第十六話 気づいてしまった気持ち
ルシアンが帰国したと知らせが届いたのは、朝のことだった。
ヴァレンティ商会からの書類に添えられた一文を見て、わたしは顔を上げた。
「帰ってきたのね」
会いたい。
すぐにそう思ってから、手元の書類へ目を戻す。
出張のことを教えてくれなかったのは、まだ少し気になっている。
けれど、ようやく会える。それが嬉しくて、その日の打ち合わせに持っていく資料を揃える手が早くなった。
***
「エレノア。ただいま」
ルシアンの執務室へ入ると、彼は笑顔で迎えてくれた。
久しぶりに聞く声に、胸が温かくなる。
「……おかえりなさい、ルシアン」
言いたいことはいろいろある。
出張はどうだったのか、疲れていないか。わたしも、この間こんなことがあったのだと話したい。
けれど、顔を見ると何から話していいのかわからなくなってしまった。
案内された席に座り、鞄から資料を取り出す。
まずは、お仕事をしなくては。
打ち合わせはいつもどおり進んだ。
彼が隣国で確認してきたことを聞き、こちらの出荷予定を伝える。けれど、ふと目が合うと、わたしはすぐに書類へ視線を戻してしまった。
話が一段落すると、彼はペンを置いた。
「エレノア。何かあった?」
「何がですか?」
「今日は、あまりこっちを見てくれないから。僕、何かしたかな」
「……何もしていません」
そう彼は何もしていない。
出張の予定を知らなかっただけだもの。
彼が少し考えるように黙ったあと、こちらを見た。
「もしかして、出張のこと?」
顔が熱くなった。
わたしはそんなに、わかりやすい顔をしていたのかしら。
「……代理の方から、伺いました」
「うん。あの日、話すつもりだったんだ。しばらく王都を離れるって」
「では、どうして……」
「忘れてしまったんだ。エレノアと過ごすのが楽しすぎて」
思いがけない答えに、わたしは黙ってしまった。
「帰ってから気づいたんだけど、翌朝には出発で。そのままになってしまった。ごめんね」
彼は困ったように眉を下げた。
責めたいわけではなかったのに、謝らせてしまった。
「お仕事ですし、わたしにお伝えする必要はないのですけれど……」
「うん」
「でも、しばらくお会いできないなら、知っていたかったです」
言ってから、膝の上で指を重ねた。
これでは、会えなくて寂しかったと言っているようなものだわ。
ルシアンは黙って、口元に手を当てた。
「……笑っています?」
「ごめん。嬉しくて」
「嬉しい?」
「僕がいないことを、気にしてくれていたんだなと思って」
そこまで言われると、顔を上げられない。
彼は向かいの席から立つと、わたしの隣へ腰を下ろした。
「寂しかった?」
「……少しだけ」
小さな声で答える。
この気持ちをごまかしたくない。
「仕事の確認は、きちんとしていただけました。でも、ルシアンにお話ししたいこともあったので」
「僕も、会いたかったよ」
顔を上げると、彼は優しく微笑んでいた。
「隣国で面白いものを見つけるたびに、エレノアに見せたいなって思ってた」
「……本当ですか?」
「本当。今度出かけるときは、ちゃんと伝えるね」
そう言って、彼の手がわたしの頭にそっと触れた。
優しく撫でられて、肩に力が入る。
「待っていてくれて、ありがとう」
「……もう」
それ以上、何も言えなかった。
手が離れると、少しだけ名残惜しいと思ってしまう。
彼が顔を覗き込んでくる。
「それで、どんな話をしようと思ってたの?」
わたしはようやく、話したかったことを一つずつ話し始めた。
***
帰りの馬車に乗ってからも、頬の熱が引かなかった。
『僕も、会いたかったよ』
あの言葉を思い出すと、口元が緩んでしまう。
頭に触れた手も、近くで見た笑顔も、何度も思い返していた。
仕事の話ができるから、一緒にいて楽しい。
それだけなら、今回こんな気持ちになることはなかったはず。
「わたし、ルシアンが好きなんだわ」
胸が高鳴る。
会える日を楽しみにしていたことも、知らないところへ行ってしまったのが寂しかったことも、ようやく理由がわかった。
窓の外に目を向ける。
彼も会いたかったと言ってくれた。
それが、わたしと同じ気持ちだったらいいのに。
***
数日後、商談のためにヴァレンティ商会を訪れると、従業員の方が執務室へ案内してくれた。
「ちょうど、前の商談が終わったところかと思います」
「ありがとうございます」
廊下を進んでいると、執務室の扉が開いた。
姿を見せたのは、黒髪を綺麗にまとめ、深緑色の服をきた女性だった。その後ろから、ルシアンも出てくる。
「ルシアン、この前はご馳走してくれてありがとう。あのお店、本当においしかったわ」
「気に入ったならよかった」
「次に隣国へ来たときは、私がご馳走するわね」
「楽しみにしてる」
わたしは少し足を緩めた。
彼のことをよく知っているように見える。
……なんだか、お似合いだわ。
胸の奥がちくりと痛む。
「あ、エレノア」
こちらに気づいたルシアンが、笑顔で近づいてきた。
「ちょうどよかった。紹介したかったんだ。ラングレー商会の代表、セシリア・ラングレーさん。隣国で長く取引している方だよ」
「初めまして。エレノア・ベルフォードです」
「セシリア・ラングレーです。ベルフォード商会のお名前は、私の国でも最近よく耳にしますよ」
「本当ですか?」
「ええ。ルシアンからも、優秀な商人だと聞いていました」
思わず彼を見ると、当然だと言うように頷いた。
「だって、本当のことだから」
嬉しい。
わたしのいないところでも、そんなふうに話してくれているなんて。
嬉しいのに、それよりも先ほどの二人の会話が気になってしまう。
「それでは、私はそろそろ。ルシアン、さっきの条件で一度持ち帰るわね」
「うん。返事を待ってる」
セシリアさんはわたしにも微笑んだ。
「ベルフォード嬢も、隣国へいらしたときには、ぜひ声をかけてください」
「はい。その際は、よろしくお願いいたします」
感じのいい方だった。
隣国の商人として、お聞きしたいことだってある。
それなのに、彼女の後ろ姿を見送りながら、ほっとしてしまった。
そんな自分が、嫌になる。
その後は、ルシアンとの面会だ。
「次回はこちらを三割ほど増やして――」
「三割?」
ルシアンに聞き返されて、わたしは書類を見直した。
「……ごめんなさい。一割です」
「うん。少し疲れてる?」
「いいえ。考え事をしてしまって。申し訳ありません」
わたしは数字を指で確かめ、改めて説明した。
大事な商談なのだから、集中しなくては。
そのあとは間違えることなく話を進められた。
話が終わると、胸の奥のもやもやが浮き出てくる。
わたしと知り合う前から、彼には彼の付き合いがある。
わかっているのに、気になってしまう。
帰り際、彼が声をかけた。
「エレノア、今日は帰ったら少し休んでね」
「ありがとうございます。大丈夫です」
心配そうに見つめられて、申し訳なくなった。
理由を説明する勇気はなかった。




