5. 森の家
鐘の音が消えると、森の音が戻ってきた。
小鳥のさえずり。
風に揺れる木々のざわめき。
庭の花やハーブが触れ合う、かすかな音。
そのすべてが、懐かしかった。
まるで昨日も聞いていたような気がする。
けれど実際には――
二十年以上ぶりに聞く音だった。
私は窓辺のロッキングチェアに体を預けた。
思い出した記憶と、まだ整理しきれない現実。
その両方に、心も体もついていけない。
途端に疲れが押し寄せてきた。
「あ……そうか」
ふと気づく。
「日本の時間では、まだ深夜三時くらいだものね……」
早朝便に乗る予定だった私は、ほとんど寝ていない。
私の体は、まだ夜のままだった。
優しい風が窓から入り込む。
花の香りが漂う。
気がつけば、私は眠っていた。
森の家。
以前の私がそう呼んでいたこの場所は、庭に囲まれた小さな木造の家だった。
ログハウスのような外観で、広めのダイニングキッチンと、小さなリビング。
そして二つの寝室がある。
リビングからはバルコニーへ出られ、屋根付きの小さなデッキもあった。
春や秋の穏やかな日には、ここでお茶を飲むのが好きだった。
この国には、日本ほどはっきりとはしていないけれど四季がある。
今は春。
夜はまだ少し冷えるけれど、木々は花をつけ始めている。
桜や梅に似た花が咲く頃になると、「花まつり」が開かれる。
街では平民たちが歌い、踊り、子どもたちは甘い菓子を買って歩く。
貴族たちは屋敷のバルコニーからその様子を眺めるだけ。
私は、そのどちらでもなかった。
森の家に移ってから、街へ出ることはほとんどなかった。
この家を知っている人は限られている。
日用品は、森の近くにある小さな家で受け渡しをしているし、家族に会うときも私が出向く。
だからここには、誰も訪ねてこない。
静かな場所だった。
その静けさの中で、私は夢を見ていた。
祖母の夢だった。
祖母は鍋をかき混ぜながら、よく歌を歌っていた。
どこか外国の歌。
「これはね、魔法のスープなの」
祖母は笑いながら言った。
「璃里衣が、ずっと元気でいられるように」
そういえば、こちらの世界で私が作っていたスープを食べた時、なんだかすごく懐かしい気持ちになった。
そうだ、祖母のスープととよく似ているんだと気づいて、私はとても驚いた。
日本とこの世界では、食材も違うはずなのに。
それでも味は、どこか同じだった。
祖母の歌声を思い出そうとしたけれど、うまく思い出せない。
夢の中で祖母と話していた気がする。
けれど、内容は覚えていなかった。
目を覚ますと、窓の外は虹色の夕焼けだった。
「あ……」
思い出す。
この世界では、まれにこんな空になる。
虹色の夕暮れ。
それは「時の架け橋」と呼ばれていた。
日本の夕暮れは、朱と紫のグラデーション。
けれど、この国では、ときどきこんな不思議な空になる。
私はランタンに火を灯した。
白い電灯ではない、やわらかな光。
それが、なぜか安心する。
「さて……どうしようかな」
改めて温め直したスープを飲みながら考える。
鳥居はもうないだろう。
あの場所に戻れるとも思えない。
そのとき、ふと思い出した。
私はまだ、日本の服を着ている。
この国の女性は基本的にスカートか、裾の広い服を着る。
パンツスタイルは珍しい。
私はクローゼットから平民服を取り出した。
「これなら目立たないわね」
着替えて外へ出る。
そのときだった。
遠くに、レモン色のものが見えた。
「……え?」
近づく。
そこには――
レモン色のキャリーケース。
そして、私のバックパック。
昨夜、日本で持っていた荷物だった。
「……一緒に来ちゃったんだ」
キャリーケースを持ち上げる。
「重い……」
思わず笑う。
あれほど重かった荷物。
でも今は、それが嬉しかった。
中には、大好きな本も、スパイスも、食べ物も入っている。
日本の思い出が、全部詰まっている。
私はそれを引きずりながら森の家へ戻った。
小石に引っかかって大変だったけれど、心は軽かった。
私は死んでいない。
日本で生きた二十年も、夢ではなかった。
その証拠を、今こうして家へ運んでいる。
森の家へ戻ると、ロッキングチェアに腰を下ろした。
テーブルの上にはカード。
今の私を確認するために、一枚引く。
ソードの六。
困難からの旅立ち、新天地への移動。
今の私をそのまま表しているカードだった。
私はどうすべきなんだろう。
続けてもう一枚引く。
カップの八。
精神的な旅立ちを意味するカード。
過去ではなく、未来へ進めと告げている。
「そうか……」
私は小さく笑った。
「これから、どうしようかしら」
夜は静かに更けていった。




