音楽家一族
二人は歩いて藍子の家に向かい、鵜飼アルミ建具製造の社屋の裏手から敷地内に入った。同じ敷地内に社屋の他、二棟の一軒家があり、清彦は敷地の広さに驚きを禁じ得ない。
「作業場の音がうるさいでしょう?」
藍子は済まなそうに言って、手前の家屋の玄関を開けた。
玄関にまでチョコレートとバターの焦げる甘い匂いが漂って来た。ドアを閉めると作業場の溶接の音や電気ドリルの音が全く聞こえなくなる。
「散らかっているけれどどうぞ」
藍子は清彦を招き入れた。台所では楓が茶の用意をしていた。
「妹の楓」
藍子が紹介すると楓は黙ったまま頭を下げる。
「こんにちは。今日は早く学校が終わったの?」
清彦は聞く。普通の高校生が家にいる時間ではない。藍子は清彦を居間のソファに座らせた。
「どうぞお構いなく」
清彦は女ばかりの家に上り込むことになり、恐縮することしきりだ。楓は清彦の前にミントの葉を浮かせたアイスティーとチョコチップクッキーを給仕する。
「まだ祖熱が取れていないかも知れませんが」
楓は言葉を添える。
「え、このクッキー、わざわざ焼いてくれたの?」
清彦は目を丸くする。
「好きな時に食べられるように生地を冷凍してあるんです」
楓は恥ずかしそうに言った。
「へー、じゃあ早速頂きます」
清彦はまだ温かいクッキーを口に入れる。生地の甘さとチョコレートの苦みのバランスが絶妙だった。
「美味しいねこれ。甘すぎないのがいい」
清彦が感想を述べると楓は頬を赤らめた。
「妹には清彦さん達への差し入れを作って貰っているんだ」
藍子は説明する。
「いつもありがとう。バンドのメンバーも美味しいって言って食べているよ」
清彦は改めて礼を言った。楓は清彦の言葉を否定するように首を横に振って、
「・・・・どうぞごゆっくり」
と逃げるように二階に戻って行った。
「ちょっと弾いてみたい」
清彦は居間に鎮座するグランドピアノが気になる。どうぞと藍子が勧めると、清彦はタオルで手を拭いてピアノに近づいた。ピアノ脇の本棚には卓上時計がある。台座に松洞音楽大学卒業記念と刻印されていた。
「誰が松洞大学を出たの?」
清彦は聞いた。
「姉がこの三月に」
「あんな一流の音大を・・・・。お姉さん凄いね」
「そんな事はないわよ」
と藍子は謙遜しつつ、
「確かに姉は小さい時からピアノの事では一目置かれていた」
と優秀な姉をほんの少し自慢するのだった。
「これはお祖父さんの写真?」
清彦は壁の写真を見ながら尋ねた。
「ううん、お祖父ちゃんはまだ生きていて離れで暮らしている。これはひいおじいちゃん」
「なんだか教科書で見たような・・・・・誰だっけ」
「鵜飼保二」
藍子は高名な音楽家であった曽祖父の名前を口にする。
「えっ!」
清彦は思わず声を上げた。
会社経営者の娘で、家にグランドピアノがあり、姉は一流音大卒で、おまけに曽祖父は音楽の教科書に載るような作曲家。
「あい、君って一体・・・・・」
清彦は目を見開いて藍子を見つめている。
音楽の才能もなければ関心もない、鵜飼保二の名は藍子には邪魔なだけだった。しかし今日藍子は初めて鵜飼保二のひ孫として生を受けた事を心の底から感謝した。
「清彦さんのピアノを聴いてみたい」
藍子はせがんだ。
「鵜飼保二のひ孫で、松洞音大卒の妹の前で弾くのかぁ。気が進まないんだけど」
清彦はそうぼやきながらも一曲を弾いた。サティのシャンソン、『ジュ・トゥ・ヴ(あなたが欲しい)』だ。
同じピアノでも弾き手によってこんなに音色が違うのかと藍子は驚いた。百々子は骨太な体型だった。彼女のピアノは砂漠を駆け抜けるモンゴル馬のような力強い音を出す。清彦のピアノは若いサラブレッドだ。藍子の心を駆け抜けて行く。
「しばらく弾いていなかったから勘が鈍っている」
清彦は弁解するように言った。
「凄いよ、清彦さん。清彦さんのピアノは良い意味で軽快。人の気持ちにすっと入って行く。ずっと聞いていたくなるの」
藍子は胸の前で手を組み、感想を述べた。実際藍子は清彦の音楽の前にひれ伏している。自分の全てを捧げたい、藍子はそう願った。
藍子の気持ちを知ってか知らでか清彦は
「俺ばっかり弾いているのも何だから、連弾でもする?」
と藍子を誘った。
「連弾なんて・・・・ピアノは忘れちゃったよ」
「何か弾ける曲は?」
「『エリーゼのために』の最初の方ならば」
清彦はしばし考え、
「じゃあ俺が簡単な曲を弾くから、藍は片手でCコードとAマイナーを弾いてよ」
「Cコード・・・何だっけ?」
清彦は苦笑した。
「Cコードはドミソの和音、Aマイナーはラドシだよ」
藍子はダイニングから椅子を持って来て、清彦の隣に座る。藍子は肩で大きく息をしつつ、鍵盤を三つずつ押さえた。
「あはは、そんなに緊張しないで」
清彦は藍子の肩を軽く揺する。体に触れられて藍子は余計に緊張する。CコードとAマイナーを繰り返し弾いて行くと段々昔の感覚を取り戻して来た。
「そうそう、その調子。じゃあ行くよ。はいCコード」
清彦はスローテンポな練習曲を弾いた。藍子は清彦に合わせて鍵盤を押さえる。清彦は時々励ますように頷きながらに藍子に微笑みかけた。藍子は鍵盤を間違えないように必死だ。
何とか一曲終わらせ、藍子は大きく息をつく。
「うまいよ」
清彦は藍子を褒める。
「じゃあもう一度やってみようか。今度は曲をよく聴いて流れに乗るような気持ちで」
二人は顔を合わせ、合図を取りながら同時に鍵盤を叩く。
藍子は落ち着いて曲を聴いた。曲が進むたびに清彦と気持ちが重なるような感覚を覚える。この時間が永遠に続いて欲しいと思った。
しかし曲は終わってしまう。藍子は清彦に、
「初めてピアノを弾いて楽しいと思った」
と本音を漏らす。
「それは良かった。そもそも音楽は楽しむためのものなんだよ」
藍子はもう一曲一緒に弾きたいと思ったが、清彦は時計を見て、
「俺、そろそろ行かなきゃ」
といとまを告げる。陽は陰り始め、藍子も合気道の稽古に出掛ける時間だ。
藍子は四万六千日のご利益に、清彦に抱き締めて欲しいと願った。演武の日にステージ下で藍子を強く抱きとめたように。
しかしそんな願いは叶わない。清彦は玄関に向かうと、二階の楓に向かって、
「お邪魔しました」
と声をかけた。楓は部屋から出てこない。アイドル歌手の歌謡曲が漏れ聞こえて来る。
「音楽でも聞いているのかも」
と藍子。清彦は
「妹さんによろしくね」
と言って、玄関で靴を履いた。




