幕間
ロリーナさんがお熱出した数時間後です。
ーーーああ良かった。ようやく終われる。
水に沈む身体は、服が巻き付き思うように動かない。安堵で弛緩した身体が抵抗することもなく深く、深く闇に落ちていく。
波紋に揺れ沈む視界に、彼女がこちらに手を差し伸べようと必死に身を乗り出し、周囲の者から押し留められているのが朧気に映る。
その切羽詰まった顔が妙に私の心を掻き乱した。
私は・・・間違っていたのだろうか。
最後の最期に見たかったのは、そんな悲愴な姿ではなく、笑顔を浮かべるお前が良かったのに。
愛しているから、自由におなり。
世界中の悪を淘汰して、君に永遠の祝福を。
だから、どうか笑って、私のいない明日を生きてくれ。
「君に会えたことが1番の幸いだった」
言葉は音にならず、空気を孕んだ泡が口から零れるばかり。視界は暗く、意識は遠ざかっていく。
そうか、これで終わりなのか。
口端が緩く弧を描く。
ーーーようやく、終われるーーー
さわさわと風に擦れる葉音が耳に心地好い。
木陰にいたはずが、太陽の位置が変わるまで深く寝入っていたようだ。
院長を手伝って大量の洗濯物を干した上に、ろくに眠れていなかったせいか、疲労が溜まっていたらしい。辺りを見回すと、砂場で子供達が数名、泥まみれになっているくらいで、他は建物に引っ込んでしまっていた。
「・・・・・・・・・」
頬に濡れた感触が不快で目元を拭う。
「私は・・・、君にとっての幸いだったのだろうか」
こんなにも胸が締め付けられる想いを、私は知らなかった。
『知らなくて当たり前だ。俺はまだ、6歳の餓鬼なんだから』
あれからいく年が過ぎたのだろうか、彼女はまだ、この世界にいるのだろうか。
『彼女って誰だよ。俺には付き合っている女なんていないぞ』
忘れるわけがない。
彼女の名はーー・・・・・・
「ねーえー!!アル遊ぼーっっ!!」
「テブゥ!!」
エレナが横になっている俺の腹にダイブしたものだから、鳩尾に体重がもろに加わって中身が出そうになった。
「・・・でぶ?酷いよアル!!」
エレナよ・・・、意味のある単語じゃない。君の攻撃による悲鳴だよ・・・。
『大丈夫、君はデブじゃない。何処も彼処もガリガリだから、もっと脂肪を付けなさい』
衝撃に呻きながらも、体に鞭打ってよろよろと立ち上がりエレナと距離をとる。
そうしなければ、第二弾が発射されるかもしれないと恐れたからだ。
「あれ?アルどしたの?目が赤いよ・・・、泣いてたの?」
なんとかとった距離も、あっという間に詰められて、エレナが心配でたまらないといった様子で私の目元に触れた。
人の体温が久しぶりで、動揺と緊張で固まった私を気にするでもなく「赤いねぇ」と暢気に目元に残る涙の残滓を取り払っていく。
「アル何かあったの?」
子供の優しさが擽ったい。
なんとも面映ゆい気持ちになるのは、この優しさに私が慣れていないからかもしれない。
緋と大地が描き混ざった色は、エレナによく似合っている。耳の横に二つに結った髪が、彼女の動きに合わせて忙しなく揺れた。
彼女自身から放たれる生彩さに、我知らず目を細める。
「いいや・・・なんでもないよ。ちょっと怖い夢を見ていたまでさ」
本音を語る必要も無いと、適当にそれらしく誤魔化した。
だと言うのに、エレナが真っ直ぐに此方を見定める目は、年端もいかない子供と侮るには、力が強すぎた。
まるで、私の全てを知り尽くさんとする視線に、思わず被っていた『アルレルト』の仮面が剥がれ落ちる。
「貴方、だあれ?」
無邪気に問う子供に、私は無意識に手を伸ばした。
この細い首に手をかけて、言葉を狩ろう。
そうすれば、私が甦ったことを誰も彼も気付かないでいられる。
しかし、指先一つ分の距離に、細く柔らかい首があるというのに、それ以上、手が動かない。
何者かに動きを封じられたように、どれだけ力を入れても獲物に手をかけることができない。
目の前の首を、折るだけだというのに。
エレナは、無言で私の伸ばされた手を見た。
すると、逆に手を掴まれ引き寄せられる。普段と異なり、力にものをいわせず、柔らかく私を抱きしめた。
咄嗟のことに抵抗する気も起きない。私は成されるがまま、細い腕に身を委ねた。
自分から私に近づくという愚策に、この子は気付いてすらいないだろう。
これであれば、縊り殺すのも雑作ない。
「なんだ、アルだ・・・。おはよう、アル」
予想外の言葉に私は目を剥いた。
何を言っているのか、私はアルレルトではない。
『なんだそりゃ、エレナは相変わらず馬鹿だなあ。殺されかけてんだぞ『私』に』
何を考えているのだこの子は・・・。本当に理解ができない。
『そりゃそうだ、理解出来ないのが・・・・・・』
『エレナ、なんだよなぁ』
「おはよって・・・、エレナ〜もう夕方近いのにそれは違うんじゃな〜い?」
「えぇ〜、違うの?起きたら「おはよう」、寝る前は「おやすみ」よって院長先生も言ってたもん!ちゃんと教えてもらったことなんだから!!」
「どうだ!」とばかりに無い胸を張る彼女が、普段通り過ぎて言葉を失う。
エレナの言うことは、一つ二つズレている。でもそのズレが愉しくて、次第に二人でくすくす笑い合った。
「エレナ、ごめんな。なんか寝ぼけてたみたいだ。変だったでしょ、俺?忘れてよ、さっきの」
「うん分かった!忘れた!!!」
耳元で加減ない声量で宣言され、鼓膜が破れるかと思った。両手で耳を抑えて呻くが、後の祭りだ。
「忘れた」と宣言した通り、エレナは何も考えていないんじゃ?と思えるアホ面を引っさげていた。
コイツは本当に、1人で生きていけるのか端で見ていて不安になる。
「それはそれで、エレナの記憶力が不安になるんだけど。大丈夫?皆の顔と名前、忘れてない?」
「たまに顔と名前が一致しない!!」
「やっぱ一致せんのかい!!」
当たり前だろう?というぐらいに平然と答えた彼女に、力の入ったツッコミを思わずしてしまった。
仕方ない・・・仕方ないだろう!四六時中生活を共にしている相手を忘れるって凄いことだぞ。
呆けたシニアか、おどれは!
「でもね、アルのことはちゃんと分かるよ!!」
「え・・・・・・」
ニッコリと邪気のない笑顔を向けられ、毒気を抜かれた。
「アルはね、優しいし、私達のことちゃんと見てくれるから、アルだけは絶対に間違えないよ。今もアルだって分かったからね」
断言する彼女に、「忘れてないじゃないか」と余計なことを考えていた。
エレナはお気楽で鈍感、間抜けな一面もあるけれど、決して馬鹿でも愚かでもない。
人の内面をしっかりと見極めて、頼れる相手を選別している。それを無意識で行っているみたいだ。
彼女には、打算やずる賢さ、悪辣さだとかが一切感じられない。
「・・・・・・そっか・・・」
馬鹿らしいとか、意味が分からないとか、話しを有耶無耶にするべきなのだろうが、俺は嬉しさを感じずにはいられなかった。
エレナは、どんな俺でも見つけてくれるのだと、そう言ってくれているようだった。
反面、彼女を殺そうとした『私』にゾッとした。
意識が『私』に溶け込み、体が操られるように動いた。『俺』の体の筈なのに、心も体も一緒になったみたいに。
エレナを、皆を、傷付けようとしてしまうのではないか、次は手が出てしまうのではないか。
困惑も恐怖も抱く感情全てが本当に『俺』のものなのだろうか。
俺はまだ、皆にとってのアルレルトで在れるのだろうか。




