エピローグ また明日を願って
世界から「影」は消えた。
未曾有の災厄も、街を覆った永劫の夜も、すべては最初から存在しなかったかのように。
駆は、いつものように学園の廊下を歩いていた。学園追放の事実も、怪物としての右腕も書き換えられ、彼はただの「少し物忘れの激しい生徒」として、平穏な日常に埋没していた。
(……何か、忘れている気がする)
教室の窓から見える空は、どこまでも青い。
かつて自分が誰を救おうとし、誰に首を絞められたのか。その記憶は、指の間からこぼれる砂のように、意識の端から消え去っていた。
放課後。
駆は、なぜか足が向いたあの公園のベンチに座り、夕焼けを眺めていた。
――ガサリ。
背後の茂みが揺れ、軽やかな足音が近づいてくる。
駆の心臓が、説明のつかない恐怖と歓喜で、壊れそうなほど激しく脈打った。
「……っ」
振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
戸籍にも、学校の名簿にも存在しないはずの少女。
彼女は、駆からは見えない背後で、小ぶりなナイフを逆手に握りしめていた。夕闇に紛れ、その冷たい刃だけが、静かに獲物の喉元を狙うように剥き出しになっている。
だが、少女の顔には、ふわりとした微笑みが浮かんでいた。
「――お兄ちゃん」
駆の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
記憶はない。理由も分からない。けれど、その声を聞いた瞬間、駆の世界に再び鮮やかな色彩が流れ込んでいく。
少女は一歩、駆に歩み寄る。隠されたナイフの先が、わずかに震えていた。
「また明日も、一緒にいようね?」
その言葉が終わるより早く、駆は、震える手で彼女を強く抱きしめた。
あまりにも無防備に、自らの急所を差し出すような、魂の抱擁。
――カラン。
少女の背後、隠されていた指先から力が抜け、静かな地面にナイフが落ちた。
しかし、刃には血の一滴もついていない。
駆はその乾いた音にさえ気づかないほど深く、彼女の体温を全身で感じていた。
完
※本作はここで『完結』になります。
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