6. 新しい生活
森の家は二階建てだ。
二階には寝室が二つある。
私が普段使っていたのは、東南向きの主寝室。
朝日がよく入り、風通しもいい部屋だった。
部屋の中央には天蓋付きの寝台が置かれている。
以前、両親と暮らしていた屋敷で使っていたものとよく似た形だ。
バルコニーも広く、朝の光を浴びながら過ごす時間がとても好きだった。
隣には客間として用意された寝室がある。
そこには屋敷から運んだアンティークの鏡が置かれていた。
この家には階段が二つある。
一つはリビングから。
もう一つはダイニングから。
扉を閉めれば一つの階段しかないように見える造りになっている。
それに――
隠し出口もある。
この家は、もともと私の両親が用意してくれた隠れ家だった。
万が一、戦争や宗教争いなどで身の安全が脅かされるようなことがあったとき、逃げるための場所。
実家の屋敷にも同じような隠し通路がある。
曽祖父の時代は、まだ国内情勢が不安定だったらしい。
結局、それらが使われることはなかったけれど、子どもの頃の私は隠し通路を見つけるのがとても得意だった。
両親はそのことを、誰にも話さないよう私に固く約束させた。
そんな家で育った私は、建物の設計図を見るのが大好きな子どもだった。
淑女としては少し型破りだったかもしれない。
私が落書きのように描いた「こんな家に住みたい」という設計図を、両親は大事に取っておいてくれた。
それを建築家に見せて、この森の家が作られたのだという。
初めてこの家を見たときのことを、私はよく覚えている。
聖女候補としての生活から離れる寂しさで、ずっと泣いていたはずなのに――
気がつけば、家の中を夢中で探検していた。
遠くへ行くのだと思っていた森の家は、実は屋敷の裏庭のすぐ先にあった。
それだけでも、私の心は少し軽くなった。
思い出の詰まった家だった。
けれど。
長く日本で暮らしていた今の私にとって、この家での一人暮らしは少し心細かった。
夜になると、音がほとんどしない。
静かすぎるのだ。
日本では、いつも何かしらの音があった。
人の気配も、街の気配も。
それがないことに、今の私は少し怖さを感じていた。
ふと気づくと、頬を涙が伝っていた。
私は袖でそれを拭うと、キャリーケースを開いた。
まず取り出したのは、折りたたみ式のソーラーパネル。
それから、手回し式のランタン。
「これがあれば、なんとかなるわね」
ランタンにスマートフォンをつなぎ、ハンドルを回す。
ヴー……と、小さな振動音が響く。
静かな部屋では、その音が妙に大きく感じられた。
少しずつ充電が回復していく。
それを確認して、ほっと息をついた。
スマートフォンの電源を切る前、私は機内モードにしていた。
電波を探して無駄に電池を使わないようにするためだ。
それでも、いつまで使えるのか分からない。
中には、日本での思い出の写真がたくさん入っている。
それだけでも、できるだけ長く残しておきたかった。
日本の両親は、今どうしているだろう。
私が飛行機に乗らなかったことに気づいているだろうか。
それとも、この世界の時間がずれていたように、向こうでも何か変化が起きているのだろうか。
そんなことを考える。
日本でも私は二十年、生きてきた。
あちらの両親は、本当に私を愛してくれていた。
泣いていないだろうか。
そのことを思うと、また涙がこぼれた。
短い時間の間に、いろいろなことが起きすぎた。
自分でも気づかないうちに、不安が積み重なっていたのだと思う。
頭も少しふらふらする。
私はベッドに横になり、スマートフォンの画面を指でなぞった。
電波はない。
けれど、保存してある音楽は聴ける。
再生ボタンを押す。
荷造りをしながら聴いていた、大好きな曲が流れ始めた。
その音に包まれながら、私はこれからのことを考えた。
曲が終わるころには、涙は止まっていた。
体はまだ重く、私はそのまま眠りに落ちた。
目を覚ますと、部屋の外は明るくなり始めていた。
無意識にスマートフォンを手に取る。
表示された時間は夜の八時。
「あ……」
日本時間だ。
そう思い出すまで、少しだけ時間がかかった。
ベッドの寝心地があまりにもよくて、一瞬、何が起きているのか分からなくなったのだ。
体を起こすと、キャリーケースが昨夜のまま置かれている。
中には日本から持ってきたものが詰まっている。
カップ麺。
味噌。
乾燥大豆。
豆乳が大好きな私は、それまで持ってきていた。
「そりゃ重いわよね」
思わず笑ってしまう。
けれど、その重さのおかげで、少し心が軽くなった。
お腹が鳴った。
昨日はスープを少し飲んだだけだった。
それでも日本の食材は、いざという時のために取っておくことにした。
私はそれらをチェストの一番下にしまい込んだ。
階下へ降りる。
暖炉に火を入れ、残っていたスープを温める。
庭からハーブを摘み、ハーブ水を作る。
顔を洗って、ダイニングへ戻った。
今日は、この家でゆっくり過ごそう。
夕方になったら、街の家へ行ってみる。
この世界に戻った理由は、まだ分からない。
そして日本へ戻る方法も。
けれど、もし戻れないのだとしたら――
私はこの国で生きていくことになる。
以前の私は、お金を稼ぐことなど考えたこともなかった。
けれど今の私は違う。
私は私であって、以前の私とは違う。
この国を、自分の目で見て生きていかなければならない。
森の家は、私にとってゆりかごのような場所だ。
けれど同時に――
新しい生活の始まりでもある。
「さて」
私は小さく息を吐いた。
「何ができるか、考えないとね」
荷物を整理しながら、これからの生活を考え始めた。




