第十四話 閑話 失ってから気づくもの
エレノアとの離婚が成立してから、数か月が経った。
「……またか」
執務室に届いた書類を読み、私は眉を寄せた。
差出人はベルフォード家の顧問弁護士、ベイクだ。次の支払期日と金額が、丁寧な文面で記されている。
持参金の返還に、エレノアへの慰謝料。それとは別に、ベルフォード商会から借り入れた資金の返済もある。
一括では支払えないため、離婚の際に期限と支払い方法を取り決めた。私も確認し、署名したものだ。
「わかっている。わかっているが……」
書類を机に置き、今月の支出と照らし合わせる。
屋敷の維持費、使用人の給金、領地の修繕費。どれもなくせるものではない。
無理な条件を突きつけられたのではなく、至極当たり前の条件だ。
借りたものを返し、こちらに非があった分を支払う。そう説明されれば、反論のしようがない。
それでも、手元に残る金額を見ると頭が痛くなった。
以前なら、エレノアに相談していた。
取引先を紹介してもらう。条件を確認してもらう。それでも足りなければ、父親に融資を頼んでもらえばよかった。
今は、その新たな融資を断られている。
一度だけでも、と頼んでも、返ってくるのは同じ答えだ。
離婚すれば支援を失う。それくらい、承知していた。
だからこそ、すぐには応じられなかったのだ。
だが、実際に金を用意しなければならなくなってみると、思っていた以上に厳しい。
彼女は、どうやって毎回話をつけていたのだろう。
私は椅子にもたれ、しばらく書類から目を逸らした。
***
その日の午後、クラリッサが執務室を訪ねてきた。
「アーヴィン様。少し、お話がありますの」
「何だ?」
「お店のことですわ。新しい香水を仕入れたいのですけれど」
また、店の話か。
机の上の書類へ視線を落としてから、私は彼女を見た。
「先月も仕入れたばかりだろう?」
「ええ。でも、今あるものだけではお客様が飽きてしまいますわ」
クラリッサの香水店は、開店当初こそ評判になった。
隣国から取り寄せた香水に、華やかな内装。彼女自身に会いに来る客もいた。
だが、最近は売上が落ちていると聞いていた。
新しい品を入れればよくなると言うので金を出したが、また同じ相談をされている。
「今ある商品はどうするんだ?」
「いずれ売れますわ。新しい香りが入れば、お客様も戻ってきますもの」
「……いくら必要なんだ?」
彼女が口にした金額に、私は思わず顔をしかめた。
「今は、そんなに出せない」
「どうしてですの?」
「レインハルト家にも余裕がないんだ」
「でしたら、ベルフォード商会から――」
「もう借りられないと言っただろう」
強い声が出た。
クラリッサは口を閉じたが、すぐに不満そうに眉を寄せる。
「では、こちらのお金でなんとかしてくださいませ。お店をこのままにはできませんわ」
「その余裕がないんだ。まずは、今ある商品を売ることを考えたらどうだ」
「売るために新しい商品が必要なのです。目新しいものがなければ、お客様は来てくださらないでしょう?」
「だからといって、売れないまま仕入れを続ければ、在庫が増えるだけじゃないか」
「……私のやり方が間違っているとおっしゃるの?」
彼女は私を見つめた。
以前なら、その顔を見るとすぐに言葉を和らげていた。機嫌を損ねたくなかったし、喜ばせてやりたかった。
今だって同じ気持ちだ。
けれど、頼まれた金額を出せば、ほかの支払いに回す金が足りなくなる。
「とにかく、今すぐには出せない」
「……わかりましたわ」
返事とは裏腹に、彼女は唇を引き結んでいた。
そのまま部屋を出ていくのを、私は引き止められなかった。
静かになった机の上には、先ほどと同じ数字が並んでいる。
何一つ、片付いていなかった。
***
数日後、貴族たちの集まりに顔を出した。
離婚について尋ねられるのが煩わしく、以前よりも足が重い。
それでも、家のために人付き合いを疎かにするわけにはいかなかった。
「そういえば、レインハルト伯爵。ベルフォード商会は、ずいぶん調子がいいそうですな」
グラスを手にした年配の男に声をかけられ、私は身構え、顔に笑みを貼り付ける。
「……そうですか」
「隣国との取引にも力を入れているそうで。エレノア・ベルフォード嬢が中心となって進めていると聞きましたよ」
「エレノアが?」
思わず聞き返すと、男は頷いた。
「ええ。取引先との交渉もお上手だそうですな」
「私も聞きました。ベルフォード氏も心強いでしょう」
隣にいた男まで会話に加わる。
私は曖昧に相槌を打った。
実家へ戻り、商会を手伝っていることは知っていた。
だが、隣国との取引まで任されているとは知らなかった。人から評判を聞かされるほど、うまくやっているのか。
「父親譲りなのでしょうね」
そう答えて、グラスに口をつけた。
自分で言いながら、引っかかるものがあった。
父親譲り。その一言で済ませてしまったが、私は彼女自身の働きをどれだけ知っていたのだろう。
結婚していた頃、私が頼んだことを実際に引き受けていたのは、エレノアだった。
『わかりました。父に聞いてみますね』
何度も聞いた返事を思い出す。
あのあと彼女は手紙を書き、資料を取り寄せ、条件を確かめていた。返事が遅れれば、私の催促も受けていた。
私は結果を聞くだけだった。
そのために彼女がどれだけ時間を使っていたのか、考えていなかった。
話題が変わっても、私はうまく会話に戻れなかった。
***
屋敷へ戻ると、執務室の机に向かった。
取引条件を見直せば、少しは負担を減らせるだろうか。
この仕入れ先よりも、条件のいいところを――。
「エレノア……」
口にしてから、顔を上げた。
返事があるはずもない。
私は手にしていた書類を置いた。
困れば彼女に尋ねる。その癖が、まだ抜けていないらしい。
商会のことなど父親に任せればいい。
伯爵夫人として、もっと覚えることがあるだろう。
私はそう言いながら、自分に必要なときには商会とのつながりを頼っていた。
彼女が嬉しそうに話す商売の話には、ろくに耳を傾けなかった。
あの頃、どんな話をしていたのだったか。
新しい取引先だったか。それとも、地方からの注文だったか。
思い出そうとしても、途中で話を切り上げたことばかりが浮かぶ。
「……何をしていたんだ、私は」
彼女がいなくなって困るのは、ベルフォード商会からの金が入らなくなるからだと思っていた。
それだけではないことに今更気づくなんて。
あの家との間に立ち、私の頼みを一つずつ形にしていたのは、エレノア自身だったのだ。
机の上には、確認を待つ書類が積まれている。
今度は、私が考えなければならない。
ペンを取ったものの、すぐには動かせなかった。
今日会った男たちは、エレノアの働きをよく知っていた。
約二年、一番そばにいた私は。
彼女に頼み事をする以外に、どれほど話を聞いていただろう。




