第三十一話 閑話 レインハルト子爵
王城の一室で、私は差し出された書面を見つめていた。
領地の境界を示す図。その横には、王家の裁可を受けた書面がある。
この数か月、家令とともに私有の土地を処分し、債権者との調整を続けてきた。
それでも、伯爵家を今までと同じ規模で維持する見通しは立たなかった。
領地の一部を他家へ移す許可を求めたのは、私自身だ。
収支と引き継ぎの計画を提出し、何度も説明に来た。
王家から示されたのは、移管の許可と、残す領地に合わせてレインハルト家を子爵家とする決定だった。
「こちらに、ご署名を」
手続きを取りまとめる高官に促され、ペンを取る。
署名欄の上で、目が止まった。
レインハルト子爵。
事前に説明は受けていた。
署名してしまえば、もう戻れなくなる。そう思うと指が強張った。
父から爵位を継いだときには、家をさらに栄えさせるつもりだった。
それが、私の代で。
「……失礼しました」
息を整え、署名した。
ペンを置く音が、やけに大きく聞こえた。
移管先から受け取る代金は、返済へ回す。
すべてを返し終えられるわけではないが、残額は大きく減る。家の支出も縮め、以後の支払いを続ける計画だ。
「これで、必要な確認は済みました」
高官が書面を引き寄せた。
私は椅子から立ち上がり、頭を下げる。
「お手数をおかけしました」
相手は一度、私を見た。
「家を支えるものは、土地ばかりではなかったでしょうに」
「それは……」
売った家財のことだろうか。それとも、父の代から続く付き合いのことか。
相手の視線はもう書面へ戻っていた。
控えを受け取り、一礼して部屋を出る。
廊下を歩きながら、鞄の留め具を閉じた。
返済を進められる。家も残せる。そのために、ここまで話を進めてきたはずだ。
だが、頭から離れないのは、署名欄の上にあった爵位だった。
角を曲がろうとしたところで、数人の話し声が聞こえた。
壁際へ寄り、道を譲る。
「隣国から戻った使節の報告にも、同じ商会の名が出ていましたよ」
「あの揃いの装いですね。扱う店も増えているとか」
商会の話か。
そのまま歩き出そうとして、次に聞こえた名前に足が止まった。
「ベルフォード商会をお招きする件は?」
「当主と、現地を取りまとめたお嬢さんに。帰国されたそうですから、日取りを――」
一行は、私の前を通り過ぎていった。
現地を取りまとめた娘。
おそらくエレノアのことだろう。
ベルフォード商会が、王城へ招かれる。
私の知る限り、これまで王城との取引はなかった。
支払いと土地のことに追われ、この数か月、夜会や茶会への招待を断っていた。
彼女の名前を聞く機会もなかった。
隣国で、そんな仕事をしていたのか。
商会の話をするときの、エレノアの顔が浮かんだ。
手紙を持って私を振り返り、新しい取引の話をしていた。
何を扱う取引だっただろう。
その話を遮り、家のために動いてほしいと、何度も言った。
先ほどの高官の言葉が蘇る。
あれは、エレノアのことだったのだろうか。
鞄を持つ手に力がこもった。
私の隣で目を輝かせていた人が、今は私の知らない場所で仕事を認められている。
迎えの馬車まで、誰とも目を合わせないようにして、歩いた。
***
その後、移管先からの代金は、取り決めどおり返済へ回された。
家令が差し出した明細には、これまでより小さくなった残額が記されている。
「次の支払いは、こちらの予定で進めます」
「ああ。頼む」
数字の横へ確認の印をつける。
これからは、この規模で家を守っていくしかない。
その頃、クラリッサから、会いたいと手紙が届いた。
約束の時刻に応接室へ入ると、彼女は膝の上に手を重ねて座っていた。
新しい香水も、仕入先の書状も持っていない。
「久しぶりだな」
「ええ」
向かいへ腰を下ろすと、クラリッサは私を見た。
「お店を閉めましたの。明日、領地へ帰ります」
「……そうか」
いつか、その言葉を聞くかもしれないとは思っていた。
「ご両親には?」
「知らせてありますわ」
「支払いは、どうなった?」
「残っていた香水と、自分で買った棚や鏡を売りました。そのお金を、仕入先への支払いに充てて」
彼女はそこで一度、息をついた。
「借りていたお店の内装も、元に戻さなければなりませんでしたの。その分は、取り置いていたお金から払いました」
「明け渡しも、済んだのか?」
「ええ。鍵も返しました。手元には、あまり残りませんでしたわ」
クラリッサは膝へ視線を落とした。
私は何か言おうとして、口を閉じた。
また店を開けばいい。
以前の私なら、そう言ったかもしれない。そのために何が必要なのかも、確かめずに。
卓の上には、お茶が二つ置かれている。
どちらも、手をつけないまま冷めていく。
「そちらのことも、伺いました」
「ああ」
爵位のことだとわかった。
今度は私が、視線を落とした。
彼女と結婚するつもりでいた。
エレノアとの離婚を待ってほしいと、何度も伝えていた。
だが、その先の暮らしを彼女と築くことはなかった。
今日は、もう少し待ってほしいとは言えなかった。
クラリッサは黙っていた。
私も、彼女とこれからどうするのか、言葉にできない。
「……道中、気をつけて」
ようやく口にすると、彼女の指先がきゅっと重なった。
しばらくして、ゆっくりとほどける。
「ええ。あなたも、お身体を大切になさって」
クラリッサが立ち上がり、私も腰を上げた。
「クラリッサ」
彼女が振り返る。
呼び止めてから、言葉を探した。
帰らないでほしいと言って、私は何を約束できるのだろう。
彼女は少し待ち、それから静かに頭を下げた。
「さようなら、アーヴィン」
扉が閉まる。
私は立ったまま、その音を聞いた。
卓には、飲まれなかったお茶が残っている。
向かいの席へ目をやったが、もう誰も座っていなかった。




