちは美紀先生の指導の元、精進するように」

と聾唖学校組に言葉をかけた。志穂達は携帯画面の文字を読み、安堵の表情を浮かべ、

「はい」

と吐息のような声で返事をした。


天水の渡航は明後日だ。門下生達は

「空港までお見送りさせて下さい」

と申し出たが、天水は

「君達も忙しいだろう。そこまでしてくれなくって良いよ。それに会社の人と直前まで打ち合わせをしなければならないことがあって」

と固辞する。そう言われたら門下生は引き下がる他はなかった。

長年師事した師範ともここでお別れだ。

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