第十二話 名前を呼ばれるということ
ヴァレンティ商会との取引が始まって、数週間が経った。
お父様にも確認してもらい、まずは少ない種類の商品を隣国へ送っている。
現地からの報告が届くたびに、ヴァレンティさんと次の取引について話し合う。最近は商談の合間に、仕事以外の話をすることも増えていた。
今日も、わたしはヴァレンティ商会を訪れている。
「こちらの商品は、思っていたより売れていますね」
「ええ。先方からも、次の入荷について問い合わせが来ています」
差し出された報告書を見ながら、わたしは思わず微笑んだ。
あれだけ資料とにらめっこして選んだ商品だもの。気に入っていただけたのが嬉しい。
「それなら、次は少し量を増やしてもよさそうですね」
「僕もそう思います。輸送については、こちらで確認しておきます」
「ありがとうございます。わたしも、用意できる数を確認しますね」
話し合った内容を書き留め、書類をまとめる。
今日もお父様に、よい報告ができそうだわ。
「そうだ、ベルフォード嬢。こちらをどうぞ」
顔を上げると、ヴァレンティさんが小さな箱を差し出していた。
綺麗な包み。何かしら。
「隣国のお菓子です。よかったら召し上がってください」
「いただいてもよいのですか?」
「ええ。この前、甘いものがお好きだと話していたでしょう」
たしかに、そんなお話をした記憶がある。
商談のあとに出していただいたお菓子が美味しくて、つい好きなものの話になったのよね。
「覚えていてくださったのですか?」
「もちろん。こちらでも評判のお菓子なので、お好きかなと思って」
わたしの方へ箱を寄せると、彼はにこりと笑った。
仕事のお話ならともかく、あの何気ない会話まで覚えていてくださったのは素直に嬉しい。
「ありがとうございます。いただくのが楽しみです」
受け取った箱を、両手で持つ。
中のお菓子を崩さないように、鞄の上の方へ入れましょう。
書類とは分けて収めていると、向かいから小さく笑う声がした。
「そんなに大事にしてもらえるなら、選んでよかった」
「いただいたものですもの。大切に持って帰りたいのです」
そう答えると、彼は嬉しそうに目を細めた。
なんだか、わたしまで照れてしまう。
***
帰り際、次の打ち合わせについて確認し、わたしは立ち上がった。
「では、資料が揃いましたらご連絡します。本日もありがとうございました」
「こちらこそ。またね、エレノア」
鞄を持つ手が止まった。
……気のせいでなければ、いま、名前で呼ばれた?
顔を上げると、ヴァレンティさんもこちらを見ていた。
少しの間、二人とも黙ってしまう。
「……失礼しました。つい、名前で呼んでしまって」
「いえ、驚いただけですから」
慌てて答えた。
嫌だったわけではないの。ただ、これまでずっとベルフォード嬢と呼ばれていたから。
彼は少し迷うように口を閉じたあと、改めてわたしに向き直った。
「エレノアと呼んでもいいですか?」
そんなふうに、きちんと聞いてくださるのが、ヴァレンティさんらしい。
わたしは鞄の持ち手を握り直し、小さく頷いた。
「はい。構いません」
「ありがとう。では、またね、エレノア」
今度は、わたしを見て微笑みながら呼んでくれた。
胸のあたりが、なんだかくすぐったい。
「はい。また、ヴァレンティさん」
いつも通りに挨拶したつもりだったけれど、少し声が小さくなってしまった。
わたしはもう一度頭を下げ、迎えの馬車へ向かった。
***
商会に戻り、お父様への報告を終えてから、机の上に小さな箱を置いた。
包みを丁寧に開くと、焼き菓子が綺麗に並んでいる。
「まあ、美味しそう」
一つ手に取り、口へ運んだ。
ほろりと崩れて、優しい甘さが広がる。とても美味しい。
もう一つ食べようとしたところで、扉を叩く音がした。
「エレノア、先ほどの資料を……おや、お茶の時間だったか?」
「お父様。ヴァレンティさんがお菓子をくださったの。一ついかが?」
箱を差し出すと、お父様は中を見て、それからわたしの顔を見た。
「そうか。楽しそうだな」
「ええ。とても美味しいのよ」
お父様は一つ受け取り、笑った。
「それはよかった。資料はあとでいいから、少し休みなさい」
「ありがとう」
扉が閉まってから、わたしはもう一度箱へ目を落とした。
美味しいから嬉しい。それは、もちろんそうなのだけれど。
わたしが好きだと話したことを覚えて、選んでくださった。それが嬉しいのだわ。
次にお会いしたら、きちんと感想をお伝えしたい。
そう思うと、別れ際の声が浮かんだ。
『またね、エレノア』
次からは、彼にそう呼ばれるのを想像してしまう。胸の奥がくすぐったい。
わたしは頬に手を当て、少し冷めた紅茶を口にした。




