第39話 本能の暴走
誰を、何を、なぜ守りたかったのか。その全ての記憶 脳が焼けるような異臭がした。
駆の頭蓋の内で、最後に残っていた「妹」という概念の残滓が、黒い泥に飲み込まれて完全に消滅した。
「……あ。……あ、……」
言葉が、意味をなさなくなる。
駆の身体が、内側から激しく脈動し、骨を組み替える嫌な音が戦場に響き渡った。
右腕だけでは足りないと言わんばかりに、背中から、胸から、無数の黒い棘が突き出し、制服を引き裂いていく。
「はは……ハハハハハ! 見ろ、これだ! これこそが、あの夜に私を魅了した至高の『絶望』だ!!」
元凶の男が歓喜に震える。
泥は重力を無視して膨れ上がり、駆の細い身体を呑み込んで、全長数メートルに及ぶ【第二形態】へと再構築されていく。
それは、四足歩行の獣のようでありながら、無数の「影の腕」が体中から生え、顔には目も鼻もなく、ただ巨大な裂け目(口)だけが存在する悍ましい異形だった。
15年前、両親の肉を蹂躙し、陽葵の心に癒えない傷を刻んだ、あの悪夢そのものの姿。
「……オ、……オォ、……アアアアアアアアアッ!!!」
獣の咆哮が、大気を震わせる。
もはや駆の意識はどこにもない。そこにあるのは、ただ目の前の動くものを「排除」し、喰らい尽くすだけの本能の塊。
獣は、一瞬で元凶の男の目前まで跳躍した。
男の影の障壁を紙のように引き裂き、その肩を食い破る。
「ぐ、あ……ッ! さすがだ、黎明! 理性という枷が外れた君は、これほどまでに――」
男が言い終わる前に、獣の「腕」が彼の胴体を叩きつけた。
だが、獣の矛先は男だけではなかった。
戦慄して立ち尽くしていた学園の教官たち、バリケードの陰で震える生徒たち。
獣にとって、それらはすべて「排除すべき障害物」に過ぎない。
黒い泥の触手が全方位に放たれ、校庭の建造物を粉砕し、逃げ惑う人々を無差別に薙ぎ払っていく。
そこには、かつて「無能」と蔑まれながらも研鑽を積んだ少年の面影はない。
そこには、妹の幸せを願って地獄を歩んだ兄の心もない。
記憶を失った黒き獣は、かつて自分が何よりも大切にしていた「世界」を、自らの手で更地に変えていく。
皮肉にも、駆が最も恐れていた結末――【守りたいものさえ忘れて、すべてを壊す怪物になること】が、今、完璧な形で達成された。
泥濘の戦場に、ただ獣の歪な呼吸音だけが響く。
その時、校舎の角から、息を切らせた一人の少女が駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「お兄ちゃん! 持ってきたよ、……デバイス……」
陽葵が手にした「嘘の預かり物」を抱え、戦場へと戻ってくる。
彼女の目の前に広がっていたのは、瓦礫の山と、その中心で血を滴らせている、正体不明の巨大な怪物だった。




