身に覚えあり
六月の初めの蒸し暑い夕方、清彦と麗華は御茶ノ水に楽器を見に行った。この町には多くの楽器店が軒を連ねる。会うなり清彦は麗華の顔色が優れないことに気がついた。麗華はこの四月に就職し、広報部に配属された。新しい環境で疲れが出てきた頃かと清彦は心配になる。
夕食に入ったレストランでも麗華は食が進まず、珍しくレモネードを頼んだ。
「何だか最近熱っぽいんだ」
麗華は言う。清彦がテーブル越しに麗華の額に触れると、確かに熱がある様に感じた。
二人は早めにレストランを出る。駅のホームで電車を待っている時、麗華は一度辛そうに息を吐いてから膝から崩れるように倒れてしまった。駆け付けた駅員は
「救急車を呼びますか?」
と聞いた。
「お願いします」
清彦は答えたが、清彦の腕の中の麗華は
「救急車は結構です」
と拒絶した。
麗華は救護室に通され、そこで暫く休ませて貰うがいつまでも回復しない。
「近くに大学病院があるから、夜間でも診てもらえるかも知れませんよ」
駅員は助言した。清彦は病院の電話番号を調べ緊急外来に電話し、麗華の病状を説明した。
「ではいらして下さい」
病院は麗華を受け入れた。清彦達は駅前でタクシーを拾い、病院へと急いだ。
麗華は緊急外来の診察室に入り、清彦は廊下で待たされる。何度か医者や看護師が慌てふためいた様子で診察室を出入りする。その為ドアが半開きになっていた。中はいやに静かだ。麗華はいつまでも出て来ない。麗華が中で昏睡状態になっているんじゃないかと清彦は不安になる。清彦は半開きのドアから中を伺った。
診察室にはカーテンが引かれ、カーテンの向こうから医者と麗華の声が聞こえてきた。
「君、妊娠しているよ」
医者の診断に麗華は小さく驚きの声を上げた。清彦まで声を上げそうになる。
「多分妊娠初期の低血圧症で倒れたんだと思う。最終月経日は?」
「・・・四月の二十日ぐらいだったと思います」
「ふむ、妊娠二ヶ月目だね。早めに産科に行きなさい」
医師はそう命じた。
麗華を妊娠させてしまった。清彦は激しく己を責めた。生まれるのはいつだろうか。彼は若い男性の常として、胎児は十ヶ月で誕生すると言う知識しか持ち合わせていない。指折り計算すると二月に出産予定だ。二月、まだ自分は卒業していない。
しかし待てよ、と清彦は考える。女性の多くは出産時に実家に帰ると言う。実家にしばらくいて貰えばいいではないか。清彦の親は息子の顔を見るたびに、早く所帯を持て名古屋に帰ったらすぐに見合いだと急き立てた。麗華は美人で、音楽家の鵜飼保二の血縁で、おまけにイタリア語を話せる。親が結婚に反対する理由がない。清彦も麗華の親とはうまく行っている。今年の夏は麗華を伴い帰省する予定だったが、帰省時に結婚の意思を親に伝えれば何の障害もなく入籍出来るだろう。
麗華は青ざめた顔で診察室から出てきた。清彦はいやでも腹部に目が行ってしまう。あそこに新しい命が宿っている。自分と麗華との子どもが。清彦は麗華も胎児も神々しく感じ、涙が出そうになる。
暗いロビーで会計を待つ間、清彦は麗華の腹に軽く触れ、
「大丈夫だった?お医者さんは何て?」
と麗華からの告白を促す。
「一時的な低血圧症だって」
麗華はそれしか言ってくれない。
会計を済ませ、二人は歩いて駅に向かう。清彦は麗華の荷物を持ってやった。
「ねえ、麗華さん、麗華さんは妊娠しているんじゃないかな?」
清彦の問いに麗華は目を見開き、
「そんな事はないよ。何で?何でそんな事を言うの?」
と動揺した声で聞いた。清彦は照れて鼻を擦りながら、
「身に覚えがあるもので。へへへ。もしそうならば嬉しいなって思って。俺も来年には社会に出るし、そろそろ家庭を持つことも考えてもいいかな」
そう言って麗華の横顔を伺ったが、麗華は特に嬉しそうにせず、思案顔だ。俺じゃ頼りないだろうなと清彦は麗華に済まなく思う。しかし来春には自分は社会人になり父親になる。麗華の為にもお腹の子どもの為にも強くあらねばと自分に言い聞かせた。




