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藍子の武者修行  作者: 山口 にま
第九章
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人生は二度はない

もう夫婦ではない、そうは言ったものの天水夫妻の日常は変わらなかった。美紀は家事をしたし、師範として道場の運営にも関わった。長く通う門下生は子どもから大人へと成長して行く。それなりに愛情を感じた。また聾唖者への指導は美紀の生きがいだ。障害者支援に身を捧げる両親と同じ道を進むことになった。


天水の母親はリュウマチに由来する感染症で亡くなった。天水の嘆きは深い。しかし美紀は天水に寄り添う気持ちになれなかった。

「お母ちゃんごめんな、お母ちゃんごめんな」

天水は棺に縋り付いて泣いている。その姿は姑との同居を拒んだ美紀への当てつけのように感じた。天水は美紀に隠れて母親へ仕送りをしていた。美紀は目をつぶりながらも、そのお金があったら障害児を育てる事が出来たのにと、天水への不満を全て子どもに結びつけてしまうのだった。


法事の事で天水夫婦は諍いを起こした。

「この日、法事だから」

天水は言い捨てるように伝える。天水家の菩提寺は九州である。そう簡単に行ける距離ではない。しかもその法事は百箇日と呼ばれる、美紀には馴染みのない仏教行事だった。勿論美紀は嫁として参列するつもりだった。しかし一周忌でもないのに参列して当然だと言わんばかりの天水の態度には流石に腹が立った。

「あなたの方から頭を下げて法事に出てくださいってお願いするのが筋なんじゃないの?」

美紀は嫌味を言った。天水は険しい顔をして向かって来る。

「君、よくもそんな事が言えるな。君だって僕の母親には恩義があるだろうが」

しかしそうは言われても美紀には心当たりがない。考え込む美紀に、天水は声を張り上げる。

「じゃあ言ってやろうか?周りから君との結婚を反対されていたのに、母親だけは結婚を認めてくれたんだぞ」

やっぱり反対されていたのか。美紀は胸をえぐられる。

「周りが反対したのは弟に障害があるから?」

美紀は震える声で聞いた。

「普通はそうだ」

天水は言い放つ。

「だからこそ子どもに障害があったら堕胎するって私に約束させたのね」

「そんな約束はしていないよ」

「したわ。現に貴方は私に中絶を迫った」

天水は言葉を選びながら、

「結婚前に言ったのは、もし子どもに充君と同じ障害があったら育てる自信がないって」

「同じことよ」

人殺しをする契約で成り立った結婚、それが天水との生活だったのだ。今まで二人で積み重ねて来たものが瓦解して行くように美紀には感じられた。黙り込んだ美紀を見て天水は自らの言葉を後悔した。

「ごめん、僕、母親が死んでからすごくイライラするんだ」

彼はそう詫びて美紀に駆け寄ったが動揺しすぎてダイニングテーブルにぶつかってしまう。ダイニングテーブルから湯呑み茶わんが落ち、二つに割れた。天水は舌打ちし、

「あ、ごめん」

と軽く謝って、身を屈めて破片を拾った。美紀は天水を見下ろして、

「忘れたの?」

「忘れるって?」

天水は美紀を見上げて聞き返した。これは作業所に通う弟が夫婦の結婚祝いに自ら焼いたものだった。

 

「インドに赴任したいんだけど」

弟の湯飲み茶わんを割ってしまってから半年ほど経った時、天水は伝えた。それは最早相談ではない。天水の中では既に決定事項だ。

今更行くなと言ったところで翻意する天水ではない。

「道場はどうするの?」

美紀は聞いた。

「閉める。四月から東京を離れる門下生が多いから良い機会だ」

「聾唖の子達は?あの子達は多分東京近辺にいると思うけれど」

「じゃあ他の道場に預けるしかないな」

「他の道場ってどこ?聾唖者に理解のある師範に心当たりはないわよ」

「それを言ってくれるな」

天水は辛そうな顔をして美紀の言葉を遮る。美紀は腕組みをしてから、言いにくそうに

「私が日本に残る事は出来ないかしら?。落ち着いたらあの子達の指導をする」

と別居とも言える選択肢を出した。天水は思いもよらぬ返答を得てたじろいだ。そして妻の説得にかかった。

「え、来ないの?言っちゃ悪いけれど、君の仕事は派遣でしょう?インドに行けばそれなりの家を用意して貰えるし、メイドさんも来て貰えるのに。週に一回の合気道の稽古のために日本に残ることはないよ。単身赴任手当だって出ないかも知れないし、出ても微々たるものだ。二重生活は出来ないよ」

美紀は三十八歳だ。今ならば正規の仕事が見つかるかも知れない。可能性は低いにせよ、子どもだって。天水は狼狽しつつも美紀の気持ちが自分から離れた事を認めざるを得ない。美紀は天水の目を見て、静かに言った。

「人生は二度はないのよ」


美紀は天水の家を出て、実家に身を寄せる事にした。家を出る前に、美紀は

「生徒さんには余計な事を言わないで」

と天水に念を押した。

「僕には離婚の意思はない」

天水は言ったが、美紀は返事をしなかった。


美紀は駅に向かう途中、二人が住んでいた高層マンションを振り返った。賃貸とは言え都内で利便性が高く、眺望の素晴らしいあの部屋を手放すのは些か惜しいような気がした。

しかし天水に気兼ねして生きていくのはもうごめんだ。このままでは暑さと貧困しかないインドに連れて行かれる所だった。私って、結婚運ないのかなぁ、美紀は心の中でぼやいた。


実家に戻った美紀に、弟の充は開口一番、

「なーんだ、今日はかっくん一緒じゃないんだ」

と天水を帯同しなかった事への不満を漏らした。

「ごめんね、また今度」

美紀は充を見下ろして言った。充は疾患の特性で美紀よりも背が低かった。

「かっくんってかっこいいよね。強くって、背が高くって、英語がペラペラで、ほんっとスーパースターだよね」

充はいつものように天水を賞賛する。別居の事情を知っている両親は、いつものように、そうだね、とは同意しなかった。

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