第十九話 恋人として
「エレノア、何かいいことがあったの?」
朝食の席で、お母様に声をかけられた。
顔を上げると、向かいからわたしを見て微笑んでいる。
「どうして?」
「さっきから、ずっと嬉しそうだから」
慌てて口元を引き締めた。
昨夜のことを思い出していたのが、顔に出ていたのかしら。
「……そんな顔をしていた?」
「ええ。とっても」
お母様はそれ以上聞かず、紅茶に口をつけた。
わたしはパンへ視線を落とす。
気をつけようと思うほど、ルシアンの笑顔が浮かんできてしまった。
***
数日後、商会で仕事をしていると、ヴァレンティ商会から手紙が届いた。
発注数と運送の日程についての確認だ。
返事に必要な資料を揃えながら読み進めると、最後に一文、付け足されていた。
『今夜、仕事が終わったあとに少し会えないかな?』
わたしは机の端にある予定表を引き寄せた。
今日中に済ませる仕事を確かめて、返事を書く。
取引についての回答を終えたところで、ペンを止めた。
会いたいです、と書くのは恥ずかしいかしら。
少し迷ってから、そのまま書き添えた。
仕事を終えて待ち合わせ場所に向かうと、ルシアンが手を振ってくれた。
「エレノア」
「お待たせしました」
目が合うと、彼も少し照れたように笑う。
わたしは差し出された手を取った。
歩き始めてしばらくすると、ルシアンが口を開いた。
「仕事のことなんだけど、一つ決めておきたいことがあるんだ」
「何でしょう?」
「商会では、今まで通りにしよう。僕たちが付き合い始めたことで、仕事をやりにくくしたくないから」
わたしは頷いた。
「わたしも、仕事ではきちんと商人として向き合いたいです。意見が違うときも、遠慮せずに話したいですし」
「うん。そうしてほしい」
すぐにそう答えてくれたので、ほっとした。
仕事で気を遣って、言いたいことを飲み込むようにはなりたくないもの。
「その代わり、仕事が終わったら、ちゃんと恋人として会いたいな」
ルシアンがつないだ手を少し持ち上げる。
「……今も、そのつもりで来ています」
「うん。返事、嬉しかった」
その日は、近くの店を覗きながら街を歩いた。
仕事の間にあったことを話し、広場で足を止めて、また話す。
家の近くまで送ってもらい、手を離した。
「今日はありがとう。会えてよかった」
「わたしもです」
「じゃあ、またね」
彼が一歩離れようとしたとき、わたしは彼の上着の裾をつかんでいた。
「また、すぐ会いたい」
ルシアンが振り返る。
「僕も。三日後はどうかな?」
「……空いています」
「じゃあ、決まり」
彼はわたしの手を取り、少し顔を覗き込んだ。
「ねえ。二人でいるときは、敬語をやめてみない?」
「急には、難しいかもしれません」
「今みたいに話してくれるの、嬉しいんだ。少しずつでいいから」
「……うん。そうしてみる」
わたしが少し考えて頷くと、ルシアンは嬉しそうに笑った。
***
約束の日、待ち合わせの広場に着いて時計を見上げると、約束の時間まで十分ほどあった。
「エレノア」
「ルシアンも、早かったのね」
「早く会いたくて」
「……わたしも」
隣で彼が笑う気配がした。
その顔を確かめる前に、わたしから手を差し出す。
「行きましょう」
「そこは敬語なんだ?」
「あ。……意識すると、難しいの」
「うん、ゆっくりでいいよ」
彼はわたしの手を取って、歩き出した。
今日は、行き先を決めていない。
雑貨店の店先を眺めたり、気になった路地へ入ってみたり。
本屋を見つけて、二人で中を覗いた。
棚に並んでいたのは、隣国のお菓子について書かれた本だった。
開いてみると、見たことのない焼き菓子の絵が載っている。
「これ、食べたことはある?」
わたしが指さすと、ルシアンが隣から覗き込んだ。
「あるよ。かなり甘いんだ」
「では、ルシアンはあまり得意ではないのね」
「うん。好きな人に覚えていてもらえると、嬉しいね」
***
夕方、ベルフォード家へ向かう道で足を止めた。
「今日は楽しかったね」
「ええ。次は、あの本に載っていたお菓子も食べてみたいわ」
「じゃあ、探してみようか」
そう答えたルシアンが、ふとわたしを見つめ、頬へ向かって、手を伸ばしてきた。
急に顔が近くなって、わたしは動けなくなる。
これ、目を閉じたほうがいい?
指先が髪に触れた。
「葉っぱがついてた」
彼の指には、小さな葉が一枚つままれている。
「……ありがとう」
わたしは顔を背けた。
「エレノア?顔が赤いけど」
「なんでもないわ」
「もしかして――」
「言わないで」
慌てて遮ると、ルシアンは口元を押さえた。
「笑わないで」
「ごめん。からかうつもりじゃなかったんだ」
わたしが見上げると、彼は笑いを収めた。
それから少し困ったような顔で、わたしを見る。
「僕も、結構我慢してるんだけどね」
「……何を?」
「秘密」
もう一度、手が伸びてくる。
今度はわたしの髪を、そっと耳へかけた。
「今日は、これくらいにしておく」
ルシアンはいつものように微笑んで、一歩離れる。
「またね、エレノア」
「……うん。またね」
さっき期待してしまったことまで、気づかれていませんように。




