第十三話 彼と二人で
数日後、わたしはヴァレンティ商会を訪れていた。
「こんにちは、エレノア。お待ちしていました」
「こんにちは、ヴァレンティさん」
名前を呼ばれて、少しだけ頬が緩む。
この前は驚いてしまったけれど、今日はきちんと返事ができた。早く慣れたいわ。
用意してきた資料を机に広げ、次に送る商品の数量を確認する。
売れ行きは良いけれど、だからといって急に増やしすぎると在庫を抱えることになる。先方から届いた報告をもとに、一つずつ相談していった。
「こちらは、このくらいまでなら継続して用意できます。追加する場合も、少し時間をいただければ」
「それなら、まずはこの数量で進めましょう。輸送の手配も間に合います」
「はい。それでお願いします」
話がまとまって、ほっと息をついた。
気になることをその場で尋ねられるし、彼も曖昧にせず答えてくれる。わたしも、できることと難しいことをきちんと伝えようと思える。
「エレノアと話していると、楽しいですね」
書類を揃えていた手が止まった。
「商談が、ですか?」
「もちろん、商談も」
「……も?」
顔を上げると、彼は楽しそうに笑っていた。
「それ以外のお話も、ですよ」
そう言われると、なんだか照れてしまう。
わたしも楽しいです、と言おうとしたのに、うまく言葉が出てこなくて手元に目を落とした。
そうだ。今日は、お礼を伝えようと思っていたのだった。
「先日のお菓子、とてもおいしかったです。父にも分けたのですけれど、喜んでおりました」
「よかった。お口に合ったんですね」
「ええ。ありがとうございました。わたしからも、何かお礼をさせてください」
「お礼ですか?」
彼は少し考えてから、わたしを見た。
「このあと、お時間はありますか?」
「はい。今日は商会へ戻るだけですから」
「では、お茶に付き合ってもらえませんか。近くに、気に入っている店があるんです」
「それで、お礼になるのでしょうか?」
「僕が嬉しいので。それで十分ですよ」
そんなふうに言われたら、断る理由なんてない。
わたしは頷いて、書類を鞄にしまった。
***
案内されたのは、商会から少し歩いたところにあるお店だった。
扉を開けると、焼き菓子の甘い香りがする。木の机や椅子が並ぶ店内は落ち着いていて、窓辺にはやわらかな日が差している。
「素敵なお店ですね」
「でしょう? 一息つきたいときに来るんです」
窓際の席へ案内され、向かい合って座る。
書類の代わりに置かれたメニューを見ながら、
商談とはちがうのだから当たり前なのに、少し不思議な気持ちになった。
このあとは、何を話してもいいのよね。
紅茶とお菓子を注文すると、彼が尋ねた。
「エレノアにも、気に入っているお店はありますか?」
「ええ! 大通りから少し入ったところに、おいしいケーキのお店があるんです」
思わず声が弾んだ。
昔から好きなお店で、商会の用事で近くを通ると、つい足を向けてしまう。
どんなケーキが好きか話していると、彼が笑っていることに気づいた。
「……わたし、お菓子の話ばかりしていますね」
「聞いていて楽しいですよ。今度、僕も連れていってもらえませんか?」
「もちろんです。ぜひ、食べていただきたいです」
「では、楽しみにしています」
次に一緒に行く場所が、決まってしまった。
わたしがおすすめしたお菓子を、彼も好きになってくれたら嬉しい。
運ばれてきた紅茶に口をつけると、ふわりと香りが広がった。
「商談をしているときとは、表情が違いますね」
「そうですか?」
「ええ。さっきまで真剣な表情をしていたのに、今はとても柔らかい顔をしている」
そんなに楽しそうにしていたのかしら。
カップを置くと、彼はわたしを見て微笑んだ。
「そういう笑顔、僕は好きですよ」
「……そういうことを、さらりとおっしゃるのですね」
「本当のことですから」
困った。なんと答えればいいのかしら。
頬が熱くなって、わたしはお菓子へ目を向けた。おいしそうだと思っていたのに、今は食べるタイミングまでわからない。
「エレノア、僕のことも、名前で呼んでもらえませんか?」
顔を上げると、彼は真剣な顔をしていた。
「名前、ですか?」
「僕だけ呼ばせてもらっているので。もちろん、無理にとは言いません」
わたしはずっとヴァレンティさんと呼んでいる。
彼の名前は知っているのに、いざ口にしようとすると、少し勇気がいる。
「……ルシアンさん」
小さな声になってしまった。
けれど、彼にはきちんと聞こえたようだ。
「はい。嬉しいです」
そんなに嬉しそうに笑わないでほしいわ。こちらがさらに照れてしまう。
わたしはごまかすようにお菓子を一口食べた。
甘さを感じて、ようやく肩の力が抜けた気がする。
それからは、好きな食べ物や、仕事のない日に何をしているかを話した。
幼い頃に父について商会へ行ったことを話すと、彼も商売が好きなのだと教えてくれた。
「お父様のお仕事についていくのが、楽しみだったんです。知らないものを見るのも、お話を聞くのも好きでしたから」
「それは、今も変わらないんですね」
「ええ。知らない土地のことを教えていただけるのも、とても楽しいです」
彼が話してくれる街や市場の様子を聞きながら、いつか自分の目でも見てみたいと思った。
質問を重ねても、彼は丁寧に答えてくれる。
気づくと、窓から差し込む光が夕方の色に変わっていた。
***
「今日は、付き合ってくれてありがとう」
店を出ると、彼がそう言った。
「こちらこそ。楽しくて、つい長居してしまいました」
「僕もです。また、こんな時間を作れたら嬉しいな」
「ええ。次は、わたしのおすすめのお店ですね」
「約束ですよ」
迎えの馬車の前で、わたしは彼に向き直った。
「それでは、また。ルシアンさん」
名前を呼ぶと、彼が微笑んだ。
彼は、わたしをエレノアと呼んでくれる。
わたしも、もう少し近づいてみてもいいかしら。
「……ルシアン」
呼び直すと、彼は一瞬目を見開いた。
それから、先ほどよりも嬉しそうに笑った。
「またね、エレノア」
わたしは頷いて馬車に乗り込んだ。
走り出した窓の外で、彼が見送ってくれている。姿が見えなくなるまで、そちらを見ていた。
次は、どのケーキをおすすめしようかしら。
彼の好きなものも、もう少し聞けばよかった。
鞄を膝に置いて、わたしは今日の話を思い返した。
商談の結果は、お父様にきちんと報告しなくては。
今は、名前を呼んだときの彼の笑顔が、頭から離れない。




