藍子の出世
週が明けた水曜日、三限から経営学のゼミである。清彦は既に着席していた藍子に
「飲み会の事、全部任せちゃってごめん。お陰様で優勝できたよ」
と声をかけた。藍子は何故かひどく動揺した顔をして、
「そ、そうなんだ。それはおめでとう」
と言って俯いた。清彦は藍子の反応を訝しく思いながら、いつも自分が座っている席に向かう。他のゼミ生も表情が硬く、誰も清彦と目を合わせようとしない。
教授が教室に入って来て、出欠を取る。その後彼はおもむろに、
「星野君、この前の飲み会はどうして来なかったの?」
と清彦を名指しで尋ねた。
「部活の用がありまして。すみません」
清彦は頭を下げた。
「君はゼミの校外活動は欠席が多いよね」
「すみません」
「君はゼミ長に向いていないんじゃないのかな」
清彦はその宣告を黙って聞いた。藍子はここで口を挟む。
「私が星野君に余計な事を言っちゃって。私が飲み会を欠席してでも部活に行った方がいいと勧めてしまったんです。星野くんは悪くありません」
教授は藍子の弁護を問題にしなかった。
「一般の学生ならばそれで良いんだよ。でもゼミ長は教員と学生を繋ぐ役目があるんだ。そのゼミ長が個人の都合を優先して交流会に来ないって言うのは・・・・・。年に一度か二度の飲み会だぞ。それにすら来られない程忙しいのならば、ゼミ長は務まらないよ」
飲み会の席でも教授は清彦に対する不満を漏らしていたのだ。ゼミ生達は清彦が早晩ゼミ長を降ろされると予感していた。
藍子が助けを求めて教室を見渡すと、藍子とも清彦とも親しい女子生徒が
「私達は星野君のゼミ長で何の不満もありませんでした」
と教授に進言する。清彦は藍子と女子生徒の方を向き、もう良いから何も言わないでと言わんばかりに首を横に振った。そして、
「僕が無責任でした。ゼミ長は辞めさせて貰います」
と教授に頭を下げた。恥辱で耳朶と首筋が赤くなっている。
生徒達の間にまた新たな緊張が走る。また一からゼミ長を選出するのかと。しかしそれは杞憂だった。教授は、
「鵜飼さんがゼミ長をやってよ」
と言ったのだ。藍子は思わず大きな声で、
「私ですか?私には荷が重すぎます!」
とその役割を固辞した。
「重すぎるものか。今まで通りだよ。時々配布分の印刷をしたり、校外活動の出欠を取れば良い。みんなも鵜飼さんがゼミ長で良いよね?」
ここで異議を唱えたら、じゃあ君がゼミ長になりなさいと言われかねない。学生達は同意を示さざるを得ない。
「じゃあ決まり、鵜飼さんよろしくね。みんなも鵜飼さんに協力するように」
教授は生徒達にそう言い渡して、教科書を開いた。
確かに藍子は清彦との、ゼミ長と副長という関係を終わらせたかった。しかしそれはあくまで自分が副長を辞める事が前提だった。清彦との細い絆がこれで完全に切れた。藍子は清彦の友人と寝て、清彦の役職を取り上げるような事までしてしまった。
藍子は清彦の顔を見る事が出来ない。ゼミが終わると逃げるように教室を抜け出した。
十月の中旬は藍子の大学の文化祭だった。藍子は合気道サークルとしてステージの使用許可を取っていた。幸い清彦のバンドとは違う日取りである。清彦に会わずに済んでほっとする。
マットを固定したステージ上で、大悟を始めとして他大に通う門下生を動員して演武を行なった。いつものように大悟とペアだ。誰よりも呼吸が合う。想いは大悟も同じらしく、観客に気づかれないように目で合図を取り合い、藍子の投げに大きく受け身を取るのだった。
藍子は観客の中に駿がいる事に気がついている。音楽から離れた駿の髪の色は黒に変わっていた。藍子はもう流されて寝るような自分ではないと見せるために目の前の大悟に集中する。大悟が藍子に向かって手刀を振り下ろす。藍子は大悟の脇の下を潜り抜けるように彼の背後に回り、大悟を背中から床に叩き落とした。
演武が終わった後、ステージ下で簡単な反省会をする。とは言え特に失敗もなく、門下生達は安堵の表情で息を弾ませながら互いを労うだけだ。
出番が終わった彼らはそれぞれ更衣室に向かい、自分達の道場や大学に帰った。
「俺は行くけれど、藍子はどうする?」
大悟の問いに藍子は
「私はまだ残る。ゼミの出店に顔を出すわ」
その時大悟の携帯電話が鳴る。藍子は大悟から少し離れて彼の電話が終わるのを待った。
「藍子」
そう藍子を呼んだのは駿だった。駿は緊張した面持ちで藍子を見た。
「藍子、俺・・・」
駿が言いかける。何を今更。藍子は大悟の陰に身を隠してしまう。大悟は携帯を耳に当てたまま、急に身を寄せて来た藍子と、悲しみを湛えた目で藍子を見つめる駿を見た。大悟は通話を終え、一度気の毒そうな顔を駿に見せた。その後自らも藍子に寄り添い、
「着替えるか?」
と藍子を促す。藍子は頷いた。大悟は藍子を守るように彼女の背中に手を添えて歩いた。ステージの次の演目は和太鼓の演奏だ。和太鼓の轟きが駿の歩みを遮った。




