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藍子の武者修行  作者: 山口 にま
第四章
19/63

観音様のご慈悲

上手くは行かない、そう駿に断言された藍子と清彦であったが、多少の発展はあった。何と言っても、ゼミ長と副長である。教授は用を言いつける時、清彦と藍子をまとめて呼びつけるのだ。教授とのメールのやり取りも藍子と清彦三人で交わされる。清彦は藍子をあいと呼ぶようになった。

ゼミの授業の直前、藍子の携帯に教授からメールが入った。

「本日体調不良により休講。念のため教室の黒板に書いておいて下さい」

メールの宛先は藍子と清彦だった。藍子はすでに校内にいたので、そのまま教室に向かう。教授に言われた通りに黒板に休講の旨を書いていると清彦が教室に入って来た。

「休講だったら前日に言ってくれよ」

清彦はそうぼやいて椅子に腰を下ろした。いつものようにケースに入ったサクスフォンを持っている。開け放たれた教室の窓から夏の風が吹き抜けた。

「時間が空いちゃったね」

藍子は同意する。藍子は夜から合気道の稽古だ。

「どうしようかなぁ。一度家に帰るか。でも時間が中途半端だし・・・・」

清彦は腕を組んで時間の潰し方を考えている。藍子は今日が七月九日だと思い出す。

「そう言えば今日しまんろくせんじつだわ」

「なんだそりゃ?」

「この日に観音様に参拝すると四万六千日分参拝したのと同じだけのご利益があるんだって」

「いきなり四万六千回分かよ。すごいな」

清彦は呆れたように言う。

「浅草のほおづき市が有名だけど、うちの近くのお寺でもやっているんだ。見に行く?」

藍子が誘うと清彦は興味を持ったのか、

「行こうかな」

とサクスフォンケースを肩にかけて立ち上がった。


寺の境内は早くもほおづきが並び、功徳を求める参拝客が観音堂の前で列を作っていた。二人は夏の日差しの中、汗を拭いつつ列に並んだ。

「名古屋じゃ四万六千日って聞いた事がない。東京だけのお祭りなの?」

清彦は藍子に尋ねた。

「他の地方でもやっているみたいだけど旧盆の八月にやることが多いみたい。ほら、仙台の七夕も旧暦でやるじゃない?東京の仏教行事は新暦でやるから今日が四万六千日。東京はもうすぐお盆なんだよ」

「夏休み前のお盆か。変な感じだな」

「東京はお墓まいりも盆踊りも七月だよ」

生粋の江戸っ子である藍子はそう言って胸を張る。


 参拝の順番が巡って来た。観音像の前では僧侶が木魚を叩きながら読経している。藍子はむせ返るような焼香の煙の中で清彦との恋が成就する事を願った。藍子は清彦の横顔を盗み見る。清彦は静かに合掌していた。

藍子と清彦が屋台のかき氷を食べていると読経を終えた僧侶がマイクを手に観音堂前で四万六千日の謂れを説明した。

「一升の中に四万六千粒の米が入っていると言われています。その事から四万六千日の功徳の考えが生まれました。観音様は全てご覧になっています。身の丈に合わない願いは叶えて貰えません。例えば一億円欲しいと願っている人がいるとします。観音様はその人の普段の行動を見て、この人に金を渡しても碌な結果にならないとお考えになったら、その人の願いは叶えません。ですので皆さんもその願いを叶える事によって誰がどう幸せになれるか考えて、観音様にお願いしましょう」


随分意地悪なことを言うお坊さんだなと藍子は思う。せっかく清彦と四万六千日の参拝に来れたの。清彦と結ばれたいという願いは自分の身の丈に合っていないと言いたいのだろうか。

「清彦さんは何のお願いをしたの?」

藍子は尋ねた。

「そういや何にも願わなかったな」

清彦は何とも心許ない返事をする。

「えっ?せっかくの四万六千日なのに?」

清彦は観音堂を見やりながら

「俺さ、先月ばーちゃんを失くしたんだよ」

「お祖母様が?」

それで先日のライブでは血相を変えて会場を後にしたのか。藍子は合点が行く。

「こうやって焼香の匂いを嗅いでいると、ばーちゃんの事ばかりを考えちゃって」

「そうだったの」

「俺が今音楽ができているのもばーちゃんのおかげかも」

「どう言う事?」

清彦と藍子は境内の石段に腰を下ろした。

「俺は長男で跡取りだから、強く逞しくあれって育てられた。小学校に上がったら、柔道か剣道を習えって父親から言われてさ」

「柔道をやっていたら今頃清彦さんは黒帯か。いいね男は当然のようの武道をやらせて貰えて」

「いやいや、俺はピアノをやりたかったんだ」

「両方やれば良かったのに」

「両立は出来ないよ。柔道なんかやったら絶対に手に怪我をする」

清彦は自分の右手を左手で庇うようにして言った。そう言えば私も合気道での怪我を口実にピアノのレッスンをサボり続けたなと藍子は思い出す。

「明日にでも柔道の稽古に連れて行かれそうって時に、ばーちゃんが父親に言ったんだ、清彦の好きにさせてやれって。男がピアノを弾いて何が悪い。男のピアニストだって指揮者だっているんだぞって」

「お祖母様、進歩的なんだね」

「しかもばーちゃんがピアノも買ってくれた」

「きっとお祖母様、清彦さんの才能を早くに見抜いていたんだね」

「才能があるかどうかはさておき、俺の一番の理解者だったな」

ここで清彦は息を吐く。

「ここから先は俺の懺悔なんだけど、俺さ、ばーちゃんがピアノを買ってくれるって言った時、てっきりグランドピアノが来ると思ったんだよ。でも家に来たのはアップライトで、ばーちゃんに文句言っちゃった」

「あはは、子どもらしいね」

「ばーちゃん、さすがに悲しそうな顔してたな。その時ばーちゃんに言われたんだ。清彦が会社を継いで、会社を日本一にすれば良い。日本一の会社の社長ならばグランドピアノを置けるお城みたいな家に住めるんだからって」

「お祖母様って教育者の鑑みたいな人だね」

「だから俺の夢はグランドピアノを好きなだけ弾けるようになること、かな」

しかし暑いな、と言って清彦は汗を拭う。藍子は暑さを理由に清彦が帰ることを恐れた。藍子は嫌味にならないように言葉を選びつつ、

「うちのピアノ、少し弾いてみる?古いけれどグランドピアノなの」

清彦は驚いた顔をする。

「家に妹がいるけれど、気にならないのならば是非どうぞ」

藍子は重ねて誘った。

「えーでもいいのかなぁ」

「こんな暑い日に外にいたら熱中症になっちゃうよ」

「じゃあお言葉に甘えて」

清彦は藍子の誘いに応じた。四万六千日の御利益だ、観音様の御慈悲だ。藍子は心の中で観音像に合掌する。そしてすかさず妹の楓にメールした。

「友達を一人連れて帰る。居間の片付けをよろしく。お茶菓子の用意もね」

楓からはすぐに返事が来た。

「了解。クッキーを焼いておく」

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