手紙
清彦はもう酒を飲む気にはなれなかった。実家では自室に閉じこもり、無為に時間を費やしている。
「お前は内定を取ったのか?」
父親は聞いた。
「まだ」
「じゃあ早く東京に戻って就職活動を続けなさい。こんな状態じゃ会社は継がせられない。他の従業員に示しがつかないからな」
そう父親は命じたが、清彦は既に東京での自分の居場所を失っていた。ゼミ長の役職はなくなり、バンドのメンバーとの関係は悪い。最愛の恋人だった麗華は去って行った。最早東京に戻る必要はない。このまま親の会社に就職するのが一番楽だ。
ため息とともに思い出すのは藍子の事だ。
「アイアイは漢だ。アイアイと出会って男女間の友情が成立すると知った」
清彦は藍子との関係を麗華にそう伝えたが、本心は違っていた。藍子の好意に気づいていたし、彼女に恋愛感情はないとしても、彼女との関係は清彦には心地良かった。家にまで上がり込んで家族の接待を受けたのに、あろう事かそこで知り合った従姉妹と付き合ってしまうなど、藍子をどんなに傷つけた事か。しかしその時は麗華の事で頭が一杯で藍子の気持ちを慮る余裕はなかった。人の気持ちを傷つけておいて、何が友情だ。
こんな風に人の気持ちを踏みにじって始まった恋愛だから、自分の気持ちを踏みにじられて終わるのだ。麗華は俺に隠れて他の男に抱かれ、さらには胤を宿し、立ち話の別れ話で俺の元から去って行った。
麗華が死んだと言う報道はない。やはり記憶通りに自分は途中で逃げ出したのだ。
殺してやればよかった。清彦はまだ麗華への忿怒の気持ちが消えなかった。
そんな時に届いた藍子からの封書。清彦は驚きと、期待してはいけないとの自戒の気持ちで封を切った。
「清彦さん 今日は。
お祖母様の御法要出席の為に帰省なさったと聞きましたが、そろそろこちらに帰ってきても良い頃ではないでしょうか?
みんな待っています。勿論私もそうです。
清彦さんのサックスをまた聴きたいです。
機会があればまた連弾したいです。
待っています。 鵜飼 藍子」
これは藍子が自分を許すという事なのか?清彦は携帯電話を手に取り、藍子にメールを打とうと思った。今迄のこと、ごめんと。しかしそんな軽い一言で済むだろうか。清彦は今すぐ東京に戻って藍子に許しを請いたくなる。時計はまだ午後の早い時間だ。今から出れば夜には高円寺のアパートに戻れる。清彦は早速荷造りを始め、取り敢えず持ってきたサクスフォンを肩にかけた。
「俺、東京に戻るわ」
台所仕事をしていた母親に告げた。
「今日これから?」
母親は引き止めようとするも、父親が清彦を一刻も早く東京に戻したがっていた事を思い出した。
「分かった。駅まで送るわ」
母親は車の鍵を手に取った。
東京に戻った清彦は謝らなければならないことばかりだった。部屋を吐瀉物まみれにして、おまけに指輪のパンフレットを投げつけてクローゼットの扉に穴を開けてしまった事を不動産屋に謝った。
「本当だったら退去して貰うところですよ。諸経費は親御さんに請求させて頂きましたから」
不動産屋は不機嫌な顔で言った。
次いで就職の応募をした企業。清彦の面接は途中で止まっていた。
「祖母の法事で帰省しておりました。ご連絡が遅くなって申し訳ございません」
清彦は電話口で詫びた。多くの企業は「では後日改めてこちらからご連絡します」と答え、それっきり連絡を寄越さなかった。
前座として出演する音楽フェスは目前に迫っている。久しぶりに練習に姿を見せた清彦はメンバーに頭を下げる。
「済まなかった」
麗華の事でコンクールの主催者サイドに喧嘩腰になったり、練習やリハーサルに穴を開け、更には吐きながら泣いているところまでメンバーに見られてしまった。マリイは心底安堵した顔になり、
「良かったよ、本当に戻って来てくれて良かったよ」
と言って少しだけ涙ぐんだ。他のメンバーも清彦に笑顔を向けた。まだ俺の居場所は残っていた。清彦はマイクの前に立ち、マリイのボーカルに合わせてサクスフォンを吹き鳴らした。
藍子とはゼミの時間に会った。藍子は清彦の姿を認めるとさっと頬を紅潮させて小さく頷いた。授業の後に清彦から藍子に近づいた。藍子は席に着いたまま清彦を見上げ、
「もう大丈夫なの?」
と聞いた。清彦は頷き、
「色々とごめん」
と謝った。
「ごめんって?」
藍子は聞き返した。清彦は藍子の質問に答える事が出来ない。麗華に気持ちを奪われ藍子を傷つけたことを詫びたかったが、それは藍子が清彦に想いを寄せている事が前提だ。自分が愛されているなどとそんな尊大な事は言いかねた。
「いや、心配かけたりとか」
清彦は言葉を濁す。藍子は聞いた。
「就職活動は?」
「頑張っているよ。藍子は?」
「苦戦中」
「みんな同じだな」
清彦は苦笑し
「こんな時なのに音楽フェスに出ることになっちゃって」
藍子はマリイとの電話を隠すため、初めて聞いたような顔で、
「フェスに?凄いじゃない」
と驚きの声を上げた。
「前座なんだけれどね」
「頑張ってね」
「あ、日曜日なんだけれど来る?」
清彦は藍子を誘った。
「行けたら行くね」
藍子はそう言ったが、行かないつもりだった。駿と寝てしまった自分は最早ビュレットナイトのメンバーに顔向けできる立場ではない。
「鵜飼さん、ちょっと」
教授が藍子を呼んだ。藍子は立ち上がる。清彦は「じゃあまた」と言ってサクスフォンを肩にかけ教室から出て行った。




