障害者だから
天水夫妻は子どものいない夫婦であったが、美紀は一度だけ妊娠した事があった。美紀の弟はダウン症だった。天水は我が子への遺伝を恐れて出生前検査を強く希望した。美紀は身内に障害者がいると言う負い目もあり天水の要求に従いざるを得ない。
美紀は気持ちが強い女であったが、腹の上から子宮に太い針を突き刺す羊水検査では体が震えた。医師は針を抜いた後に美紀に胎児の心音を聞かせ、検査中の死亡事故が起こらなかった事を証明する。胎児を危険に晒してまで羊水を取り、もし結果が悪かったら胎児を殺す。これ以上の虐待があるだろうか。美紀の胸は罪悪感で重く塞がる。
検査後一週間で病院から電話がかかって来た。通常は結果に三週間かかると言われているが、緊急事案ではすぐに連絡が来ると事前に知らされていた。夫婦は病院に行かなくとも結果が分かった。胎児には障害があった。
「結婚する時に話しあったよね?」
天水は美紀に堕胎を迫った。夫婦は結婚する前に、もし胎児に異常があったら子どもをおろすと約束してあったのだ。そう言う約束がなければ美紀は誰とも結婚は出来ないと分かっていた。美紀はかつて弟の事が理由で婚約破棄された経験があった。結婚をして早く親を安心させたいと言う気持ちもあり、美紀は約束を交わした。自分はともかく天水には障害児を育てられない。天水にとって一番大事なのは自分の夢や仕事のキャリアだ。美紀は全てを諦めて堕胎を受け入れた。
「もう二十週です。掻爬手術ができる時期はとっくに過ぎています。陣痛促進剤を使って胎児を産み落とす処置になりますよ」
産婦人科は事務的に説明した。
手術の日は腰にコンクリートブロックを落とされるような痛みが数時間続いた。あまりの痛さに、やっぱり中絶しませんと言いたくなる。しかしもう後戻りは出来なかった。天水の付き添いはない。美紀は一人でのたうち回った。彼女のこの苦しみは天水の願いを引き受けた故である。美紀の中で天水への怒りが生じる。
やがて出産を迎えた。子どもは一瞬産声を上げた。美紀と天水の子どもである。たとえ障害があったとしても生命力に満ち満ちた子どもであっただろう。その産声を聞いて美紀は中絶を後悔した。この子だったら障害を乗り越えて強く行きていける筈だったのに。
美紀の両親は埼玉県内では障害者支援の活動家として知られた存在だった。障害を持つ下の子が少しでも生きやすい世の中にする、それが彼等の活動原点だった。美紀の弟と同じ障害を持つ者は大体寿命五十年で、親亡き後も生きて行かねばならない。弟は心疾患と知的障害があった。美紀は自らの子どもをひっそりと葬った事で、両親と弟の奮闘や存在を否定した気持ちになった。
もう子どもは作るまい、美紀は心に決め、天水を遠ざけた。堕胎の事は夫婦の秘密である。美紀は誰にも口外せず、なかった事として胸の中にしまった。
会社勤務の傍ら天水は合気道の師範免状を取得し、道場を開く事になった。有段者であった美紀も生徒の指導を手伝うようになり、同じく師範免状を取った。傍目には共に道場を切り盛りし、夫唱婦随でやっている夫婦のように見えた。道場の運営は子どものいない退屈さを紛らわせてくれる、美紀のとっても概ね満足だった。
風向きが変わったのは天水のこんな申し渡しからだった。
「母親の具合が悪いから東京に呼び寄せたいんだ」
天水の気持ちは既に固まっている。夫唱婦随と言われるのは天水が先に何でも決めてしまい、美紀が仕方なく追随しているからだ。しかし母親を呼び寄せる考えには美紀は賛成出来なかった。
「だってお母さんは東京に知り合いはいないんでしょう?昼間は私も克通さんも会社に行ってしまうし、それではお母さんは一人暮らしの今よりも寂しい生活になると思うわ」
美紀に反論されて天水は不機嫌な顔をした。年寄りの環境を変えるのは良くない、それが美紀の主張だった。天水は美紀の同情を引くために言った。
「母親はリュウマチが進んで障害者だし・・・・」
障害者。その言葉は思いの外美紀の胸に突き刺さった。障害ゆえに堕胎された我が子。美紀は長い事封印して来た子どもの記憶が蘇って来た。
美紀が姑との同居を受け入れない事を見て取ると、天水は譲歩案を出した。
「じゃあ母親に少し仕送りをしたいんだけど」
「それってお母さんが障害者になったから?」
美紀は聞いた。
「そうだ。思うように体が動かなくなってきて心配だから」
美紀の中で天水への怒りがぶり返す。美紀は天水を見据え、
「私はあなたのお母さんを養うために子どもを諦めたんじゃない」
と強い口調で言った。いきなり過去の堕胎を持ち出されて天水は面食らう。その様子を見て、天水にとって堕胎は他人事だったのだと美紀は確信する。美紀は死ぬ程の痛みを経験し、堕胎の日を忘れた事はなかったと言うのに。
「子どもの事は残念だったけれど親を扶養するのは子どもの義務だ」
天水は己の正当性を主張した。美紀は射るような視線を天水に向けて、
「障害者だから同居?障害者だから仕送り?自分の子どもは障害を理由に殺しておいて、よく言うわ」
「だってそれは」
天水は反論を試みたが、美紀は彼の言葉に自分の言葉を被せた。
「誰だって障害者になる可能性はあるのに。それなのに」
私達は堕胎を選んだのだ。そう考えると美紀の目から涙が噴き出してくる。そこで美紀ははっとする。初めて子どもの事で泣いていると。美紀自身も実は子どもの事から目を逸らし続けていたのだ。子どもの事を突き詰めて考えると、天水への怒りの気持ちを認めざるを得ない。美紀は早口でまくし立てた。
「お母さんの事を養うほどの経済的余裕があるんだったら、あの時勇気を持って子どもを産んでおけば良かった。私はね、子どもとさようならした日から心が晴れた日なんて一日もないんだから。表面的には忘れた振りをしていても、こんな風に思い出して辛い気持ちになるんだからね」
天水は激昂した美紀を済まなそうに見、そして言った。
「今度妊娠したら、産んで構わないから」
しかしその言葉も美紀の怒りを増幅させた。
「産んで構わない?愛人に産ませるわけじゃあるまいし。大体何であなたの許可が必要なのよ。妊娠したら産む事が前提でしょ。すごいわね、どこまでも他人事なのね」
美紀は涙を拭いて、静かな声で続けた。
「じゃあ私もあなたの全てを他人事だと思います。あなたの子どもは二度と妊娠したくありません」
もう気持ちの上では夫婦ではない、それは美紀の宣告だった。




