13・解き放たれた心
宿の外に出ると、鉛色の空から小雨がシャワーのように降りそそいでいた。
ルミは行く宛もなく道路を渡り、京都御苑の中をさ迷い歩いた。ベンチを見つけて腰かけ、少し心を落ち着かせようとしていたが、小雨は次第に大粒の雨に変わっていった。
傘も持たずに外に飛び出したルミだったが、今更自分の部屋に戻って傘を持ってこようとは思わなかった。部屋に戻って、再び全裸の礼子やギタリストの男と鉢合わせるなんて、考えるだけで吐き気がした。
ルミは雨宿りできそうなところを探し、多くの人で賑わう寺町通や新京極を歩いていた。賑やかな一帯には、時間を潰せそうな喫茶店やレストランが沢山並んでいた。しかし、いずれの店も金額が高く、ルミのような田舎の高校生には敷居が高い所ばかりであった。ルミは結局新京極を諦め、多くの車が行き交う河原町通りに出ると、目の前に「四条河原町」の表示が見えた。
『四条河原町の、京阪エクセレントホテルにいるから』
明の言葉が、突如ルミの頭の中によみがえった。
ルミは明の言葉や行動に馴れ馴れしさを感じ、安易に付いて行ったら何をされるか分からないと思って一目散に逃げてきたはずなのに、気が付けば相手の言うがままになるかのように四条河原町の片隅に立っていた。
雨は徐々に強さを増し、路面を激しく叩きつけていた。視界もきかず、いつの間にか目の前は真っ白になっていた。ルミは髪も服もずぶ濡れになりながら、歩道の上で立ちつくしていた。
その時、真っ白な景色の中で「京阪エクセレントホテル」と書かれた看板がぼんやりとルミの視界に入った。
看板を目にしたルミは、このまま中に入ろうか悩んでいた。その時、入り口に立っていた警備の男性が声を掛けてきた。
「何か御用ですか?」
「……何でもないです」
「そうですか? さっきからずぶ濡れになりながらホテルの周りをウロウロしていましたよね?」
警備員は首を傾げ、訝し気な表情を見せていた。
「実は……先ほど赤城明さんと会って、ここに居ると聞いたものですから」
「赤城さんに御用ですか? ちょっと待ってくださいね」
警備員は明の名前を聞くと、ルミを追い返すこともなく、ドアを開けてフロントに声を掛けていた。
ルミはドアの前で立ち尽くしていたが、やがてドアが開き、傘を差した男がパーマのかかった長い髪を振り乱しながら徐々にこっちに近づいてきていた。
「誰かと思ったら……やっぱり、君か。何で傘もささずにここにいるんだ?」
明がそう話した瞬間、ルミの目には突然涙が溢れてきた。
明は傘を手に、ずぶ濡れのまま嗚咽するルミを見つめていたが、やがて傘を置き、両手でルミをそっと抱き寄せた。
「え? 赤城……さん?」
明は華奢な見た目と違ってがっしりとした体格で、服の上を通して感じる厚い胸板は、ささくれ立っていたルミの心を不思議と包み込んでくれているように感じた。
「僕の部屋で、しばらく休んでいきなさい。こんなずぶ濡れで風邪をひいて、明日以降の撮影に参加できなかったらどうするんだ? スタッフや共演者を含めてみんなに迷惑がかかるんだぞ」
明はルミを片手で抱き締めながら、か細い声で叱責した。
いつものルミならば警戒して断る所だが、明の胸の温かい感触に包まれるうちに、硬く閉ざした心が少しだけ解きほぐれていた。
「……じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
すると明はルミの頭上に傘を差し、手招きをしてホテルの建物の中へと導いた。
明の泊まっている京阪エクセレントホテルは、京都でも有数の高級ホテルだった。大きなロビーには何人もホテルマンが待機し、スーツ姿の外国人がソファーに座りコーヒーを片手にくつろぐ姿も見られた。明はロビーで待機していた付き人の男性に何かを話しかけた後、ルミと共にエレベーターに乗った。
「僕の部屋は六階だ。晴れていれば街を一望できるんだけど、今日はこんな天気だから無理だな」
明は苦笑いを浮かべると、鍵を手にドアを開けた。
部屋の中はシャンデリアが煌々と輝き、壁には西洋風の瀟洒な絵画が飾られていた。明はソファーに座ると、備え付けの棚からコーヒーカップを二つ取り出した。
「今、コーヒーを淹れる準備をするから、浴室に行ってシャワーを浴びて来いよ。濡れた服はそこのランドリーバッグに入れといて。着替えならさっき付き人にお願いして、この辺のデパートで買ってくるようにお願いしたから。それまではそこに置いたガウンでも着ておくれよ」
「あ、あの……私なんかにそこまでしてもらわなくても」
「気にするな。さっきも言っただろ? 僕はただ、君にはいい演技をしてもらいたいだけなんだ。さ、遠慮なんかするな、早くシャワーにいきたまえ!」
「はい……」
明に強く促されるままに、ルミは部屋の片隅にある浴室に向かった。テレビでしかみたことのない大きな浴槽のとなりにはシャワールームがあり、置いてあるシャンプーやリンスも包装からして高級そうな感じがした。
自分のようなチョイ役の田舎の高校生が、こんな綺麗な場所を利用していいものか――ルミはしばらく頭を抱えていたが、雨に濡れた後の全身の冷えは我慢できず、服を脱ぎ、シャワーから噴出する温水でぬれた髪や身体を温めた。
全身が温まると、ルミは全身をタオルで拭い、明から渡されたガウンを羽織った。
部屋の中には、コーヒーの香ばしい匂いに包まれていた。
「どう、少しは身体が温まった?」
「はい。ありがとうございます」
「これ飲んだら、もう少し温まるかな? 僕、コーヒーが好きでね。いつもドリップバックを持ち歩いているんだ」
明は濃厚な豆の香りのするコーヒーをルミに手渡すと、ルミはそっと口に流し込んだ。若干の苦みはあるものの、見た目よりも飲みやすく、思わず一気に飲み干していた。
「おいおい、味わいもせず豪快に飲むんだね」
「だって、我が家はみんな、お茶もコーヒーもすすりながら一気に飲んでますし」
「アハハハ、面白いね、君んちは」
明はルミとおそろいの模様のカップを手に、音を立てることなくゆっくりと飲み干した。
「ところで、下世話な質問だけど……何で自分の宿に戻らなかったんだ?」
「その理由は、正直あまり話したくはないです」
「大丈夫、他言はしないし余計な詮索もしないから。洗いざらい言った方が楽になるぞ」
明に絆され、ルミは自分の部屋で起きたことを洗いざらい話した。
「アハハハ、そりゃ刺激が強かっただろうね。でもな、男と女は、そうやって関係を深めていくんだ。君もいつの日か、そういう時がくると思うよ」
「わ、私も?」
「そうだ。僕もこう見えて昔、好きな人がいてね。撮影のない時は自分の部屋でとことんまで愛し合っていたよ。残念ながら、別れちゃったけどな……」
そこまで話すと、正面に座る明の表情は次第に曇っていった。
明は随分前に交際相手と別れたという話を礼子から聞かされてはいたものの、まさか本人の口から聞かされるとは思いもよらなかった。
二人の間にはしばらく重い空気が流れていたが、その時突然、誰かが部屋のドアを叩く音がした。
明がドアを開けると、そこには付き人の青年が立っていた。両手には、大きな紙袋をぶら下げていた。
「赤城さん、お待たせしました。こちらでよろしいでしょうか?」
「ありがとう。ああ、そうだ。この子の帰りのタクシーを呼んでおいてくれないか? まだ雨が降ってるんだろう?」
「そうですね。分かりました」
付き人がドアを閉めると、明は紙袋から服を取りだし、ルミの目の前に置いた。
「着てみてごらん。サイズは君の見た目で大体この位かな、と思ってたけど、もし合わなかったらごめんな」
ルミは渡された洋服をもって、浴室の中に入った。
渡された洋服は、緑のチェック柄のノースリーブのミニワンピースだった。胸元にリボンが付いた清純な雰囲気の洋服で、アイドルの麻丘めぐみが着ていそうな感じがした。
「おお、すごく可愛いよ。似合ってるじゃないか」
「あの……申し訳ないですが、全然合わないです」
「サイズが?」
「違います。こんなアイドルの衣装みたいなワンピース、私みたいな田舎の子が着ても似合わないですよ。これ、お返しします」
「遠慮なんかするな。それに、君が着てきた洋服、乾くにはまだまだ時間が必要だぞ。撮影が終わるまでに僕の方で洗濯しておくから、今日はその服を着てくれないか?」
「でも……」
「さっきも言っただろ。君には心惹かれるものがあるんだ。僕は、君にこういう服を着てほしいんだ」
明は突如立ち上がると、ルミのすぐ目の前に立った。
「僕の見立て通りだ……君は本当に可愛い。昔好きだった子と同じようなものを、君に感じるんだ」
明はルミの顎に手を当て、目を見開き、凛々しい顔つきで真っすぐルミを見据えた。
人気俳優と言われるだけあり、その目力だけでルミの心は奪われそうになった。
二人の唇は、次第に少しずつ近づいていった。
ルミの胸の鼓動は徐々に激しくなっていったが、明はそんなルミの髪を優しく撫でて気持ちを落ち着かせようとしてくれた。
唇が重なり、彼の吐息が口の中に入り込んだ。舌が交わり、お互いの唾液が口の中で入り交じるうちに、固く閉ざしていた心が次第に解き放たれていくように感じた。
その時、静寂を破るかのように付き人が音を立てて扉を開けた。
「赤城さん、手配したタクシーが到着したようです」
すると赤城はため息をつき、「ノック位しろよ」と小声で恨み言を言うと目線を少し下げた。
「わかった……今行くから待っててもらってくれ」
明は「行こうか」と言ってルミの肩を叩くと、ルミはようやく正気に戻り、慌てた様子で頷いた。
ホテルの入り口には既に一台のタクシーが待機していた。
「明後日がいよいよ撮影日だ。いい演技、期待してるぞ」
そういうと、明はルミの背中を軽く押した。ルミは突然明に押されて体勢を崩しながら、タクシーの後部座席に乗り込んだ。運転手はルミが乗ったのを確認するや否や、ハンドルを動かしてホテルの玄関から目の前の河原町通りへと一気に走り出していった。
背後では、明が笑みを浮かべながらずっと手を振ってくれていた。
タクシーの後部座席に乗ったルミは、胸の鼓動が未だに高鳴っていた。そして、心の中には余韻のように妙な開放感が残っていた。それは、ずっと閉ざしてきた扉がふとした瞬間に解き放たれたような、不思議な感覚だった。




