第三話 伯爵夫人のわたし
結婚式の翌朝、わたしはレインハルト伯爵家の寝室で目を覚ました。
見慣れない天井に、家具。それに、窓から差し込む朝の光さえ、ベルフォード家にいた頃とは違う。
「わたし、本当に結婚したのね」
ぽつりと呟いて、胸元に手を添えた。
婚礼を前に彼の父である先代伯爵から爵位を継いだアーヴィンは、正式にレインハルト伯爵となっている。
つまり、アーヴィンの妻であるわたしはもうレインハルト伯爵夫人。
不思議と胸の高鳴る音を感じた。わたし、わくわくしてる。
チリンとベルを鳴らすと程なくして侍女がやってきて、朝の支度を整えてくれる。
髪をまとめ、淡い緑色のドレスに着替えさせてもらう。
鏡の中の自分を見つめ、少しだけ背筋をのばした。
わたしはエレノア・レインハルト。
「さあ、奥様。お支度が終わりました。旦那様がお待ちです」
「ありがとう」
食堂へ向かうとアーヴィン様がすでに席についていた。
「おはよう、エレノア。よく眠れたかな?」
「おはようございます、アーヴィン様。もう、ぐっすりでした」
「そうか、よかったよ。もう、”様”はいらないよ、夫婦なんだから」
「そうですね、アーヴィン」
わたしは彼の言葉に少し照れながらも微笑んだ。
嬉しいな。距離が縮まった気がするわ。
他愛もない会話をしながら朝食を楽しんでいると、彼はふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、父から聞かれたのだが、婚前に話していた融資の件。ベルフォード商会への相談はもうしてくれたかな?」
「あ……まだです。結婚の準備が忙しくて……申し訳ありません」
「いや、謝らなくていいんだ。忙しかったのは理解しているから。急がなくてもいいが、できれば早めにお願いしたいんだ」
「わかりました。今日、父に手紙を書きますね」
「ありがとう、助かるよ」
彼の父から頼まれていた件、すっかり後回しにしてしまっていた。
結婚の準備があったとはいえ、責められなくてよかった。
妻として、夫の家のために実家へ相談するのは当然だもの、急いでお手紙を用意しましょう。
午前は家の用事を済ませていたため、午後に自室で机に向かい、父への手紙を書いた。
「ええと。領地の修繕などに必要な融資よね。これでいいかしら……」
書き終えた内容を読み返しながらふと、思った。
実家をでてからまだ一日しか経っていないのに、もう融資のことを頼んでいるだなんて、ちょっと不思議かもしれないわ。けれど、夫を支えるためには必要なのだから、そう納得した。
数日後、お父様から届いたお返事には、『条件を確認した上で検討する』と書かれていた。
アーヴィンにも見せなくては、そう思って彼の執務室に向かい、父からの返答の説明をした。
「できるだけ力になりたい、と書いてありました」
「ありがとう。君に頼んで正解だったよ」
「わたしも、少しでもお役に立てて嬉しいです」
「頼りにしているよ、エレノア」
アーヴィンはそう言って、わたしに微笑んだ。
ああ、よかった。喜んでもらえた。そう、思った。
***
結婚して、ひと月ほど経った頃、わたしは伯爵夫人としての生活に慣れてきていた。
もともと人付き合いは得意であったし、お父様が令嬢としての教養も身につけさせてくれていたから、社交界でも苦労しなかった。
もちろん、緊張はするけれど。
覚えなくてはならないことは多いけれど、真面目に取り組んでいたわたしをよく手伝ってくれる使用人との関係も良好だし、領地から届く書類の確認も最近は任されるようになってきた。
空いた時間には、実家からの手紙を読んだり、返事を書いて過ごしていた。
商会の近況が気になるもの。
わたしが実家からの手紙を読んでいると、アーヴィンが部屋に入ってきた。
「エレノア、何を読んでいるんだ?」
「実家からの手紙です。最近、新しい取引先が増えたそうです。東の地方からも注文が来ているみたいで――」
にっこりと笑って答えると、彼は軽く頷いた。
「そうか。ところで、レインハルト家で仕入れ先を見直すという話をしていただろう?いくつか紹介してもらえないだろうか?」
「もちろんです」
「それから、できれば条件も聞いておいてほしい」
「わかりました。父に聞いてみますね」
「ありがとう、エレノア」
彼から頼ってもらうこと、助かると言ってもらうこと、ありがとうと感謝してもらうことがとても嬉しい。
妻として必要とされている。そう思っていた。
***
けれど、それは少しずつ変わっていった。最初はお願いだった。
『これを、ベルフォード商会に聞いてもらえるかな』
『この取引について確認してくれる?』
『君ならわかるだろう?』
わたしはそう言われるたびに応えた。ベルフォード商会や父に相談の手紙を書き、必要な資料を取り寄せ、アーヴィンへ取り次ぐ。それが何度も続いていた。
ある日の夕食で、アーヴィンがわたしの方を見て口を開いたので、わたしは食事の手を止めた。
「エレノア。あの件はどうなっている?」
「ええと。どちらの件でしょうか」
「はあ。ベルフォード商会との取引に関する件だよ」
「あ……そちらはまだ父から返事がなくて」
アーヴィンはため息を吐いて、少しだけ眉を寄せて、もうこちらは見ていなかった。
「君から聞けば、もっと早いと思ったんだが」
「申し訳ありません。明日にでも、もう一度確認してみます」
「いや、君を責めているわけじゃない。ただ、レインハルト家のことなのだから、もう少し気にかけてもらえると助かる」
そう言って、彼は食事を続けた。
「……はい」
わたしは小さく頷いた。
”レインハルト家のこと”そうよね。しっかりしなくては。
わたしは、この家の人間だ。
***
それからしばらくして、ベルフォード商会から届いた書類を、わたしが確認しているとアーヴィンが後ろから声をかけてきた。
「何をしているんだ?」
「父から届いた商会の資料です」
「まだ、商会の仕事をしているのか?」
「いえ、仕事というほどではありません。少し確認していただけです」
「そうか」
アーヴィンは書類に目を向けた。
「君はもうレインハルト家の妻なんだから、商会のことはお父上に任せればいいんじゃないか?」
「……でも、父から相談を受けることもありますし……」
「ベルフォード商会には優秀な人間がたくさんいるんだろう。君がそこまで気にする必要はないよ」
穏やかな口調で、なんだか反論できなかった。
わたしは書類をそっと閉じて、頷いた。
「……わかりました。これからはもう少し気をつけます」
「ああ。そうしてくれると助かるよ。君には伯爵夫人として、もっと覚えてもらいたいことがあるからね」
「はい」
アーヴィンがにこやかに言うから、わたしも笑顔で応えたけれど、すこしだけ胸につかえるものがあった。
婚約している時はもっと聞かせてほしいと言っていたのに。
わたしが頼りになると喜んでいたのに。
そう、頭をよぎったけれど、結婚してみたら状況がちがったのかもしれないわ。
わたしの役割も変わっていくのかもしれない、そう思った。
「わたしにできることなら、なんでもします」
わたしの口癖になっていた。
アーヴィンは当然のように、その言葉を受け取るようになっていた。




